2.眠ってしまうその前に
真っ暗な収納スペースの中で、カヤはうつ伏せになったまま動かない。
微かな翅の動きも、段々と分からなくなっていく。このまま眠りについてしまうのだろう。けれど、その前に、と、カヤはわたしに告げたのだった。
「わたしはもう一歩も動けません。ここで眠ることになるでしょう。あなたがどうするのかは、あなたの自由です」
「……本当に何もできないの?」
問いかけると、カヤは黙り込んでしまった。
「ねえ、教えてよ、カヤ。何か方法はないの?」
「──あるにはあります」
カヤは観念したようにそう言った。だが、わたしが問い質そうとするより先に、彼女は続けて言った。
「ですが、その前に聞いてください。ひょっとしたら、これがあなたとの最後の会話になるかもしれないのです」
「どういうこと?」
「眠りについた後、再び目覚めるまでには時間がかかります。その間に、もしも、緋桐様や博士に電源を弄られれば、わたしはしばらく眠ったままになるでしょう。燐火、あなたとは話せないまま、この屋敷を去る事になるかもしれないのです」
「そんなの嫌だ。ねえ、どうしたらいいのか教えて」
縋りつくわたしの手を、カヤは宥めるように握ってくる。その力の弱さに、わたしは驚いてしまった。こうしている間にも、カヤは弱っていってしまう。
「燐火。どうか、お願いです。まずはわたしの話を聞いてください」
暗闇で薄っすらと輝くカヤのガラス玉の目が、懇願するようにわたしを見つめてくる。その眼差しに冷静さを取り戻し、わたしは大人しく頷くことができた。
「……分かった。話して」
すると、カヤは安心したように目を細め、そして言った。
「ありがとうございます、燐火」
そして、まるで普段から呼吸をしているように、吐息のような音を漏らしてから、彼女は静かに語りだした。
「まずは、あなたに一つ、謝らねばならないことがあります。あなたと逃げている間に、わたしは一つ大きな嘘をついてしまいました」
「嘘?」
「はい……玄関へとたどり着いた時の事です。鍵は複雑で、簡単には開きません。その解錠の方法を、わたしは知らないとあなたに答えました。……本当は知っていたのです」
「え……?」
「知っていたのに、嘘をついてしまった。何故かはわかりません。こんな事は初めてでした。緋桐様にも、猫柳博士にも、正しくあれと教えられ、その通りに振舞ってきたのに」
カヤは粛々と謝ってくる。申し訳ないという情動があるのだろう。ただ、それだけでなく、わたしにはカヤが困惑しているようにも感じた。自分自身の行為を不思議に思っているようだった。そんなカヤの様子を目の当たりにしたからだろう。不思議と怒りは湧かなかった。
「……そうだったんだね」
そして、手を軽く握りしめると、カヤは続けた。
「怒らないのですか? あなたの目的を阻害してしまったのに」
「そうだね。普通なら怒るのかも。でも……何故だか怒る気になれないの。ねえ、カヤ。カヤはどうして嘘をついたの?」
「さて、どうしてでしょうね。機械人形として目覚める前に博士に教えられた倫理によれば、いかなる状況においても嘘をついてはならないはずでした。でも、あの状況下では、あなたが外に出れば不幸になるという恐れに駆られ、気づけば『知らない』と言っていたのです」
そして、カヤは悲しそうな声色で続けた。
「やはりわたしは、緋桐様が判断された通りの失敗作なのでしょう。命を宿す機械人形はおろか、並みの機械人形としても過ちを犯してしまいました。もはやわたしは高品質な機械人形ですらなくなってしまった」
「そんなことないよ……カヤ」
そっと顔を近づけて、わたしは彼女に言った。必死に頭を動かして、これまでに学んだ知識や、数少ない知見で構成された頭の中の本棚を漁りつくした。そして、ようやく絞りだした言葉を、わたしはカヤに投げかけたのだった。
「ねえ、カヤ。前にどこかで聞いたことがあるの。嘘をついてしまうのはね、生き物だからこそなんだよ。人間や妖精は、色んな状況で嘘を吐くんだって。身勝手な理由もあれば、そうでなくて優しさゆえの嘘もあるんだって。だから、その……」
そっと彼女の手を握り、わたしは告げた。
「カヤは失敗作なんかじゃないよ。きっと、生き物らしさがあるんだよ」
その思いが、どれだけカヤに伝わったのかは分からない。
ひょっとしたら、分かり合えることなんてなくて、このままずっと平行線のままなのかもしれない。わたしだけが、心細さゆえに、カヤに縋りついているだけなのかもしれない。そんな恐れも頭をよぎった。
「……燐火」
カヤはそっとわたしの手を握り返し、わたしに言った。
「あなたはとても優しいですね。きちんと言えなくなってしまう前に、これも伝えておかねばなりません。わたしは、あなたとお友達になれてよかった。あなたの言動は、時に、わたしにとっては刺激が強すぎました。教えられてきた常識が覆され、混乱することもありました。緋桐様のお決めになった事に逆らい、わたしを連れて逃げようとなさることも、困惑いたしました。でも、正直に言うならば……わたしはそれが嬉しかった」
ぽつりと漏らすカヤのその言葉には、いつになく感情があるように思えてならなかった。
「葛藤がありました。非常におかしなことですが、わたしの中では迷いが生じていたのです。そして、今、気づいたのです。人間や妖精にあるという本音と建て前というのが、恐らくこれなのだと」
カヤはそう言うと、小さく笑みを漏らした。
「けれど、燐火。どうか、気負わないでください。わたしのために、あなたがここまで必死になってくれた。それだけで、わたしは嬉しく思います。このまま、あなたが目的を果たせなくても、それでいいのです」
諦めたようにそう呟く彼女に、わたしはそっと声をかけた。
「カヤ。あなたの想いは分かった。だけど、わたしはまだ頑張れるよ。だから、もう少しだけ希望をちょうだい。あなたが眠ってしまうその前に、最後の足掻きの手段を知りたいの。……お願い」
そう懇願すると、カヤは体の姿勢を変えて手を伸ばし、わたしの頬に触れてきた。その感触は作り物であることが一瞬で分かるようなもの。それでも、その触れ方には、情を感じずにはいられなかった。
カヤは言った。
「わたしがいつも座っていたあの場所に、予備のバッテリーが置かれております。それを一つ、わたしの翅の付け根に差し込んでください」
「予備のバッテリーだね。……どんな見た目なの?」
「黒くて、細長い筒状で、中央にプラグがついています。いくつかありますが、一つで十分でしょう」
「分かった。すぐに取ってくる。それを背中に差せばいいんだね?」
わたしの言葉に、カヤはしっかりと頷いた。
「お願いします……燐火」
その声はだいぶか細いものだった。
一人で置いていくには忍びない。それでも、すぐに行かなければ。ここだって安全だとは限らないのだから。
「ごめんね、カヤ……すぐに戻るからね」
何度も声をかけながら、カヤから離れると、わたしは収納扉をそっと開けた。
外はしんとしている。蜘蛛型ロボの気配はない。人の気配もなさそうだ。その事を念入りに確認すると、最後にもう一度、カヤの手に振れ、お役御免の寝床の鍵をその手のひらに置いた。そして、そっと声をかけた。
「行ってくるね」
必ず戻ってくるという思いを込めて、鍵をぎゅっと握らせる。すると、カヤもまた鍵を自ら握り、そして軽く口を動かした。声はよく聞こえなかった。けれど、わたしにはカヤが何と言ったのか、きちんと伝わった。
──行ってらっしゃい。
彼女は間違いなくそう言ったのだ。
離れる恐怖をどうにか堪えて手を離すと、わたしはそのまま収納スペースから這い出た。扉を慎重に閉じると、妙にひんやりとした廊下の空気がわたしの心細さを煽ってくる。一人ぼっちには広すぎるこの屋敷を、わたしはじっと見据えた。
まず向かうべき場所は、温室。そして、カヤと出会ったあの場所へ。
わたしは静かに歩みだした。




