3.心細さを堪えながら
ひんやりとした空気がわたしの翅を震わせる。寒い季節ではないはずなのに、廊下はひどく冷えていた。心細さも手伝って、進む足取りは非常に重たい。それでも、一歩一歩確実に、わたしは温室へと歩んでいた。
当然ながら、油断はできない。ここで見つかれば、全てが水の泡だ。まだまだ希望はある。だから、迂闊な行動でそれを台無しにするわけにはいかなかったのだ。
そんなわたしの意地が、奇跡に結びついたのだろうか。幸いなことに蜘蛛型ロボの気配はなく、また、この屋敷で働いているはずの人々の気配も感じなかった。
恐らく、寝静まっているのだろう。警備ロボという便利な存在に全てを託し、安心して眠っているのかもしれない。眠っていない人物がいるとすれば、それは、緋桐であり、猫柳博士であるだろう。それに、もしかしたら麦も同じかもしれない。
彼らの事をふと思うと、少しだけ心が痛んだ。罪悪感を覚えぬほど、わたしは薄情でもないし、彼らとの関係も希薄ではない。一度意識してしまえば、自分自身の希望と、彼らへの情との間で、心が引き裂かれそうになってしまう。
だが、わたしはその迷いを何度も振り払った。
だって、彼らは人間なのだもの。どんなに親しくたって妖精ではない。その関係を結ぶ絆というものが混じり気のない愛で出来ているのだとしても、彼らとわたしは同等ではないのだ。
わたしと同じ道を、同じ目線で歩める者がいるとすれば、それは同じ業を背負う者だけである。現在、この世界において、それはカヤしかいなかった。
少なくとも、わたしはそう感じていた。
だから、カヤを失うわけにはいかない。カヤという存在を知らなかった頃ならともかく、今はもう知ってしまったのだ。知ってしまった以上、後戻りはできない。
この思いを、人間たちに伝えてみたら、どうなるだろう。
温室へと向かっていると、ふと、わたしの脳裏にそんな考えが過ぎった。
全ての決定権を持つのは緋桐だ。緋桐はわたしの訴えを聞いてくれるだろうか。聞いてはくれるだろう。だが、叶えてくれるとは限らない。緋桐はわたしを愛してくれるけれど、甘やかしてくれるわけではない。引くべきではないと判断した場面では、絶対にひかないのがこの屋敷の代表たる彼女である。
カヤを手放すと猫柳博士に告げたあの眼差しを思い返せば、わたしが何を訴えた所で無駄だろう。優しく諭されるだけに違いない。そこに妙な自信があった。
「カヤを守れるのは、わたしだけ」
歩みながら、わたしが思い浮かべたのは、あの機械人形のお話だった。人間になりたがったものの、自分なりの未来を見つけるあのお話。
あの主人公には友達のネズミがいた。散々励まして、新しい居場所に向かう主人公に寄り添い続けていた。けれど、今のままでは、わたしはあのネズミにはなれない。カヤは一人きりでこの屋敷を出て行ってしまうことになる。
──燐火はどう思うの? あのお人形さんに、どうなって欲しかった?
麦の言葉を思い出し、わたしはふと考えた。
認めてほしかった。確か、わたしはそう答えたのだ。皆に認めてほしかった。主人公を見下していた者たちに、見直してほしかった。納得してほしかったし、考えを改めてほしかった。それが、子供染みた願いなのだとしても、どうしてもそう思ってしまった。
めでたし、めでたし、と言い切れる世界であってほしかった。でも、そうではなかった。お話の中では、主人公の願いは叶わなかったし、他人の心はそう簡単に変えられなかった。
幸せは思っていたのとは違う場所にあって、主人公たちにも希望は残されていた。それでも、同じだけ痛みが残っていたように思えたのだ。
あのお話以上に、現実世界は厳しい。わたしがどんなに庇っても、カヤはここにはいられないだろう。あのお人形のように新しい居場所を探さねばならない。カヤが大切にされる場所を探さねばならない。ならば、わたしはせめて、あの主人公に寄り添うネズミになりたかったのだ。
「カヤに寄り添えるのは、わたしだけ」
あれは誰かが作った空想のお話だ。けれど、あの世界の人間たちと、現実の世界の人間たちには共通点もたくさんある。皆、カヤの事を作り物としか見ていない。魂を宿す機械人形だなんてもてはやされていたらしけれど、きっと猫柳博士ですら、本当にそうは思っていないのだろう。そして、カヤ自身もそれを信じている。
もしかしたら、人間たちの方が正しいのかもしれない。カヤの方が正しいのかもしれない。わたしの方がおかしいのかもしれない。だけど、わたしは願ってしまうのだ。
どうか、皆、カヤを認めてほしい。
認めてくれないのならば、せめて、わたし達を引き裂かないでほしい。
そのために、わたしは進むしかない。
このまま進むことが、他ならぬわたしの願いであるからだ。
物音が聞こえる度に息をひそめながら、わたしは温室へと向かい続けた。その距離は、ただでさえ遠い。その上、遠回りしないといけなくなる。
どうやら蜘蛛型ロボはまだいるらしい。数はめっきり減っているが、動いているものはいるようだ。電力を非常に使うそうだから、充電に戻ったものもいるのかもしれない。理由は分からないが、減ってしまったことには有難みしかない。
蜘蛛型ロボから身を隠して進みながら、わたしはその度に、彼らを遣わせた緋桐と猫柳博士へと思いを馳せた。彼らはもう、気づいているのだろうか。カヤを盗んだのが誰なのか。何故、私が姿を消しているのか。それともまだ、泥棒が入り込んだのだと思っているのだろうか。
「緋桐様……」
温室が次第に近くなっていくにつれ、わたしは不意に応接室で目にした写真のことを思い出した。子供時代の表情と、普段わたしに接する際の表情、そして、非情にもカヤを手放すと告げていた時の表情とを思い出し、心が震えた。
ここまで彼女の意に反することを続けていても、なおも、わたしは彼女の事を嫌いになれなかった。カヤを失いたくない一心で、ここを去ることすら考えている今だって、緋桐と離れ離れになるということを具体的に想像すると、不意に寂しさに包まれてしまう。
カヤへの思い、緋桐への思い、その相反する二つの感情に心が乱される。そのままふらふらと、わたしは歩き続け、そしてようやく温室は見えてきた。
温室の中は誰もいなかった。ひっそりと静まり返り、いつも過ごす昼の時刻とは全く違う空気に包まれている。蜘蛛型ロボがここまで来たのかどうかは分からない。ここにいる植物たちはひっそりと眠っているし、物が倒れているような気配もなかった。音を立てないように歩き、わたしはいつもの読書スペースへと直行した。
慌ててここからカヤと抜け出した際、あまり気を配ってはいなかったが、どうやら最低限、ここにいた形跡をごまかすことはしていたらしい。本はきちんと並んでいたし、コルクボードも立てかけられている。実際に、どのようにしてここを抜け出したのだったか、うまく思い出せない。とにかく必死だったし、焦っていた。カヤを説得してくぐってもらい、素早く扉を閉めたのは覚えている。ほんの数時間前のことだと思うのだが、恐ろしいほど昔の事のようだった。
高まる緊張感を抑えながら、わたしはそっとしゃがみ、コルクボードを退かした。いつもこっそり開く扉は、やはり鍵がかかっていない。
どうやら、博士たちもここには気づかなかったのだろう。安心して扉を開けて、わたしは中へと入りこんだ。その扉の向こう──準備室の空気は異様に冷たかった。




