2.カヤの再起動
寒気がするほどに冷酷な複数の視線が、他でもないわたしへと向けられる。緋桐の短い指示が下ると、蜘蛛型ロボたちは目を光らせてこちらへ向かってきた。
相手は数体。一斉に向かってくるその様は、あまりに恐ろしい。思わず一歩、二歩と後ずさりをしたところで、わたしは気づいた。いつの間にか後ろにもいる。逃げ道はない。
「どうか勘違いしないでね、燐火」
緋桐が言った。
「私はあなたを嫌いなわけじゃない。あなたを愛している。傷つけたくはない。でも、譲れないものはあるの」
強い意志を伴ったその言葉、その眼差し。そこに含まれる支配的なものに、わたしは同じだけ強い抵抗を感じた。
「わたしだって……」
怯えを堪えながら、わたしも言った。
「わたしだって、緋桐様の事を嫌いなわけじゃないんです。あなたの事を愛しております。だけど、同じくらい、カヤの事も大事になってしまったんです。だから、これだけは譲れない。わたしから、カヤを奪わないで」
強い思いがこみ上げて、背中の翅が震えるように揺らいだ。すると、程なくして、近くにいた蜘蛛型ロボたちが戸惑う様子を見せた。わたしを恐れるように一歩、二歩と距離を置く。その反応に、わたしはふと猫柳博士の言っていたことを思い出した。
──鱗粉。
無自覚に飛ばしているそれ。屋敷のカメラを壊したというそれ。目には見えないが、なんとなくわたしにも分かる。周囲を防御するように漂っている。
これは人間の目にだって見えないはずだ。だが、蜘蛛型ロボたちの反応から察したのだろう。緋桐はふと顔色を変えた。
「あの子もそうだった」
先程までとは打って変わって、どこか恍惚とした様子で、緋桐は呟く。
「怒ったり、泣いたりした時、鱗粉対策が施されていない周囲の機械を壊してしまうの。それで、研究所にうっかり持ち込んだ携帯ゲーム機を壊されてしまって、子供たちみんなでがっかりしたことがあって……あの時、あの子は申し訳なさそうな顔をしていたわ」
懐かしそうに呟いたかと思うと、またすぐに表情を変え、手を伸ばした。
「恐れないで蜘蛛たち。あなた達には鱗粉対策が施されている。距離を保てば大丈夫よ。あなた達の役目は、古の化け蜘蛛のように勇ましく戦って、蝶の妖精を食べてしまう事ではないわ。博士はあなた達を心優しい捕獲者として生み出した。その通りになさい」
我が子に語り掛けるようなその指示に、蜘蛛型ロボたちは信号音を出しながらそれぞれ頷いた。そして、一斉にわたしを見つめてきたかと思うと、くるりと背を向けて、下腹部から投網を打ってきた。
──避けられない。
とっさに理解し、わたしはその場にしゃがみこんだ。前後から放たれた投網は、絡まり合い、大きな蜘蛛の巣となる。
覚悟を決めたわたしに出来る事は、翅と手で体を庇う事だけだった。直後、ずっしりと重たい網に覆われ、惨めな想いと共にわたしは床に這いつくばった。そんなわたしの傍へと近寄り、しゃがみ込むと緋桐は言った。
「私の事、恨んでもいいのよ」
そう言って、彼女は手を伸ばしてくる。網越しに頬を撫でられ、その温もり、感触に、情緒が乱されてしまう。
彼女への愛憎が入り乱れ、どうにもならない無念さと混ざり合って、心がぐちゃぐちゃだった。
「……恨みません」
辛うじて、わたしがそう言えた、その時だった。
「──緋桐さん」
ふと声が聞こえてきた。投網越しにその方向へと視線をやれば、蜘蛛型ロボの隣に猫柳博士がいた。隣には麦もいる。どちらも切なげな表情をしていた。
博士の手にはカヤに聞いていた通りの物体がある。予備のバッテリーだ。
「待っていたのよ、博士」
緋桐は立ち上がり、そう言った。
「さ、バッテリーをちょうだい。カヤに問い質さないと」
「カヤの再起動は私がやりますよ。それよりも、緋桐さん、燐火を離しておやりなさい。何重にもなった網の重さは、その子の体には辛すぎる」
「再起動が先よ」
そう言って緋桐が道を開けると、猫柳博士は溜息交じりに歩みだした。向かう先は、蜘蛛型ロボの一体に抱きかかえられているカヤのもとだ。
博士が近づくと、蜘蛛はそっとカヤの体を差し出した。周囲の蜘蛛型ロボたちに見守られる中、猫柳博士はカヤの背中にバッテリーを差し込んだ。
しばらくすると、カヤの指がわずかに揺らいだ。その後、背中の翅がわずかに震え、そして、瞼が開かれる。
「……博士」
カヤが喋ったその時、緋桐が大きく溜息を吐いた。目を逸らしている。その表情は、言葉を発するカヤを恐れているようだった。
「カヤ、気分はどうだね?」
博士が問いかけると、カヤは答える代わりに訊ねた。
「燐火……燐火はどこです?」
名前を呼ばれ、わたしはとっさにもがいた。
「ここ、ここだよ、カヤ」
暴れだすわたしを見て、緋桐が焦り出した。
「大人しくなさい、燐火。翅が傷ついてしまう」
諭すように言われたものの、従う気には全くならなかった。
そんなわたしの様子に緋桐は焦る。そこへ、猫柳博士から声がかかった。
「緋桐さん、燐火を放してやってはくれないかね」
その言葉を受け、緋桐は不服そうに息を吐いた。そっと立ち上がると後ずさりをして、緋桐は短く告げた。
「解放してやって」
淡々としたその命令に、蜘蛛型ロボたちが従った。繊細な足を使い、わたしを捕らえていた投網を持ち上げる。体の重みがなくなり、すぐに外へと這い出すと、わたしはそのままカヤのもとへと向かった。
「……カヤ!」
蜘蛛型ロボには構わずにその手を握ると、カヤもまた手を握り返してくれた。
「カヤ、大丈夫? わたしの事が分かる?」
「はい、燐火。またお会いできて嬉しいです」
けれど、カヤはすぐにわたしから目を逸らしてしまった。
「……ですが、これでお別れのようですね。燐火。あなたと過ごした時の事は、忘れません。約束です」
いやだ。そんな思いがこみ上げてくる。それなのに、口が動かなかった。ただただカヤに縋りつくことしか出来ない。
わたしの気持ちなど、カヤだってとうに分かっているだろう。けれど、彼女もまた頑なだった。
だがそこへ、隣にいた猫柳博士は言った。
「カヤ、君は燐火と過ごす時間が楽しかったようだね」
優しいその問いかけに、カヤは申し訳なさそうな表情を見せた。
「すみません、博士。言いつけを破ってしまって」
「その件に関してはすでに燐火から聞いているよ。君は悪くない。自分が無理やり連れだしたのだと彼女は言った」
「……だとしても、生みの親の博士、それに、主人である緋桐様の言いつけは絶対です。わたしは戻るべきでした。いくら、大事な友達の願いだったとしても」
反省した様子の彼女に対し、博士は軽く笑い、まるで親しい友を前にした少年のような眼差しで問いかけた。
「分かっていても、なお、夢中になってしまったのだね。カヤ、この屋敷の監視カメラの一部が壊れていた。心当たりはあるかね?」
博士の問いかけに対し、カヤはしばらく沈黙した。だが、やがて、根負けしたように、小さく答えた。
「……はい、確かにわたしの仕業です」
正直なその答えに、緋桐が眉を顰める。博士もまた苦笑を浮かべ、カヤをそっと撫でてから、その視線をちらりと緋桐へ向けた。
「聞いての通りだ、緋桐さん。監視カメラの一部が壊れてしまった。鱗粉対策をしていたのだが、その対策を突破されてしまったのだ」
「何が言いたいの、博士?」
冷ややかな緋桐の言葉にも怯まず、博士は穏やかな口調で言った。
「このままカヤを嫁に出せば、その行先で必ずやトラブルを起こすだろう。そうなれば、私だけでなく緋桐さんにも苦情がいく。この子にまつわる権限は緋桐さんにしかないが、私には生みの親としての責任があるからね」
「……それで、直すのにはどのくらいかかるの?」
緋桐の言葉は相変わらず冷たい。
だが、そんな彼女の態度に対し、博士はめげずに告げた。
「緋桐さん、答える前に、もう少しだけ、燐火の話を聞いてあげてくれないかね?」
手を揉む彼の言葉に、緋桐はしばらく沈黙した。だが、やがて、心を静めるように大きな溜息を吐くと、腰に手を当てて短く言った。
「分かったわ」




