ここからが本番
短編です
この人と付き合ってよかった。海を眺めながら、コーヒーをすすって一息つく。そんな優雅な朝を迎えている自分が、信じられない。
つい数年前までブラック企業で働いていたとは思えない生活の豹変ぶりだわ。
あの頃は、成果を出すことだけに集中していた。成果を出さないと、人間として扱ってもらえなかった。時間なんて関係なく、とにかく契約先を見つけるまで家に帰れないなんて日はざらだったし、後輩で、一旦忘れ物を取りに家に帰った子は、その姿を目撃されて減給騒ぎになったことがある。
そんな最中、久しぶりの休みに入った居酒屋で知り合ったのが、今の彼だ。
若くして会社を立ち上げて、社長をしているなんて、私の人生には無い選択ばかりで、初めて会った時はそんなすごい人がいるんだな、なんてぼんやり思ったものだ。
行きつけの居酒屋で、いつものように飲んでいただけでそんな人と出会えて、まさか旅行に行くような間柄になるなんて、思ってもみなかった。
ブラック企業で働いてはいたけど、その分お金を使う場面がなかったおかげで、貯蓄だけは沢山あったから、すぐに彼に促されて会社を辞めた。あの時の選択は間違いじゃなかったんだわ。
それからしばらくは、彼との生活を楽しんで、彼が私に会社を紹介してくれた。彼の会社の子会社にコネのような形で入れてもらったんだけど、その会社が、あまりにも良い会社で、休日は週二日もくれるし、家賃補助なども出してくれる。こんな幸せがあっていいんだろうか。
幸せと言えば、彼は一体いつになったら結婚の話を出してくれるんだろう。付き合いを始めてからもう2年になる。彼は二十代だけど、私はもう四十近い。そろそろ身を固めて、両親を安心させたい。と言っても、私の両親はすでに他界しているんだけど。
でも、彼を急かすことはできない。彼のお母さんは、病気で入院しているらしく、手術のためにお金を稼がないといけないらしい。
社長をしていても、社員に手厚い保証をしているから、自分は薄給なんだと言っていたことがあった。社長ってみんなお金持ちなのかと思ってたけど、そうでもないんだなぁ。それなのに、海の見える素敵なホテルに連れてきてくれるなんて・・・。なんて良い人なんだろう。
「おはよ、よく眠れた?」
寝ぼけた声の彼が起きてきた。
「あ、コーヒーいいな、俺も飲もうかな」
人懐っこい子犬のような顔。あぁ、この人と結婚出来たら良いだろうなぁ。
「結婚したいなぁ」
あら、私口に出していたかしら・・・。
「え?」
「あ、いやっなんでもないの」
慌てて訂正すると、彼がじっと私を見つめてきた。
「ごめんね、今は母さんの容態があんまりよくなくて・・・」
「あぁ、いいのよ!いいの!私こそごめんね、こんな素敵なところに連れてきてくれたのに、変なこと言って」
彼は申し訳なさそうに手を合わせると、コーヒーを取りに行くと言って、私の額にキスを落としてくれた。やぁねぇ、若い子はそういうことさらっとやっちゃうんだから。
それにしても、彼は本当に優しくて、良い人だわ・・・。あれ、そう言えば、お母様なんの病気って言ってたかしら?今更ながら、聞いてなかったわね。最近私も歳だから、病名にはそれなりに詳しいし、私の知ってる病院とかお薬とか、何か役に立てないかしら?
「ねぇ、そう言えばお母様ってなんのご病気だったかしら?」
——変ね、どうして焦るの?——
今さらながら、本番が始まります!




