2.放置された人形
カヤという存在を知って以来、わたしは秘密を抱えて暮らす後ろめたさと、それに伴う楽しさに、すっかり病みつきになってしまっていた。
麦にすら話せないこの関係は、深めれば深めるほど、まるで自分が大人になっていくような錯覚に見舞われる。いつか、誰かに気づかれて、叱られる日が来るかもしれないと分かっていても、わたしは誰にも内緒でカヤに会いに行くという遊びを止められなかった。
幸いなことに、カヤは約束を守ってくれた。誰にも話さないでというわたしの願い通り、猫柳博士にも話すことなく、わたしの訪問を受け入れてくれていた。
カヤが、わたしとの交流を本当に楽しみにしてくれているのかは、実のところ分からない。書籍によれば、機械人形というものは、作った人間たちの望み通りに受け答えをするものらしい。それに照らすならば、カヤの受け答えも、わたしを喜ばせるためのものだとも言えるだろう。
でも、だとしても、わたしはカヤとの交流を止められなかった。カヤはわたしの唯一の友達だった。対等な立場で話せる相手というものは、どうしようもないほど甘美なものなのだ。それを知ってしまった以上、もう後には戻れなかったのだ。
「──つまり、カヤはわたしよりもずっと前に猫柳博士に作られたのね?」
昼下がりの二、三時間。それが、カヤとわたしに与えられた交流の機会だ。毎日ではなく、数日に一度。だが、限られているからこその事だろう。たった数回の面会で、わたしはカヤの事をたくさん知ることが出来た。
この日、新しく知ることが出来たのは、カヤが生まれた頃のことだった。ここに置かれるようになって三年ほどは経っているという話は出会った初日にすでに聞いたけれど、具体的にいつ頃に作られたのかについては、初めて知れた。
「はい。今から三十年ほど前、猫柳博士は、まだ博士になるより前の少年の頃より、蝶の翅を持つ機械人形の開発を始めました。そして五年後、ついに完璧な妖精の人形の再現として、わたしは完成したのです。当初より、自立型の機械人形は珍しくありませんでしたが、その中でもわたしは本物の魂を宿して生み出されたとして、学界でも高く評価されました」
「本物の……魂?」
問い返すわたしに対し、カヤは無表情のまま頷いた。
「はい。ですが、その評価は正確なものとは言えません。魂というものは、今の世でもその正体を掴むことは出来ません。その定義を生きた肉体に宿る意識であるとするならば、人々の評価は間違っていると言わざるを得ません」
「……でも、カヤは物事を考えたり、それを伝えたりすることは出来るんだよね?」
「はい、それは可能です」
「だったら、博士たちの言う通り、カヤにも魂は宿っているんじゃないかな?」
少なくとも気休めなどではなく、本気でわたしはそう思っていた。というのも、カヤとこうやって会話をする機会が増えれば増えるほど、彼女の気持ちというものを意識してしまうようになったからだ。
カヤはどう思っただろう。わたしの言葉を聞いて、彼女はガラス玉の目をこちらに向けてきた。その奥に微かに見えるカメラのレンズを瞳のように絞り、そしてぽつりと呟くように言ったのだった。
「現時点では、魂の定義には、正解というものがありません。燐火がそうおっしゃるのでしたら、そういうことにしておきましょう」
優しげなその口調に、わたしはホッとした。
「それにしても、わたしより先に作られていたってことは、わたしよりもお姉ちゃんってことだね。わたしが作られていた時も、何なら、孵化した時や蛹になる時も、この屋敷にいたって事だよね?」
「はい、その通りです。かつては、夜の眠りの時をここで、目覚めた時はここの裏にある温室で過ごしておりました」
「……温室!」
きっと、わたしが過ごしているところだったのだろう。
「天気のいい日はこの蝶の翅を広げ、太陽光で充電していたのです。そして、緋桐様や猫柳博士と対話をし、学習を重ねておりました」
「緋桐様たちとも仲が良かったんだね。わたしが生まれた頃の事は覚えている?」
「はい、覚えております。わたしの記録に照らし合わせますと、燐火は発生から孵化まで順調にいった四番目の例となるはずです。その発生と孵化、蛹化の日も、猫柳博士との会話より、全て記録しております」
「そ、そうなんだ。凄いね」
「ありがとうございます。この記録が何かのお役に立てるのでしたら幸いです」
役に立つかどうかはともかくとして、会話を記録出来ているのは素直に羨ましい。そのくらい、何かを憶えるという事は、時にわたしにとっては大変なことだからだ。
「博士とも色々会話をしてきたんだね。じゃあ、今も研究を手伝っていたりするの?」
ふとした疑問を投げかけると、カヤは静かに首を振った。
「いいえ。ここしばらくは違います」
「違う? どうして?」
「状況が変わったのです。どうやら、わたしは緋桐様と博士にとって、失敗作だったようなのです」
「失敗作? あなたが?」
とても、そうは見えなかった。生きているように動く機械人形。心を宿していると信じずにはいられない彼女。受け答えを繰り返せば繰り返すほど、その精巧さに感心することはあれども、口が裂けても失敗作だなんて言えない。
「とてもそうは見えないよ。何かの間違いじゃないの?」
「いいえ、間違いではありません。確かにわたしは機械人形として高く評価されました。けれど、飽く迄も機械人形として、だったのです。当初の目的であった、魂を宿す人形としては、至らない点が多すぎました。そのうち、博士たちは結論に至ったのです。『やはり、生体に勝る再現はない』と。今より三年前の事です」
──生体に勝る再現。
その言葉を心の中で反芻した時、わたしはふと三年という歳月について振り返った。
今から三年前、何があっただろう。忘れもしない。特別なことがあった年だ。わたしが無事に羽化した年。初めて羽化まで至れたわたしを緋桐は涙ぐみながら迎えてくれた。あの輝かしい日の事が、カヤが放置された時期と重なる事に気づき、嫌な汗が浮かぶ。
──もしかして、カヤは、わたしのせいで……?
茫然としていると、カヤは不思議そうに首を傾げた。
「どうしました、燐火?」
澄み切ったガラス玉の目で見つめられ、わたしは慌てて首を振った。
「ううん、何でもないの」
真正面から向き合うには、相当な勇気が要りそうな真実の断片。そんなものが見えてしまった気がしたけれど、今は忘れる事にした。
「カヤはわたしが小さい頃も知っていたのね。わたしは全然知らなかった。知っていたらきっと、もっと早くからお友達になっていたでしょうに」
「それはどうでしょう。緋桐様や博士は、青虫時代の燐火がわたしと親しくなることを、お許しにならなかったかもしれません」
「だとしても、わたしが勝手にお友達になるからいいの」
今みたいに、と言いそうになって、わたしは口を噤んだ。そんなわたしの様子を見つめ、カヤは相変わらず不思議なものを観察するような眼差しを向けてくる。
「それよりも、カヤ。カヤなら、緋桐様や博士のことを、わたしよりもたくさん知っているのかしら」
「それは、燐火がどのくらい彼らの事を知っているかによります」
「わたしは……そんなに知らないと思うの。いつからこのお屋敷に暮らしているのかとか、どうして蝶の翅の妖精の研究を始めたのかとか、わたしの知らないところでは、どんな顔をしているのかとか……色々」
「それについては、わたしも全てを知っているわけではありません」
淡々とカヤは言った。
「ですが、わたしの中に今も残る彼らとの会話記録は、もしかしたら、あなたの興味を引くかもしれません」
「教えてくれるの?」
思わず飛びつくわたしに、カヤは落ち着いた様子で頷いた。
「はい、言ってはならないとは命じられておりませんので」
「ありがとう、じゃあ、さっそく──」
と、言いかけた時、準備室の中でアラーム音が響き渡った。
我に返り、時計を見つめる。どうやら今日も、ここへ来て二、三時間の時が過ぎたらしい。わたしは渋々ながら心を落ち着かせ、カヤに言った。
「次に会いに来た時にでも聞かせてくれる?」
カヤはこくりと頷いてくれた。