失意の軌跡 - ある経済学徒の最後の日々
プロローグ
私の名前は佐藤玲。28歳。そして今、私は死のうとしている。
いや、正確に言えば、死にゆく過程の中にいるのかもしれない。心臓の鼓動が、ゆっくりと、しかし確実に弱まっていくのを感じる。どこか遠くで、救急車のサイレンが鳴っているような気がする。でも、もう遅いだろう。
「なぜ、こんなことに...」
かすれた声が、薄暗い部屋に響く。散らかった机の上には、経済学の教科書や論文が山積みになっている。その隣には、空になった睡眠薬の瓶。
目の前が徐々にぼやけていく。意識が遠のいていく中で、私は自問する。
「経済学に、何が足りなかったのだろう...」
第1章 - 大学院生活の始まり
5年前、私は希望に胸を膨らませて、この大学院の門をくぐった。経済学、それは世界を動かす力を理解する学問。そう信じていた。
「きっと、ここで真理を見つけられる」
当時の私は、そう確信していた。学部時代の成績は決して芳しくなかったが、それでも何とか院試をクリアし、憧れの大学院にこぎ着けた。
最初の頃は、全てが新鮮だった。高度な理論、複雑な数式、そして世界経済の動向を分析する授業。私は必死に食らいついていった。
しかし、すぐに現実が私を襲った。
「佐藤君、この程度の理解では話にならないよ」
指導教授の厳しい言葉が、今でも耳に残っている。確かに、私の理解は浅かった。数学的な基礎が不十分で、理論の本質を掴みきれていなかった。
それでも、私は諦めなかった。夜遅くまで図書館に籠もり、理解できるまで何度も何度も教科書を読み返した。しかし、成果は思うように上がらない。
「なぜだ...こんなに努力しているのに...」
徐々に、自信が崩れていくのを感じた。周りの学生たちは、難解な理論を軽々と理解し、鋭い質問を投げかける。そんな彼らの中で、私はただただ取り残されていった。
第2章 - 現実世界との乖離
2年目に入った頃、私は一つの違和感に気づき始めた。
授業で学ぶ経済理論と、現実の経済現象との間に、どこか大きなギャップがあるように感じたのだ。
特に印象的だったのは、ヘッジファンドの動向だった。
「なぜ、彼らは教科書に書かれていることとは全く異なる行動を取るのだろう？」
私は疑問を抱えたまま、指導教授に相談してみた。
「佐藤君、理論と現実にズレがあるのは当然だ。しかし、我々の役割は理論を精緻化することだ。現実の個別事象に惑わされてはいけない」
教授の言葉は、私にはどこか空虚に聞こえた。
その頃から、私はヘッジファンドの運用者たちが書いた本を読み漁るようになった。彼らの思考プロセス、市場を見る目、そして直感的な判断。それらは、私が学んでいる経済学とはかけ離れていた。
「これだ...経済学に足りないのは、この現実世界の複雑さを捉える視点なんだ」
そう確信した私は、自分なりの研究テーマを見つけようと必死になった。現実の市場動向と理論のギャップを埋める、新しい経済学の枠組みを作り出すこと。それが私の目標となった。
しかし、その道のりは険しかった。
第3章 - 孤独な探求
3年目。私の研究は、周囲から理解されないどころか、軽蔑の目で見られるようになっていた。
「佐藤君の研究は、学術的な価値が見出せない」
ゼミでの発表後、教授からそう言われた時の屈辱感は今でも鮮明に覚えている。
確かに、私の研究は従来の経済学の枠組みからはみ出していた。ヘッジファンドの実践的手法と、行動経済学、そして複雑系科学の知見を組み合わせようとする試み。それは、伝統的な経済学者たちには、ただの寄せ集めにしか見えなかったのだろう。
「でも、これこそが現実の経済を理解する鍵なんだ」
私はそう信じて、孤独な探求を続けた。夜な夜な、ヘッジファンドのマネージャーたちの著書を読み漁り、彼らの思考プロセスを分析した。数学的モデルだけでは捉えきれない、人間の直感や心理的要因。それらを組み込んだ新しい経済理論の構築を目指した。
しかし、周囲の冷たい視線は、次第に私の心を蝕んでいった。
「やはり、私には才能がないのか...」
自信を失いかけた時、一筋の光明が差し込んだ。ある著名なヘッジファンド・マネージャーが、私のアイデアに興味を示してくれたのだ。
「君の視点は面白い。経済学と実務の架け橋になる可能性がある」
その言葉に、私は再び希望を見出した。しかし、それも長くは続かなかった。
第4章 - 崩れゆく心
4年目。私の精神状態は、急速に悪化していった。
研究の行き詰まり、周囲からの孤立、そして自信の喪失。それらが重なり、私は深い落ち込みを経験するようになった。
「もう...何もできない」
そんな言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けた。
睡眠障害に悩まされるようになったのは、この頃からだった。夜になっても、頭の中は研究のことでいっぱいで、なかなか眠りにつけない。そんな日々が続いた。
「少し、薬の力を借りよう...」
最初は軽い気持ちだった。処方された睡眠薬を飲めば、ぐっすりと眠れる。翌日は頭もすっきりして、研究に打ち込める。そう思っていた。
しかし、現実は違った。薬の副作用で、日中もぼんやりとしてしまう。授業にもついていけず、研究の進捗も芳しくない。
「このままじゃ...駄目だ」
焦りと不安が、さらに私を追い詰めた。薬の量は、徐々に増えていった。
そんな中、唯一の救いだったのは、あのヘッジファンド・マネージャーとの対話だった。彼は、私の研究に対して建設的なアドバイスをくれた。
「理論と実践の融合は、簡単ではない。でも、君なら可能性がある」
その言葉に、私は何とか踏みとどまった。しかし、大学院での評価は、ますます厳しいものになっていった。
第5章 - 最後の足掻き
5年目。修了の期限が迫る中、私は最後の足掻きをしていた。
「これさえ完成させれば...」
眠る間も惜しんで、論文の執筆に没頭した。私なりの新しい経済理論。それは、従来の数理モデルに、人間の心理や直感的判断を組み込んだものだった。
しかし、締め切りの2週間前。最後の壁にぶつかった。
「これじゃあ...足りない」
どこか、決定的に欠けているものがある。そう感じながらも、それが何なのか、つかめない。
焦りと不安で、私の精神状態は最悪だった。睡眠薬の量は、危険なレベルまで増えていた。
「もう...だめかもしれない」
そんな言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けた。
最後の審査会。私は震える手で資料を配った。
「佐藤君の研究は、確かに興味深い視点を含んでいる」
指導教授が口を開いた。一瞬、希望が湧いた。
「しかし、学術的な裏付けが不十分だ。このままでは、修了は認められない」
その言葉と共に、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
第6章 - 最後の日々
審査会から1週間。私は、自室に引きこもっていた。
「なぜ...なぜ分かってもらえないんだ」
怒り、悲しみ、そして深い絶望感。それらが入り混じって、私の心を支配していた。
睡眠薬の瓶を見つめながら、私は考え続けた。
「経済学に足りないもの...それは何だったんだ？」
答えは出ない。ただ、薬の影響で、思考がどんどん混濁していく。
意識が遠のいていく中、私は最後の思考を巡らせた。
「経済学...人間...社会...全てを繋ぐもの...それは...もう少し時間があれば、証明できたのに...」
答えが見えかけた瞬間、私の意識は完全に闇に沈んだ。
エピローグ
気がつくと、私は見知らぬ世界にいた。
「ここが...新しい人生の始まりか」
混乱と期待が入り混じる心。そして、不思議な既視感。
私は、エルフの赤ちゃんとして生まれ変わっていた。
前世の記憶、そして経済学への思いは、深く心の奥底に沈んでいる。しかし、それらは確実に、この新しい人生に影響を与えていくだろう。
「今度こそ...答えを見つけ出すんだ」
そう心に誓いながら、私...いや、リューンは新たな世界での第一歩を踏み出した。
（続く）
