4.未来への羽ばたき
慣れない場所、慣れない視線、慣れない空気、慣れない暑さ、慣れない匂い。
それだけでも緊張するのには十分すぎる。緊張が高まると具合が悪くなるものなのだと、ここへ来てわたしは初めて知る事となった。
それだけ、これまでのわたしは周囲の人間たちに守られてきたのだろう。
スポットライトも、熱気も、人々の視線も、これらは常日頃、緋桐や猫柳博士が当たり前に向き合っているものと変わらないらしいが、今のわたしにはあまりにも刺激的過ぎた。
それでも、取り乱さずにいられたのは、こちらに向けられる人々の視線が決して厳しいものではなかったからだろう。マイクを手に取り、延々と語る猫柳博士の姿もまた、時間が経つにつれ段々と興が乗っていく。この場に慣れてくれば、わたしの翅の震えもいずれ止まるだろう。
わたしに向けられる人々の視線には、隠しきれない好奇心で満たされていた。それはしょうがない事だ。だが、決して鋭すぎず、朗らかであることは幸いだった。彼らは敵ではない。妖精を愛し、その復活を願ってきたという博士の同志でもあるのだから。
そんな彼らに無事に羽化したこの姿を披露することは、今のわたしに出来る最大限かつ重要な貢献なのだという。その言葉に、心から納得できる空気が流れていた。
博士の短い説明の後、前々から用意していたスピーチを、博士と変わらぬ人間らしい振る舞いで行っただけで、聴衆からはどよめきが生まれた。それは恐らく、このように流暢に話し、挨拶が出来る妖精というものを、人々が長らく見てきていなかったからだろう。
それだけ、妖精という存在は忘れられていたのだ。
そして、本来ならば、今も忘れられたままであったかもしれない。
スピーチを終え、わたしの脳裏に浮かぶのは、壇上でわたしを生み出す研究の内容と敬意、そして様々な失敗を含む結果を発表する猫柳博士のことだった。
彼がわたしを生み出した表向きの理由は、こうして世間へ再び生きた妖精を見せることだった。だが、本当の理由はそうではなかった。ともすればわたしは今も、屋敷の中で、ただひたすら緋桐だけを喜ばせるために過ごしていたかもしれないのだ。
それが、そうならなかった。
──これは喜ばしい事よ。
思い出すのは控え室での事。博士と共に壇上にあがる準備を麦と一緒にしていた時の事だ。緋桐にだけ喜ばれるための準備しかした事のなかったわたしに、この度は多くの人々に披露されるための準備を施された。
派手過ぎず、けれど地味過ぎない。舞台映えのする衣装を着せられ、背中の翅の様子も麦に整えられながら、そっと言い聞かせられたのだ。
──あなたという存在が、多くの人に知ってもらえる。素晴らしい事なのよ。
そう言いつつ、麦はどこか切なそうだった。
今も、舞台裏からわたしの晴れ姿を見守ってくれているはずだけれど、その姿を確認することは難しい。わたしが見なければならないのは、わたしの姿に期待を寄せる人々の姿だった。
こちらに向けられるその眼差しには、かつて諦めかけた人々の夢が詰まっている。その夢に応えて振舞う事こそ、ここに立つと決心したわたしの務めでもあった。
「……そして、こちらが燐火の遺伝的母親。皆さんもご存じかと思われる、我々の愛した妖精──勿忘草です」
猫柳博士がそう言うと、スクリーンにはあの姿が映し出される。
勿忘草。緋桐の心に今も居座り続けるわたしの母。
「彼女が惜しまれつつこの世を去った後もなお、彼女の血は遺されておりました。そして、ようやく花開くことが出来たのです。燐火は勿忘草ではありません。彼女のコピーではなく、あくまでもその血を引く娘。けれど間違いなく、勿忘草の命を受け継ぎ、未来へ伝える存在となり得るでしょう」
博士が語る中、わたしは静かに勿忘草の写真を見つめた。
背中の翅は、彼女譲りだ。目鼻立ちの細かい部分も、似ているといえなくもない。母であるという実感はいまだに薄いけれど、それを知った今ならば親近感を持つのも当然のこと。しかし、勿忘草の顔を見て思い浮かぶのはそれだけではない。彼女の姿には、自分のルーツとは全く違う思い入れが、わたしの中にも出来ていた。
「──ですが、勿忘草が遺したものは遺伝子だけではありません。彼女の記録、そしてやり取り、思い出といったものもまた、彼女に関わった人々の中に大きく残されております。脳の記憶をそっくりそのままコピーし、何処かに移してしまうという技術は、まだまだ課題が多い状況ですが、我々にも出来る事はありました。それだけ、勿忘草に心を奪われた人たちは多かったのでしょう。彼女に関する情報は膨大で、それらを全て電子データにすることも容易かった。そして、それは、この愛らしい姿もまた同じ」
博士はそう言って、手元に置かれたベルをチリンと鳴らした。
すると、舞台の袖が少しだけ騒がしくなった。さりげなくそちらに目をやると、そこで待機していた緋桐と視線が合った。
ほぼ無表情に近い彼女の顔を見ていると、わたしの脳裏にはあの日の事が浮かんだ。
──今、なんと?
蜘蛛型ロボに取り囲まれた狭い廊下。その少し前まで烈火のごとく怒っていた緋桐の切なげな表情。思い出せる限り思い出したその光景のなかで聞こえるのは、猫柳博士の驚いたような声だった。
──緋桐さん、今、なんとおっしゃいました?
わなわなと震えながら訊ねる先で、緋桐は深く息を吐いた。振り返るその顔は泣いていた。その涙を隠す事もなく、彼女はわたし達に言ったのだ。
──取りやめます。その子を手放すことは。
落ち着いたその声に、わたしもまた震えてしまった。
緋桐は言った。
──思い知らされました。私は逃げようとしていたのだと。勿忘草。彼女はもう戻ってこない。その事実を認めることがあまりに辛くて、それでも心の何処かでは諦めきれなくて。感情のままに遠ざけることしか出来なかったのでしょう。
そんな自分を最も許せなかったのが、緋桐自身だったのかもしれない。けれど、カヤはそれでも彼女を嫌いになれなかった。彼女を求め続けたのだ。わたしがどうあっても緋桐の事を嫌いになれないように。これはもしかしたら、勿忘草が持っていた緋桐への感情でもあったのかもしれない。
緋桐はわたし達に言った。
──こんな私であっても、あなた達は一緒に居続けてくれるの?
頷けないはずもなかった。
「さあ、こちらへ。皆さん知っての通り、緋桐さんです。私の研究をずっと援助してくださっている恩人です。そして、彼女と手を繋いでこちらへ歩いてくるのが──」
と、猫柳博士の紹介の中、緋桐はわたしの前を横切っていく。その手を引いていた彼女は、わたしの前で立ち止まると、今度はわたしと手を繋いだ。
「私の自慢の娘の一人、カヤです。彼女には生きた勿忘草の記録が詰め込まれている。必要とあれば、それを語る事も出来る。我々にとって、なくてはならない存在です」
博士の紹介を受け、カヤはちらりとわたしを見つめてきた。この舞台に立つ経験があるのだろう。わたしに比べて全く緊張を見せていない。余裕すら感じる笑みを薄っすら浮かべ、彼女はそのまま聴衆へと視線を向けた。
勿忘草と同じ顔。けれど、どこか違う。明らかに作られた人形であるからというわけではない。一卵性の双子で、同じ顔であっても、よく見ればどこか違うように、スクリーン上の勿忘草とカヤにもわずかな相違があった。
ぎゅっと手を繋ぎ、共に前を見つめる中、博士は言った。
「生きた機械人形の研究に私が没頭している事は、ここにいらした皆さんも周知の事でしょう。母の代からの命の研究の一環でもありました。しかし、その好奇心による追究はあるところで行き詰まり、そのまま長らく止まっていたのです。そこが再び動き出したのは、私の娘たちの秘密の交流からでした。燐火との交流で、カヤの心はさらに繊細なものとなったのです」
人々は不思議そうにわたし達を見つめている。
「機械と生き物の間に、友情は生まれるのか。そのテーマは恐らく、かつて人類が抱いたという妖精と人間の間に絆は生まれるのかという疑問と比べ物にならぬほど、難解なものとなるでしょう。現に、今ここにいる皆さんの中には、疑わしく思っている人も多いことでしょう。かくいう私も半信半疑です。だが、だからこそ、私は知りたいのです。彼女たちの交流から、その答えを」
そこまで語りつつ、博士はやや視線を落とした。
「いえ、これは正確ではありませんでした。私が緋桐さんと共に、皆さんへ自慢の娘たちを紹介するに至ったのは、もっと単純な理由からでした。私は目撃したいのです。彼女たちの事を。彼女たちのこれからを。この世に産み落とした者として、その責任を緋桐さんと二人で果たしながら、この交流を見つめ続け、世間に伝えたいのです。解明、発見、可能性、理解、この発表に、皆さんがどのような意味を見出すのかは分かりません。意味がある事なのか、無意味なのか、それも分かりません。ただもしも、これから先も我々の研究に関心を寄せていただけるのであれば、どうかこれからも耳を傾けていただきたい。以上です」
博士が演説を終えると、拍手が起こった。
割れんばかりの拍手、と言うには少し物足りない。中には首を傾げている者もいる事だろう。だが、少なくともわたしは満足していた。
カヤと手を繋ぎ、見つめている先にあるのは未来だ。わたし達の新しい交流が、人々の役に立つかどうかさえも未知であるが、見つめる先には確かに希望もあった。
きっと、わたし達の姿はどんな形であれ、この背中の青い翅の色と共に、人々の記憶に強く残るだろう。
この世に妖精がいたことを忘れさせない事。その役目を二人で果たすことが出来るならば、この上ないことだ。
だが、わたしとカヤが願う事はもっと単純な事だ。
これからもずっと、あのお屋敷で、緋桐の心を支え続けたい。彼女の事を愛したまま志半ばで散ってしまった、勿忘草の名において。




