1.妖精の反抗
かつて、わたしの先祖は、背中の翅を使って自由に空を飛ぶことが出来たのだという。同じ翅をわたしも持っているが、その使い方は誰にも教わっていない。緋桐はもちろん、猫柳博士だって、翅の構造や役割を知ってはいるが、それを持つわたしに対して飛ぶコツを教えられるほど詳しくはなかったのだ。
別に、飛べなくたって困りはしない。緋桐にその美しさを褒められるならば、それだけで十分だった。けれど、そんなわたしであっても、たまに空を行き交う飛行機や鳥たちが羨ましくなる事はあったし、庭を飛ぶ蝶の姿に思いを馳せる事もあった。それでも、今日、この時ほど、飛べない事を恨んだことはなかった。
──カヤ。
もつれそうなる足をどうにか動かして、わたしは廊下を走り続けた。生身の体はこうも頼りない。ちょっと走っただけで息があがり、咳がこみ上げてくる。
思えば昔からそうだった。蛹化する前から、博士の用意する薬用シロップが手放せなかった。今夜はそれを飲んでいない。だからだろうか。とても辛かった。
こういう時、自由に空を飛べたなら。走るよりも早く移動できるはずなのに。悔やんでも、恨んでも、何にもならないと分かっていながらも、わたしは何度もそう思った。そして、どうにか進み続けてしばらく、わたしはようやくその現場にたどり着いた。
時間としてはさほど経っていないだろう。楽しいことをしているならば、瞬きにも近しいほどの刹那の時刻。それでも、今のわたしにとってはあまりにも長かった。そして、恐らく抵抗していたのであろうカヤが、収納スペースから蜘蛛型ロボたちに引きずり出されるまでには十分な時間だった。
廊下にて、腕を組みながら蜘蛛型ロボたちの作業を見つめる人物がいる。緋桐だ。何処か冷ややかな表情で蜘蛛たちの働きぶりを見つめ、引きずり出されたカヤの様子を見つめていた。彼女に向って蜘蛛たちが何かを伝えようとする。その信号音は、言葉になっていないけれど、身振り手振りで何となく言わんとしていることはわたしにも分かった。緋桐も同じくそうだったのだろう。彼らの振る舞いに軽く頷き、呟くように言った。
「大丈夫。ただの充電切れよ。今、麦が博士を呼んでいるから」
そして、ふとしゃがみ込むと、動かないカヤの首筋にそっと触れた。
「随分と手古摺らせてくれたわね。あんなに従順だったあなたが、こんな場所に立てこもろうとするなんて。目を覚ましたら聞き出さないと。わたしの燐火を何処へやったのか」
その眼差しには、静かな怒りがあるようにも思えた。わたしの知らない緋桐。その表情に怖気づいてしまう。だが、勇気を出して、わたしは彼女に声をかけた。
「わたしはここです……緋桐様」
すると、緋桐はようやくわたしの存在に気付いたのだろう。こちらを見つめ、そして目を丸くした。
「……燐火!」
途端にその表情がガラリと変わる。
そこにいたのは、わたしの良く知る緋桐に違いなかった。
「一体何処に行っていたの? とても心配したのよ。ケガはない?」
心からの言葉だ。疑いようはない。それでも、わたしは言葉で答える代わりに首を軽く振り、そして、緋桐を真っ直ぐ見つめた。
「緋桐様、誤解なさらないで。カヤは何も悪くないのです」
「どういうこと?」
「わたしが……わたしがカヤを連れ出したんです。カヤが余所へ売られてしまうと聞いてしまったから──」
一度話してしまえば、言葉はとめどなく溢れてきた。
まさに、洗い浚いという言葉が相応しいほど、わたしは全てを緋桐に告白した。カヤを連れ出して、ここに隠した事も、蜘蛛型ロボを壊した事も、そして──。
「カヤと一緒に応接間の物置で、絵を見ました。勿忘草という人の絵です。カヤにとてもよく似ていました」
わたしの言葉を受け、緋桐は静かに目を伏せた。そんな彼女に、わたしは追い打ちをかけるように続けた。
「絵のそばには写真もありました。勿忘草という人が生きていた頃のものです。その中には緋桐様、あなたも映っておりましたね」
わたしが静かにそう言うと、その場にしゃがみこんでしまった。膝をつく彼女をじっと見つめていると、彼女はぽつりと言葉をこぼした。
「……懐かしいわね」
顔は上げない。肩も震わせない。声はしっかりとしていた。だけど、何故だかわたしの目には、緋桐がすでに泣いているようにも見えた。
「博士から聞きました。カヤがどうして作られたのか。わたし達がどうして作られたのか。勿忘草という人の思い出も、全て」
緋桐は顔を上げない。わたしに顔を見せたがらない。わたしはそっとしゃがみこみ、緋桐に視線を合わせた。
「ねえ、緋桐様。教えてください。本当に、カヤを手放したいんですか? ううん、そうだとしても、どうかお願いです。考え直してはくださいませんか? わたし、カヤと離れたくないんです」
訴えるわたしとは目を合わさず、緋桐はただただ困惑していた。そして、しばらく沈黙してから、そっと呟いた。
「……なんてこと」
そして、彼女はちらりとカヤへと視線を向けた。
カヤは動かない。瞼を閉じて、床の上に腹ばいになり、そのままただの人形になってしまったかのようだった。
そんな彼女の頬に、緋桐はそっと触れた。手は震えているし、どんな表情をしているのかもわたしにはよく見えない。ただ、そこには決して単純でない感情が入り混じっているように思えた。
「難しいものね、子供というものは」
緋桐は言った。
「思い返せば、私もそうだった。大人たちの目を盗んで、好き勝手したものだったわ。妖精だって同じ。体の成長とは別に、心もまた変わっていく。分かっていたはずなのに」
呟くようにそう言って、緋桐はようやくわたしと目を合わせてくれた。
「一つ、大人になったのね、燐火。あんなに純朴だったあなたが、私に内緒でこんなことをするなんて。それは私としても、素直に喜ぶべき事に違いないわ」
だが、その直後、緋桐は立ち上がった。つられて共に立ち上がるわたしの両肩をしっかりと抱き、じっと見降ろしてきた。その眼差しは、これまでになく厳格なものだった。
「でもね、それとこれとは別よ」
緋桐は言った。
「あなたが反抗するのは喜ばしい事。だけど、その訴えの全てに従うのは親の務めではない。喜びつつも立ちはだからないと。だから、あなたの要望には応えられないわ。カヤはここには置いておけない。もっと開けた場所で、妖精たちの歴史を巷の人々に知らしめる役割を担って貰わないといけないから」
きっぱりと彼女は言った。
梃子でも動きそうにないその態度を前に、わたしは怖気づきそうになった。だが、負けてはいけない。ここで負ければ、願いは一生叶わないのなら。
「……それなら、わたしもやります。カヤと一緒に……人前に出て」
だが、わたしは緋桐に比べてひ弱すぎた。大事な訴えだというのに、途中で咳き込んでしまった。興奮のせいか、動きすぎたか。そんなわたしを前に、緋桐は呆れたように溜息を吐き、わたしに言った。
「無理をしすぎよ、燐火。今夜はお薬も飲んでいないのでしょう? さあ、そろそろ、いい子になさい。私と一緒にお部屋に戻って、お薬を飲んで眠るのよ。一晩眠って、全て忘れなさい。今宵見たもの、そしてカヤの事もすべて」
「……嫌です、そんなの」
咳も止まらないし、涙も止まらない。色々とままならないまま、わたしは緋桐に訴え続けた。常に冷静に振舞える緋桐と違って、わたしの何と頼りない事か。だけど、その恥じらいにだって屈してはならなかった。
「どうしても聞いてくださらないのなら、カヤを連れて家出します」
頑固なわたしにほとほと呆れたのだろう。
緋桐は大きく溜息を吐き、そして、ごく小さな声で呟いた。
「仕方ないわね。でも、いいの。聞き分けの悪い子だって、可愛いものよ」
その声色は非常に甘い。
けれど、その眼差しには砂糖の欠片ほどの甘さすら見当たらなかった。
「あなたがそのつもりなら、分かった。こちらも容赦はしないわ」
そして、緋桐は周囲にいる蜘蛛型ロボたちに短く命じた。
「捕まえて」




