その妻、返却不可。新しい夫と幸せになります
元サヤ無しの話です。
口頭で謝罪されても、傷ついた心を理解しようとしないなら、許せないよね……。
■噂とすれ違いの結婚■
「彼女は、僕がかつて家庭教師をしていた子だ。真面目で、気の優しい子だよ。
そして、なにより、緑魔法の使い手でもある。君の領地を必ず豊かにしてくれるはずだ」
そう言って、元・上司が伯爵家の令息ハインリヒに紹介したのは、悪い噂が絶えない令嬢だった。
後妻が産んだ義妹を虐め、奔放でわがままで、男癖が悪いという。貞淑さを求めた婚約者を罵倒して義妹に押しつけたというのだから、始末に負えない。
だが、母に可愛がられている次男と差をつけるために、緑魔法の使い手を嫁にするのは使えると思った。
案の定、結婚の話をしたら、迷っていた父が自分を後継者に指名してくれたのだ。
ハインリヒは王都で挙式だけ済ませると、新妻をタウンハウスに残し、すぐさま一人で領地に帰った。
結婚するまでは経験を積むために王城務めをしていたが、結婚を機に父親から爵位を譲り受けることができたので。
(母のような女だ……)
結婚式でベールを上げた瞬間、長いまつげの奥から覗く緑の瞳に、言いようのない妖しさ――魔性を感じた。
青年の母もまた、美貌と嘘で多くの人を振り回してきた。その母を信じ、庇い続ける父親にも失望している。
そう、だからこそ、同じ轍は踏まないと決めていたのだ。
結婚する当事者以外には、妻の父親と、二人を引き合わせたノイマンの二人だけ。
社交シーズンしか王都に来ないハインリヒの家ならともかく、王都住まいで友人の一人もいないのか。
義母と義妹が欠席とは、普段どれだけ酷いことをしているのか……この悪女を引き取ってあげるのは、慈善事業なのかもしれない。
父になぜ花嫁を連れてこないのかと尋ねられ、こんな田舎には来ないよと答えた。
「母さんに似て、華やかな人なんだな」と呑気に笑うので、失笑を漏らすしかなかった。
ところが――。
半年後、社交シーズンに王都へ戻ったハインリヒの目に映ったのは、見る影もなく痩せ細った妻の姿だった。
どういうことか、執事と家政婦長を問い詰めると――屋敷にいる使用人たちが一丸となって、妻に虐待を加えていた。
「すまなかった……!」
そう詫びると、妻はただ一言。
「ノイマン様を呼んでください」
ミヒャエル・ノイマンは、彼女を紹介してくれた上司だ。
「いや、それは……まず、栄養のあるものを食べて、体力をつけてから」
「ノイマン様を呼んでください。何が入っているかわからないものを、これ以上食べたくありません」
そうは言っても、こんな状態の彼女を見せるわけには、いかない。
「落ち着いて話し合おう」
「ノイマン様が同席されないなら、一言もしゃべりません。何かあったら、いつでも相談するように言われています」
仕方なく青年が元・上司を屋敷へ招いたその日、妻は彼とともに屋敷を出て行った。
■試される償い■
「戻ってきてほしい」
青年ハインリヒ・メッツラーは、元・上司ミヒャエル・ノイマンの屋敷へ赴き、妻テレーゼを見つめた。
だが、テレーゼは冷ややかに答える。
「食事もろくに与えられず、罵倒され続けました。
実家と同じ……でも、まだ実家の方がマシでしたわ。
食べられる木の実や草の場所くらいは知っていたから」
「……! もう、二度とそんなことはさせない!」
「あなたの目がないところで、私がまた同じ目に遭わない保証はどこにありますの?
あなたは結婚式の時だって、目も合わせようとしなかった。
私の存在自体が不愉快なのでしょう? ならば、ここで縁を切った方が、お互いのためです」
「使用人たちが、そんなに君を傷つけていたとは……」
ハインリヒは信頼を裏切られたと感じた。
横からノイマンの厳しい声が飛んだ。
「まるで自分も被害者だと言わんばかりだな。
噂はデタラメだと伝えたはずだ。自分でも調べればすぐに分かることだったろう?」
ハインリヒはすがりつくように、懇願した。
「――どうか、もう一度だけ、チャンスをください」
テレーゼは少し黙って考えてから、問いかける。
「あなたの使用人たちは、私が戻ることなんて望んでいないのでは?」
「みんな反省している! 君に謝罪したいと言っている」
ハインリヒは自分の熱意が通じたのかと、勢い込んで手を握ろうとした。
テレーゼはそれを拒絶するために、両手を隠す。
ノイマンは彼女を守るように、腕を二人の間に差し込んだ。
「それが許されるか、落ち着いて考えなさい」
テレーゼは眉間に皺を寄せて、信じられないという表情を作る。
「……だったら、私が受けたのと同じ待遇で、一ヶ月暮らしてみてください。
それでも、私に戻れというのなら、その時は話し合いに応じましょう」
テレーゼと契約している緑の妖精が、審判役としてハインリヒにつけられた。
■一日で折れた覚悟■
ハインリヒは、一ヶ月耐えてみせると決意を固めて、屋敷へ戻った。
早速、使用人を集め、妻にしたのと同じように自分を扱えと命じた。
妻に帰ってきてもらうためだと説明すると、反省して協力しようという人間と、ふてくされている人間がいるのがよくわかる。
ふてくされたままなら、彼女が戻る前に解雇することを検討しよう。
まず、着替えをしようと侍従が近づくのを待っていたら、妖精が止めた。
「だめだめ。侍従に頼んではだめ。一人で着替える」
侍女に確認すると、花嫁衣装は脱がせたが、翌日から何もしていないという。
仮にも貴族の女性だぞ、と怒鳴りつけた。
食事をとろうとすると――
「肉とサラダは禁止。スープは薄めて、冷やして。今日はそのパンでいいけど、数日後には、カビたパンを出してよね」
料理長はわざわざ、カビたパンを作っていたのか。そんな手間を……。
風呂に入ろうとすれば、
「入浴は週に一度、もっと温くなってから。髪の毛も自分で乾かす」
用意されていた寝間着は妖精が汚し、自分で衣裳部屋に取りに行けと命令された。
ベッドをめくるとカエルが飛び出した。
カエルなんか恐くはないが、シーツが湿って気持ち悪い。
翌朝、侍従が洗面ボウルにピッチャーから冷たいままの水を乱暴に注いだ。辺りに飛び散って、不愉快極まりない。
「メイドから、朝の支度をどうしていたか、聞いて参りました」
侍従は妖精の顔を見て、これでいいだろうと挑戦的な表情を浮かべた。
妖精は親指を立て「合格! でも四日目からは、それも無しだよ」と。
――そんな生活を半年も送らせていたのかと、青年は激怒した。
「なんだこれは! こんなことをするとは……使用人として許されると思っているのか?!」
そして、その場で使用人たちを一斉に解雇した。
御者もクビにしたので、徒歩でノイマン邸へ向かった。
使用人に整えさせたときのようにはいかず、どこかくたびれた身なりのまま、膝をついて謝意を表す。
「使用人もすべて解雇しました。どうか……どうか、やり直しをさせてください」
「たった一日も保たないなんて。
どれだけ私が辛かったかという説明を、軽く聞き流していたのですね……悲しいですわ」
テレーゼは呆れたように言う。
「あなたは全て使用人の責任だと考えているのね?
もし、あなたが他の人の家を訪ねて、使用人に冷たくされたらどう思いますか?
使用人のせいでしょうか。それは、その家の主人があなたを蔑ろにしていると感じるのではないですか?」
ハインリヒは、今、ようやく気がついたようだ。
「責任を使用人に押し付けて、なかったことにしようなんて……軽蔑します」
しかし、テレーゼの顔には、蔑視や嫌悪といった表情すら浮かんでいない。
もう、ハインリヒに期待することは何もないのだと、悟るしかなかった。
ノイマンが静かに言った。
「正義感の強い君なら、彼女を義母や義妹から守ってくれると信じていた。
……だが、君には失望したよ」
そこにノイマンの母親である伯爵夫人が入ってきた。
病み上がりのテレーゼの面会は終わりだと、ハインリヒに離婚届に署名させてから、追い出した。
自己嫌悪に陥りながら、とぼとぼと家に帰る。
後先考えずにクビにしてしまったので、自分専用の従僕が一人しか残っていなかった。
さらに、紹介状もなく出て行くハメになった腹いせか、退職金代わりか……いくつも家財を持ち逃げされてしまったそうだ。
「すみません。私一人では、どうすることもできませんでした」
従僕にそう言われ、もう文句を言うこともできなかった。
■数年後の幸せと悔恨■
数年後。
王都の広い公園で、ハインリヒは見覚えのある女性とすれ違った。
元の妻テレーゼ、そして彼女の隣には、幼い娘と、手を繋ぐ元・上司ミヒャエル・ノイマンの姿があった。
少女が緑の妖精を追いかけて遊んでいる。
意地悪く不気味な顔をしていた妖精が、ただのいたずらっ子のように笑っていた。
「あんな状態になる前に、僕に助けを求めてくれたら……。あの時、君のやせ細った姿を見て、心臓が止まるかと思った」
ミヒャエルがそう愚痴ると、テレーゼはくすりと笑って答えた。
「あなたと結ばれる未来がないなら、そのまま儚くなってもいいかしらって思ったの」
「……やめてくれ。そんなこと、言わないでほしい」
「あなたこそ、他の人に押しつけるなんて酷いわ。『やめてくれ』は、私の台詞よ」
妻はむくれて見せ、夫は眩しいものを見るように目を細める。
「僕は君の家庭教師だったんだぞ。十歳も年上の僕なんか……」
それほど裕福でもない伯爵家の三男。学費は出してもらえたが、欲しいものは自分で稼いで買う必要があった。
「今となっては、たったの十歳よ。
母が日に日に弱っていく中であなたが励ましてくれたこと、喪が明けてすぐに愛人を後妻にした時に憤慨してくれたこと、忘れたことはないわ。
そのせいで家庭教師を辞めさせられて、きっと困ったわよね?
あなたが成人のお祝いを持って訪ねてきてくれなかったら、実家で何をされていたか……」
ミヒャエルは身震いして、愛しい妻を後ろから抱きしめた。
生家から救い出したはいいが、そのまま自分が保護していたら、令嬢としての評判を落とすかもしれない。
すぐにでも結婚できる男性の中から、最善の相手を選んだつもりだった。
「僕は貴族籍を持っているけれど、あの娘は平民になる。
君も離婚したときに生家に籍を戻さなかったから、一度平民になっているけど……あんなにあっさり構わないと言うと思わなかったよ。
メッツラー伯爵を紹介したころの僕には、君に、自分たちの子どもが平民になっても大丈夫かと相談する勇気がなかった」
「そうね……。
離婚したときは、貴族として死ぬか、平民として生きるか――って考えていたわ。
あのね、あなたと生きられるなら、身分なんかどっちでもいいのよ」
テレーゼの肩に、ミヒャエルが顔を埋めた。
彼の頭を優しくなでながら、囁く。
「だいたい、メッツラー伯爵だって、面子のために好きでもない私と復縁したいと縋るなんて……貴族って大変。お気の毒だと思ったわ」
娘と妖精が戻ってきて、二人の周りをぐるぐると回り出した。
「いちゃいちゃ?」「イッヒ リーベ ディッヒ、っひ~(愛してます)」
ミヒャエルはようやくテレーゼを腕の中から解放し、手を繋ぐことにする。
もう片方の手は娘の手に。
幸せな家族は、ハインリヒ・メッツラーに気付くことなく、また散策を続けるのだった。
メッツラー伯爵は、噂を信じ、妻を失った。
その妻の噂はねつ造されたものだと、自分が笑われるのも気にせず、様々な場所で話をする。
元妻の実家グリューナハト子爵家がテレーゼを虐待していたことを証言して、子爵家を社交界の片隅に追いやった。
彼らは信用を失い、徐々に、経済的にも困窮し始めている。
――あの時、見抜けなかった分の償いをするかのように……。
それを眺めながら、ミヒャエルは思う。その手腕を買ってテレーゼを託したのに、発揮するのが遅かったな……と。
そして、テレーゼは社交界に出ないことを選んだので、ハインリヒの贖罪を目にする機会はない。
娘が平民になる将来を見据えて、物心つく前にノイマン邸を出て下町で暮らし始めるくらい、色々なことを先回りして考えている。
ハインリヒを紹介したときには、若い二人が幸せになることを願っていた。
だが、あの単純な青年が、噂を鵜呑みにする危険性を、自分は本当に考えなかったか?
彼女から助けてくれと言われるのを待っていたのでは……。
男も年を取ると、狡猾になるのかもしれない――幸せになった男は、密かにそう思った。
あの日、メッツラー家で、テレーゼがミヒャエルにすがりついてか細い声で「先生ぇ~」と泣く姿を見たハインリヒが、恋に落ちたことには気がついていた。
……やはりな。テレーゼはハインリヒの好みだと思っていたよ。
まあ、今となっては、もう――どうでもいい話だ。
ハインリヒの母が自分に似ている次男を可愛がっているので、父はどちらを後継者にするかなかなか決められませんでした。
女主人が遊び歩いて使用人をちゃんと教育していないので、メッツラー家の使用人の質はあまり良くなかったりします。
すっきりして、いただけましたでしょうか?
【追記】
ランキング2025年8月11日 日間・総合・すべて15位、短編9位でした。
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