3.全ては緋桐のために
事の始まりは、カヤの事ですっかり世間に注目された猫柳博士へのこんな期待の声だったという。
あの母の子だ。きっと彼も、生身の肉体を持つ妖精の復活を夢見るだろう。それは、皮肉でも何でもなく、純粋な願いと夢を含んだ声だったという。
その時になって、博士は改めて自身の母親が向き合ってきた妖精たちの研究を振り返る事となった。
母の代であっても、他の生物同様、妖精たちをその亡骸から子孫やコピーを作ることには成功していた。だが、この世界はどんどん妖精たちに適さない環境へ傾きつつあったのだろう。従来のような方法では、復活した命も長くは生きられなかったという。
「そう……最初は有精卵を作ることすら大変だった。卵の殻が上手くできなくてね」
それでも、博士は考え続けた。カヤとの交流と並行して、生身の肉体を持つ妖精たちの復活を目標に、どうすれば誕生した命が長く生きられるかの実験を重ねていった。
そして、ある時、彼はついに、培養液の中で卵の殻を生み出すことに成功する。それは、母体なしでこの世の中に生身の妖精を誕生させるための第一歩だった。
「だが、緋桐さんもすぐには飛びつかなかった。支援はしてくれたのだがね、さほど期待していなかったらしい。期待するのが怖かったのだろうね」
当時、彼女を癒していたのは間違いなくカヤだったという。
カヤの中に記録された勿忘草の痕跡と、その姿が、緋桐に束の間の郷愁を与え、独特の癒しを与えていた。
「私はそれで良かった。緋桐さんが喜んでくれるのなら。それとは別に、興味があって、私は母の代からの命の研究を続けたのだ。その興味の果てで、母や青桐さんが繋ぎとめようとして、叶わなかった世界を、少しでも取り戻せたらと、そう思ったのだ」
博士の奮闘は、少しずつ良い結果に繋がっていった。そして、やがて、培養液に満たされたカプセルから取り出しても問題ない有精卵が誕生する。本物の蝶の卵は非常に小さいが、妖精の卵はさほど小さくない。
「人間の赤子とさほど変わらんよ。少し小さいくらいかね」
だが、取り出した有精卵を孵化させるまでには、まだ障壁があった。孵化まで順調に育っていても、その途中で死んでしまうのだ。
「中にはこれで何故、孵化しなかったのかと悩むほど、完成された子もいた。その死を解明するべく向き合うたびに、私は段々と恐ろしくなっていった。いったい、この研究で、どれだけの命が消えていったのかと」
それは、彼にとっての挫折でもあった。
「我が子らを供養し、埋葬するたびに、機械人形の時とは全く違う苦しみを味わった。もう止めようかと何度も思い、そして、諦めの心が強くなったその時だった」
博士が取り上げていた卵のうちの一つが、ついに孵化したのだ。
「美しい赤ん坊でね。背中に翅も生えていないから、人間の子のようだった。まるで本当に父親になったような気持ちで可愛がったものだったよ。そんな私の大きな一歩を、緋桐さんは称えてくれた。それに、だいぶ興味を持ってくれたのだ」
彼女の姿は、いつもわたしが健康診断を受ける診察室の壁にも貼ってある。小さな赤ん坊を抱く緋桐と猫柳博士の姿は、まるで夫婦のようにも見えた。緋桐に陶酔しきっていた頃などは、夫のように映る博士に少しだけ嫉妬したことまであったくらいだ。
「燐火も知っての通り、その赤ん坊は一歳を超えたあたりで死んでしまった。私も悲しんだし、緋桐さんも悲しんだ。だが、最初から期待もそこまで大きくなかったからだろう。埋葬が終わると、すぐに気持ちを切り替えることもできた」
だが、彼女の存在をきっかけに、緋桐は博士の研究に注目するようになった。彼の次のプランを積極的に訊ね、そして、資金援助を餌にして注文までするようになったという。
もともと、博士の生み出した妖精たちは、勿忘草の遺した細胞と、それ以前に保護されていた別の妖精の細胞から生まれていた。だが、いずれのサンプルも女性だったため、男性を生み出すことが困難だった。精子は作れても、そこに男性化のスイッチとなる遺伝子を組み込むのが難しかったためだ。
安定して孵化を目指しつつ、卵の中の子供を男性化するスイッチをいかに遺伝子の中に組み込むか。そう悩む博士に対し、緋桐は言ったらしい。
「しばらくはそのままでいい。無理に男の子を作ろうとしなくていい。女の子だけでいいと、緋桐さんはそう言った」
妖精という種族を復活させるならば、生まれてくる子供たちの男性化もいずれは考えなくてはいけなかっただろう。けれど、博士は緋桐の言葉を受け、その問題は一度置いておくことを決めたのだった。
「私はね、結局のところ、大義なんてどうでも良かったのだろう。あるのは興味と、緋桐さんを喜ばせたいというある種の欲望だけ」
博士はそのまま研究を続け、生まれてきた妖精の娘たちを長生きさせる方法を模索し続けた。殻が作られ、無事に育つ卵はまだ少なく、さらにそこから孵化するのも安定しない。けれど、どうにか二例目の孵化までたどり着いた。
「二人目はね、まさに奇跡のようだった」
目を輝かせながら博士は言った。
わたしも覚えている。二人目の姉は、蛹にまでなれたのだ。
「あの子の成長と記録をもとに、受精卵を作り続けて、彼女が蛹化するより前に、三人目も孵化した。そして、あの子が蛹になろうかという時に、君の命が宿った卵が出来たのだ」
わたしは、姉たちの事を覚えていない。
それもそのはず、会ったことがあるのは二番目の姉だけで、それも物心つく前のこと。全く記憶に残っていない彼女が亡くなった時の事も、実際に見たわけではない。
だが、その存在の大きさについては、わたしも何となく分かっていた。
「三番目の子が蛹化前にあっけなく死に、さらには二番目の子が蛹から出てこられなかった時の緋桐さんの悲しみようは見ている私も心を抉られるようだった。あの姿を見て、私は自らこの研究を一度止めようと決心し、緋桐さんにも言ったんだ。命を無駄にしたという罪悪感だけではない。緋桐さんを喜ばせたかったのに、逆に苦しめてしまった。それが辛かったのだ」
けれど、その時にはすでにわたしが孵っていた。生まれてしまったわたしをまさか殺すわけにもいかず、博士たちは最後の子であるわたしを静かに養育し始めた。儚い命が何年持つのか、慈愛と半ば諦めのような眼差しで、見守ることにしたのだ。
だが、どういうわけか、わたしはすくすくと育った。そして、二番目の姉と同じように、無事に蛹になったのだ。
「蛹になった時点では、まだ緋桐さんも半信半疑だった。二番目の子がそれで亡くなったからね。だが、どうだろう。君は無事に羽化し、立派な翅を生やして再び現れたのだ。……ああそうだ。勿忘草に生えていたものと同じ翅を生やしてね」
その時の事は、わたしも鮮明に覚えている。緋桐に優しくタオルで拭かれながら、抱きしめられたあの温もり。目を潤ませていた彼女の表情は、今でも脳裏に焼き付いている。あの目、あの眼差しに映っていたのは、わたしだけではなかったのだろう。わたしの中に流れる血を見ていたのかもしれない。かつて絆を深めたという勿忘草の血を。
「その後も君は順調に育った。喜ばしい事だった。だが、その一方で、緋桐さんには変化が生まれていた」
それが、カヤのことであった。
「もともと無理があったのだろう。機械に亡者のふりをさせるなんて。最初は良かった。カヤに打ち込んだ数々の思い出が緋桐さんの癒しになったから。けれど、段々とそれも薄れていく。生身の妖精たちと触れ合っていくうちに、緋桐さんは訴えるようになっていったのだ。あれだけ彼女に似ていて、あれだけ愛着があったのに、カヤが偽物のようにしか見えなくなっていくと」
カヤは勿忘草の姿を模して作られた。
けれど、その事が却って、緋桐の心を苦しめ始めたのだ。そしてわたしが成長し、何も問題なく過ごすようになったある日、緋桐は博士に告げたのだ。
「機械人形の研究を中止したい。自主的に続けてもいいが、準備室や研究室以外で、この屋敷を広く使っての実験はやめて欲しい、と」
そして、博士はカヤを準備室のあの場所に座らせた。
迷う事はなかったようだ。何故なら、彼にとってその実験は、緋桐のためでしかなかったのだから。




