4.緋桐の記憶
長い眠りからの目覚めは、息苦しさと漠然とした不安から始まった。
どうにかして楽になりたい。そんな思いに駆られて必死に藻掻き、破った蛹の先に待ち受けていたのは、信じられないような寒さと心細さだった。
一糸纏わぬ姿でそれらと対面し、怯えていたことを良く覚えている。それから緋桐が優しく声をかけて、タオルで包んでくれるまでの数十秒の孤独感は、その後しばらく悪夢に見たほどだった。
けれど、緋桐に抱かれてからは驚くほど落ち着いた。
濡れた体をタオルで拭かれ、幼子を癒すようにしばらく背中をとんとんと叩かれながら、わたしは緋桐から状況を説明されたのだ。
そこでわたしは、こんなにも寒いというのに初夏であることや、自分の体がもう子供ではないということを知ったのだった。
そして、緋桐は、わたしをぎゅっと抱きしめると、呟くように言ったのだった。
──ああ、これでやっと……やっと近づけるのね。私達が夢見た未来に。
そんな彼女に対し、少し離れた場所から見ていた猫柳博士が声をかけた。
──あとは順調に行くことを願うだけだね。
──勿論、大丈夫に決まっているわ。この子は今までの子と違う。だって、見て頂戴、この翅の輝きを。きっと、きっと、私達を導いてくれるはずよ。
──そうだね……そうだといいね。
希望に満ちた緋桐の言葉に対し、猫柳博士の声色は非常に落ち着いていた。
いや、落ち着いていたのだろうか。わたしは必死に思い出そうとした。今思えば、あの時の彼の声色は、落ち着いているどころか落ち込んでいるにも等しかった。
では、何故だろう。わたしは無事に羽化したというのに。
──私の見ている夢と、彼女の見ている夢は、ほんの少しだが非常に大事な部分が違っている。その事を、私は度々思い知らされる。
ふと、わたしはそんな博士の言葉を思い出した。
「二人はどうして、わたし達を作ったんだろう」
思わず呟いたわたしを、カヤはちらりと見つめてくる。
困惑した様子の彼女に気づき、わたしは慌てて弁明した。
「ううん、分かっているの。カヤの言う通りなんだって。緋桐様と猫柳博士がわたし達を作ったのは完璧な妖精の再現。その目的は、人々に記憶してもらう事。そして、いつの日か、妖精たちの暮らす森を取り戻す事……」
呟くわたしに頷き、カヤは訊ねてきた。
「それでは、疑問に思われる事はないのでは?」
「そうなんだけど……そうじゃないの。何て言えばいいのかな。二人がわたし達を作った理由は、表向きはそれであっていると思うの。でも、それだけなのかな。もっと純粋な気持ちが込められているような気がしてならないの」
「純粋な気持ち、ですか」
不思議そうにカヤは呟いた。だが、すぐに彼女は首を振った。
「少なくとも、わたしの中にはそのような事実は記録されておりません」
「……そうだよね。うん、分かっているつもり。考えすぎなのかもって。だけど、緋桐様や博士の事を思い出すと、どうしてもその内面を想像してしまうの。口には出していなかったけれど、勿忘草の事がずっと彼らの心に残り続けているのかなって」
思ったままに語るわたしを、カヤはじっと見つめてきた。
そのまましばらく沈黙し、彼女は何かを考え込む。やがて、思考がまとまったらしく、彼女はわたしに告げた。
「思考を読むという能力は、わたしの中にある人工知能にも備わっております。しかし、それを使うべきかどうかの判断について、わたしには欠陥があるようです」
「欠陥……そんなこと──」
否定しようとするわたしの言葉を、カヤは遮る形で言葉を続けた。
「どうして緋桐様がわたしを失敗作だと判断なされたのか、少しだけ理解できた気がします。初めから機械人形として扱われるのであれば、今のわたしは及第点だったでしょう。けれど、緋桐様が求めていらしたのは完璧な妖精の再現なのです。わたしはあなたのように生き物らしく振舞えない。その境を今、確認できた気がします」
カヤはそう語ると、勿忘草が描かれた肖像画を見つめる。その悟ったような横顔に、わたしはそっと問いかけた。
「でも……気づけたのならさ、変われるんじゃない?」
ガラス玉の目をちらりと向けられ、少し怯みながらもわたしはさらに問いかけた。
「そうじゃ……ないのかな。だって、わたしは聞いたよ。人間だって、妖精だって、皆どこかに欠点があってね、自覚していない事も多いんだって。だけど、自覚出来た時は、気を付けることが出来るの。勿論、限度はあるけれど、気を付ければ少しはマシになる……はずだからさ」
訴えながら、わたしは感じた。
これは厳密にはカヤへの慰めではない。カヤがわたしと違うのだという事を、認めたくない自分自身への言葉だった。
案の定、カヤにはあまり通じていないように思えた。彼女は再びわたしから目を逸らすと、肖像画を見つめたまま呟くように言った。
「さて、どうでしょう」
抑揚のない乾いた声だった。
「可能かどうかはさておき、失敗を繰り返さないための試行の繰り返しというものは、わたしの行動原理の中にもあります。博士はより生き物に近い機械人形を目指しました。そのため、わたしは自らの意思で考え、判断し、決定し、行動することが出来るのです。その基準となるものは、目覚める前に博士から与えられた知恵だけでなく、目覚めて以降、ずっと記憶され続けているわたしの経験も含まれます。その事を踏まえて考えるならば、ひょっとしたらわたしにも、燐火のような振る舞いが出来る日も来るかもしれません」
「そ、そうだよね。きっとそうだよ」
力強く同意を示したものの、カヤはくすりとも笑わない。ただただ無表情のまま、彼女は前を見続けていた。
「……ですが、それにはかなりの時間がかかります。計測不能なまでに。恐らく、緋桐様は待ってはくれないでしょう」
その言葉を、わたしは否定することが出来なかった。
博士に対して一歩も譲らず決定を伝えるその姿を思い出す。揺るぎない決意を再び揺るがせるのは簡単な事ではない。
待ってもらうにせよ、認めてもらうにせよ、生半可な事ではない。わたしに出来るだろうか。現実的に考えてみれば、悪い結果しか想像できない。
となれば、わたしが願うのはやはり、ここからの脱出だった。
決意を新たにし、わたしは勿忘草の肖像画の額に封筒を挟み、再びカバーで覆うと床に落ちたままの白い布を手に取った。埃が再び舞う中、ふわりと布を広げ、そして、カチャリという音に気付く。見れば、足元に小さな鍵が落ちていた。
「鍵……」
拾い上げ、よく目を凝らしてみる。微かな明かりに照らされて、鍵の姿が浮かび上がる。その持ち手には紙が貼られ、上からセロハンテープでぐるぐる巻きにされている。紙に書かれているのは、恐らくこの鍵が使用される場所だ。
「お役御免の……寝床」
呟いたその時、わたしはその場所で耳にした使用人たちの会話を思い出した。裏口の鍵がなくなってしまったという、あの話だ。
「こ……これって!」
思わず呟いたその時、同じく鍵を見ていたカヤが声をかけてきた。
「燐火」
カヤは溜息を吐き、わたしに言った。
「わたしはあなたに付き合います。あなたが満足するまで付き合います。けれど、あなたを不幸にしたくはない。だから、外に出る事は反対です」
念を押すような彼女の言葉に、わたしもまた正面から向き合った。
「あのね、カヤ。それでも、わたしは外に行ってみたい。この目で確かめてみたいの。それで、満足したら、またここに戻るって約束する。だから、お願い。一緒に来て。二人で一緒にいられる世界を目指したいの」
手を握るわたしを見つめ、カヤは軽く目を伏せた。
「言ったでしょう。あなたが満足するまで、わたしは付き合います」
しかし、その言葉には、憐みのようなものが含まれていた。




