3.主人との添い寝
一日の汚れを洗い流した後、体を拭きながら部屋に戻ってみれば、そこにはすでに着替えが用意されていた。
コットン素材の真っ白なネグリジェは、今朝まで着ていたものによく似ている。だが、その些細なデザインの違いもまた、わたしの好奇心をくすぐるものだった。
特に今宵のデザインは好きだ。何故なら、この衣装には意味があるからだ。普段着のように項と腰回りのリボンを自分で結びながら、軽く翅を動かし、心を落ち着けてみる。だが、期待せずにはいられない。何故なら、この衣装を着る日は決まって、眠りにつく場所が自室ではなくなるからだ。
ベッドに座ってしばらく待っていると、カチャリ、と、自室の扉が開き、麦が入ってきた。その手には、小さなグラスがある。寝る前に飲むようにと博士に言われていたシロップだった。
「お察しかもしれないけれど、これを飲んだら移動よ」
にこりと笑いかけられて、わたしはひとまず息を飲んでから、グラスを受け取った。博士お手製の薬用シロップは決して美味しいものではない。それでも、その苦味が今のわたしの興奮を抑えるのにはちょうど良かった。
ごくり、と、液体を丸ごと飲み込むと、麦は空のグラスを受け取り、わたしに立つように促した。
「さ、行きましょうか。ご主人様が首を長くして待っているわ」
「……うん」
緊張してしまうのは、決して嫌だからではない。ただただ嬉しい。けれど、その嬉しい気持ちが高まりすぎると、却って怯んでしまうものなのだろう。
緋桐の事は愛している。彼女との間に子供が欲しいと思ってしまうほどに。単なる敬愛や家族愛を超えたものがそこにはある。しかし、いざ、寝室に呼ばれる日が来ると、やっぱりわたしは怯えてしまうのだ。失礼がないように、嫌われないように、呆れられないように、色々考えては、不安になってしまうのだ。
ただ、それも束の間の事。いざ、緋桐の部屋にたどり着き、扉が開かれると、わたしはもう何も考えられなくなる。扉が開かれた先に現れるのは、真紅のネグリジェに身を包む緋桐の姿だ。黒髪に、濃褐色の目が、その真紅によく映える。その美しさは、気高い花のようで、しばらく見惚れてしまうのだ。
「お連れしました」
麦が短く声をかけると、緋桐もまた短く返答した。
「ありがとう、麦。もう下がっていいわ。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ、緋桐様」
麦はそう言うと、わたしを置いてきぼりにして、さっさと帰っていってしまう。残されたわたしはしばらく部屋の入口に佇み、緋桐を見つめる事しか出来ない。立ち尽くすわたしを緋桐もまたしばし嘗め回すように眺め、やがて、ようやく手招いてくるのだった。
「おいで」
その短い命令を経て、わたしはようやく彼女のベッドに上がれるのだ。
聞いた話では、蝶の翅をもつ妖精たちが、この世にもっとありふれていた時代には、こうした添い寝もよくあったらしい。時には、添い寝におさまらず、人間たちは、まるで恋人や愛人を囲うように妖精たちを飼いならし、甘い夜を過ごしたこともあったのだとか。
たとえその組み合わせが異性同士だったとしても、それで、子供が生まれるなんてことはない。飽く迄も、妖精は妖精同士でしか繁殖できないし、人間もまた妖精の子を産むなんて事はあり得ないとされている。それでも、人間たちは妖精を愛でるのを辞めなかった。そこで生まれるのは生命ではなく、安らぎである。人間たちは妖精に特有の温もりを求め、妖精たちもまた人間に同じものを求めてきたのだろう。
わたしと緋桐は、というと、ベッドの上で抱きしめ合うだけ。そこに性愛的行為はない。わたしはともかく、緋桐にあるとすれば、それは親子愛に近いものなのだろう。
それでも、わたしは、この役目が好きだった。緋桐の為になるからというだけではない。わたし自身も、緋桐に抱きしめられる事で癒されるからだ。
ちなみに、猫柳博士に言わせれば、これですら、あまり褒められたことではないらしい。ただ身を寄せ合うだけであっても、羽化して成熟した妖精の女性ならば、些細な刺激によって体が誤解して卵を生もうとしてしまうこともあるらしく、遺伝的母親の事があるからこそ、そこをあまり刺激して欲しくないというのが本音らしい。
それでも、わたしは怖くなかった。もしも、博士が提案した通り、生殖機能が排除された状態で生まれていれば、こうやって緋桐に抱かれて安らぎを覚えるなんて事もなかったかもしれない。ただの義務として、血の通わない人形のように、抱きしめられるだけだった。
その事を考えると、そうならなくて良かったと思わずにはいられない。
「緋桐様」
肌と肌を重ね合い、仰向けに眠る緋桐の胸元に頬をくっつけながら、わたしは静かに幸せを噛みしめていた。
「……温かい」
そんなわたしを見つめ、緋桐は微笑みながら頭を撫でてくれた。
翌朝、自室にて着替えようとするわたしに、麦は言った。
「燐火がいてくれて、緋桐様はとても幸せそう」
そのまま着替えを手伝われながら、わたしもまた麦に訊ねた。
「昔の緋桐様はそうでなかったの?」
「不幸だったってわけじゃないわ。でも、もっと険しい表情をなさっていた気がするの。お仕事の件でぴりぴりしていたのかもしれないし、もっと身近な、日常のお悩みがあったのかもしれない。その頃はまだ子供だった私には分からないけれど、けれど、これは確かよ。あなたが無事に羽化して以来、緋桐様のご様子はだいぶ変わった」
「それっていいこと?」
「勿論。私はホッとしているの。緋桐様は私にとって、子供の頃からなんとなく憧れていた綺麗なお姉さんなの。だけど、いつもどこか悲しそうだったのが気になっていた。それがすっかりなくなった。だから、燐火がいてくれて良かったって、私はいつも思っているのよ」
麦はそう言いながら、わたしの背中を整えた。衣装のリボンを丁寧に結び、青白い翅を整える。その様子を姿見で確認しながら、わたしは自分の髪を軽く手で整えた。
今日の衣装は、かつて野生種の妖精たちが暮らしていた森を思わせる深緑。控え目ながら目を引く薔薇の刺繍が施されている。その赤き花を見ていると、昨晩の緋桐のことを思い出してしまった。わたしが蝶であるというのならば、彼女は気高い花のようだ。
かつて、妖精が当たり前にいた頃は、わたしの先祖たちを虜にした花の妖精なんてものもいたらしい。学んだ知識によれば、その体には蜜腺と呼ばれる器官があって、いつもわたしが口にしているような美味しい蜜を他種族の妖精たちに与えていたそうだ。
妖精が当たり前にいた時代の古典文学なんかでも、蝶と花の妖精の関係が美しく語られることがある。きっと、昨晩の緋桐とわたしのように、身を寄せ合って安らぎを覚えていた者たちもいただろう。
「はい、出来た。今日も綺麗ね」
麦に優しく言われて、わたしはじっと姿見を覗き込んだ。
この鏡と、麦の言葉を信じるならば、今日もわたしは完璧だ。
「今日はね、緋桐様はお仕事で朝早くから遠出をなさるの。帰ってくるのは夕方過ぎになるかしら。博士も学会のために出かけると言っていたし、だいぶ静かな一日になりそうね」
「……そうなんだ」
だから、昨晩は一緒だったのだろうか。分かっていたら、もっと甘えたのに。心の中で密かにそんな事を思いながらも、わたしは姿見越しに麦に笑いかけた。
「ご主人様も博士もお留守って言われると、子供の頃の事を思い出すな」
「青虫時代の事ね。あの頃のあなたは聞き訳の悪いお子様で、本当に肝が冷えたんだから」
「うふふ、でも、お陰で楽しく過ごせたの。麦みたいなお姉さんが傍にいるから、緋桐様も安心して任せることが出来るのね」
「全く、調子がいいんだから」
ぽんとわたしの両肩に手を置いて、麦もまた姿見越しに笑いかけてきた。
「ともあれ、今日は本でも読んで過ごしなさいね。午前中に温室を掃除しておくわ。あなたのための読書スペースの模様替えもしておいたからお楽しみにね」
屋敷にある温室は、博士が生命の研究をするための場所である。いつも健康診断をする研究室のすぐ隣にある。その中の一角が、わたしの為に整えられている。
本を保管するのにも、過ごすのにも適切な湿度と、気持ちに安らぎをもたらす花々。愛らしい置物たちは、麦がお休みの日に何処からか買ってきたものばかり。そこに張られた巨大な葉っぱのデザインのハンモックにうつ伏せで寝そべりながら、数多の本を読むこともまた、わたしの楽しみの一つだった。
「ありがとう、麦」
緋桐も博士もいないのは寂しい事ではあるけれど、麦のお陰できっと退屈せずに過ごせることだろう。