1.眠りの時間は突然に
応接室から外を覗くと、辺りはひっそりとしていた。どうやら、蜘蛛型ロボたちは近くにいないらしい。何処へ行ったかは分からないが、好都合だ。今なら安全に歩くことが出来そうだった。
応接室からお役御免の寝床まではかなり遠い。その間に蜘蛛型ロボたちに見つかる可能性は極めて高いだろう。けれど、わたしは不思議と怖くなかった。希望の光が見えていたからだ。
手に持っている小さな鍵の感触が、わたしに勇気を与えてくれる。その勇気は、考えてみれば全く根拠のないものではあったけれど、ここを脱出できるかもしれないという可能性はそれだけ、わたしの希望になりえたのだ。
しかし、恐らくカヤは違った。
明確に反対と宣言した通り、その足取りはかなり重かった。それでも、彼女はしっかりとついて来てくれた。満足するまでわたしに付き合ってくれるという宣言もまた、嘘偽りのない言葉だったのだろう。そんな彼女の態度に甘え、わたしはとにかく先を目指した。
片方の手には小さな鍵、もう片方の手にはカヤの手。握る手はどちらも汗ばんでいた。希望に満ちてはいても、状況を忘れてしまうほど、警戒心は薄れていなかったのだろう。そのお陰もあって、わたしは無駄に大胆な行動をせずに進むことが出来た。
彼らの気配にいち早く気づけたのも、そのお陰だろう。
耳を澄ませてやっと聞こえる程度の機械音と信号音。かなり遠そうだが、聞こえる範囲にいるという事が分かり、わたしは一度立ち止まった。
緊張が増したせいだろうか。カヤの手を握っている方のわたしの腕が震えている。汗が流れ、ひたりと廊下の床に落ちたその時、突如として咳がこみ上げてきた。
慌ててしゃがみ込み、わたしは両手で口元を覆った。咳を抑え込んで飲み込もうとするわたしの背中──翅の付け根当たりを、カヤはそっと撫でてくる。その慰めを頼りに、涙目になりながら咳を堪えているうちに、蜘蛛型ロボたちのものと思しき物音は遠ざかっていった。
安堵したせいもあるのだろうか。咳はそのまま引っ込んでいった。ただ、不調は続いている。涙と鼻詰まりが辛かった。
そんなわたしにカヤはそっと訊ねてきた。
「大丈夫ですか、燐火」
「大丈夫……」
すぐに返事をしつつ、わたしは苦笑してしまった。
「困ったものだよね。生身の体はこれだから。カヤはこんな事も起きないんでしょう。なんだか、羨ましいな」
「羨むことではありませんよ。それこそ、燐火が本物である証拠なのですから」
「そうなのかな……わたしにはそうは思えない。カヤの方が完璧に感じてしまう」
少なくとも、こういう場面での困難とは無縁でいられただろう。
だが、この羨望はひょっとしたら無神経だったかもしれない。その気づきは後から生まれ、わたしはすぐさま気まずさを感じた。後悔しても、もう遅い。口に出した言葉は取り消せないのだから。しかし、幸いなことに、カヤは咎めてきたりはしなかった。
「これまで散々、埃っぽいところに行きましたからね。感情の起伏なども体の反応に直結するのは生き物だからこそ。緋桐様はそういった部分も含めて、生きた妖精をご所望なのです。ですので、やはり、わたしは完璧ではないのですよ」
そして、カヤは溜息交じりに続けたのだった。
「──それに、こうした体の不調と、わたしが無縁というわけでもないのです。わたしの場合は不具合と言うべきでしょうけれども」
「そうなの?」
問い返したその時、わたしはふと気付いた。
カヤの様子がおかしい。そんな気がしたのだ。この違和感はなんだろう。普通にしているように思えるのに、何かが引っかかる。不思議に思いながら、よくよくその体をまじまじと眺め、わたしは気づいた。
微細な動きが鈍い。たとえるならば、眠気を感じている人間のように、その眼差しもとろんとしている。
「カヤ……具合が悪いの?」
わたしが訊ねると、カヤは観念したように口元を緩ませ、答えてくれた。
「深刻なことではありません。ただ、少し眠たくなってきたのです」
「機械人形も眠るの?」
「……眠るというのは少し誤解を招く表現でした。正しくは、充電が足りなくなってきたというべきでしょう」
「充電?」
その言葉に、はっと気づいた。
この手の機械には電気が必要となるものだ。蜘蛛型ロボだって同じ。彼らは出番のない間、充電をしながら眠っている。
思えば、カヤもそうだった。わたしと話しているときは、常に背中の翅の付け根にプラグが繋がっていた。
電気。電気が必要なのだ。
「ど、どうしたらいいの?」
慌てだすわたしに、カヤは肩を竦めた。申し訳ないと感じたのだろうか。だが、そんな彼女に優しい言葉を投げかける余裕すらわたしにはなかった。このままだと、カヤが眠ってしまう。
「ねえ、お願い。教えて。どうすればいい? カヤはどうしたい?」
訊ねるわたしの必死さが不憫だったのだろう。
カヤはいつになく素直に、その要望を口にしてくれた。
「少し横になりたいです」
「分かった。じゃあ、休めるところを探そうか」
そう言って慌てて周囲を見渡して、すぐに目に留まったのは、廊下の隅の収納扉の一つだった。あの場所もかくれんぼの定番となった場所だった。
試しに近づいて開けてみれば、幸いなことに中にはあまり物が入っていない。二人一緒に隠れることが出来そうだ。それに、カヤを寝かせるだけのスペースもありそうだ。
すぐさまカヤを連れてそこに一緒に入り、中から扉を閉めてみれば、すぐに真っ暗になってしまった。何も見えない。だが、怖くはなかった。一人ではなかったからだ。だが、あまり安心はできない。
中に入ってすぐ、カヤは倒れこむように、腹ばいになった。どんな表情をしているのかは、よく見えなかった。ただ、背中の翅が微かに動いていることを感じ、安心しつつも、すぐに不安がこみ上げてきた。
「ねえ、カヤ……」
声をかけるも、カヤは返事をしなかった。
返事をすることすら辛いのだろうか。困惑しながら、わたしは収納スペースに背中をくっつけた。狭い場所に翅が当たり、不自然に折れ曲がる。
似たようなことを前に別の場所でして、緋桐に軽く叱られたことを思い出した。もしもこのまま翅が千切れてしまったら、わたしもまた緋桐の愛を失うのだろうか。そんな事をふと考えていると、カヤが静かに声をあげた。
「燐火……このままだとわたしは停止してしまうでしょう」
「うん……そうなったら、カヤはどうなるの?」
まさか壊れてしまうなんてことはないだろうか。不安に思いながら反応を待っていると、しばらく置いてからカヤは返事をくれた。
「停止しても心配はいりません。再び充電をすれば、目覚めることが可能です。けれど、裏を返せば、充電されない限り、動くことが出来なくなります」
「じゃあ、どうしよう。抱えていくしかないのかな……」
「恐らくですが、それは不可能です。わたしの体重を支えるだけの筋力は、燐火の体にはありません」
「じゃあ……どうしたら……」
困惑するわたしへ、カヤはある意味でわたしが予想していた通りの言葉を向けてきた。
「わたしを、このまま放置してください」
「放置……」
「はい、このまま何もせず、わたしを放置するのです。あなた自身がどうするかはお任せします。一緒にいてもいいし、一人で外を目指してもいい。或いは、全てを諦めて、部屋に戻ってもいい」
「で、でも、それじゃあ──」
言いかけるわたしに対し、カヤははっきりと告げたのだった。
「わたしと二人で掴む未来は、どうか諦めてください。あなたの夢はここまでです」
突き放すようなその言葉が、見えないナイフとなって、わたしの胸に突き刺さった。




