2.健康診断
「今回も異常ナシ。燐火、相変わらず君は完璧だ」
カルテを書きながら、猫柳博士はそう言った。臙脂色のシルクのワンピースを、手古摺りながらもどうにか一人で着ながら、わたしは安堵の溜息を吐いた。
項と腰回りのリボンを結び、背中の翅が自由に動くか確かめていると、博士は続けて言った。
「ただ念のため、寝る前のシロップは必ず飲むように。ちょっとの体調変化が命取りになるのは人間も同じだからね」
「分かりました、博士」
素直に頷きながら、わたしはデスクの壁に飾られた数枚の写真をさり気なく視界に入れた。そこには、わたしの姉たちが写っている。無事に孵化し、けれど、長生きできなかった姉たち。博士にとっては誰も彼もが娘のようなものだったと聞いている。
「他に心配があるとすれば……排卵や産卵かね。君の遺伝的母にあたる妖精の話はもう聞かせたのだったかな」
「少しだけ……でも詳しくはまだ聞いていません」
「そうだったか。では、この際だから話しておこう」
そう言って、猫柳博士はわたしの方を向いた。
「前にも説明したが、君の遺伝的母親は、原生林で保護された野生種の個体でね。この世界の妖精の最後の生き残りかもしれないと非常に大切にされたのだが、二十歳を超えることなくあっさりと死んでしまったのだ。その原因こそが、産卵のトラブルだった。鳥類や爬虫類などで言うところの卵詰まりだね」
「上手く産めずに亡くなってしまったんですね」
わたしがそう言うと、猫柳博士は軽く頷いた。
「勿論、すぐさま処置をしたのだけれど、間に合わなかったのだよ。もうだいぶ昔の話だけれどね。あれから研究も進んだが、生と死の関わる現場に絶対というものは残念ながらあり得ない。有精卵にせよ、無精卵にせよ、産卵があるたびに、危険があるということは覚悟しておきなさい」
「……分かりました」
不安がないわけではない。けれど、これもまた、私の祖先である妖精の女性たちが経験したことに違いない。つまり、この厄介な危険さえも、わたしにとってはとても大事な試練でもあった。
「君や君の姉たちを生み出す前、私は一応、緋桐さんに確認したのだ。番う相手も作らず、交尾をさせる予定もないのであれば、生殖機能は最初から排除してもいいのではないかと。その方が、遺伝的母の死因となった事象を遠ざけられるだろうとね」
「──でも、それでは意味がありません。だって、緋桐様は野生種の妖精をどうしても再現したかったのでしょう?」
「ああ、その通り。まさしく、そのように否定されたよ」
博士の言葉に、わたしは思わず微笑んでしまった。敬愛する主人の気持ちをぴったりと当てることが出来たからに他ならない。
緋桐がその夢を初めて語ったのが正確にはいつだったか、実のところ覚えてはいない。ただ、蛹化するより前から、彼女の夢がわたしという存在に詰まっているということは何となく理解していた。
無事に羽化し、長い眠りから覚めた時に目にした、緋桐の表情は忘れられない。瞳を潤ませ、久しぶりに外気に触れるわたしの体を、質の良いタオルで優しく拭いてくれたあの感触に、全ての想いが込められていた。
絶滅してしまった蝶の翅の妖精を復活させること。それが、彼女の夢である。その為に旧知の仲である猫柳博士を支援して長いという事実もまた、わたしに対して誇りと責任感を与えてくる。
姉たちの生と死の記録。その積み重ねで今のわたしは此処にいる。この命はわたしだけのものではない。猫柳博士の、そして何より、緋桐の信念が詰まった結晶である。だから、わたしは完璧な妖精であらねばならない。作られた命であろうと、かつて森林を自由に生きたという野生種の妖精たちのようにあらねばならないのだ。
そして、その為には、時に合理的なアイデアを捨てて、敢えて無駄と思えるような機能も残さねばならない事もある。その一つが、生殖機能。次代を産む予定のないわたしにとって、卵が出来るという機能は、ただ健康を阻害するだけのものとなってしまっている。博士が排除しようと提案したのも頷けるだろう。
だが、それすらも、緋桐のために、完璧な妖精として生まれなければならなかったわたしには、決して無駄ではないのだ。何故なら、緋桐が再現を目指す野生種の妖精には、確かにあった機能なのだから。
「実をいえば私はね、君のフィアンセとなる個体も用意してみたかったのだ。野生種の妖精の復活を目指すならば、雌雄いた方がいいだろうと。けれど、それも断られてしまった。生殖機能を授けるからといって、用意した相手との生殖を強要するつもりはないのだと」
「ご主人様らしいお言葉です。確かに、せっかく用意していただけても、お互いに気に入るとは限りませんもの」
それに、実をいえば、かなりホッとしている事だった。何故なら、わたしの心はずっと緋桐に奪われているからだ。そんな緋桐が望むのならば、好きでもない同胞とまぐわって、彼女のために子を残すことも出来ただろう。けれど、可能であるとはいっても、心はそれだけ抉られてしまっていただろう。
もし、わたしが人間で、緋桐の異性として生まれていたならば、緋桐との間に子を残したかった。そのくらい、彼女に惹かれてしまっているのだ。猫柳博士にも、麦にすら明かせないこの気持ちがあるからこそ、わたしは今の状況の事を気に入っていた。
そんな事情があるとは、恐らく想像もしていないだろう。猫柳博士は微笑みながら頷いた。
「結果的に、緋桐さんのご希望に沿っておいて良かったというわけだね」
そう言って彼は再びカルテの続きを書き始める。
「次の健康診断は……再来週かな。季節も巡り、体にはさらなる変化が来るだろう。それまでに少しでも異変があったら、遠慮なく麦に言いなさい。すぐに私に伝わるようになっているからね」
「はい、分かりました」
「よろしい。では、診察は終わり」
彼の言葉に頷いて、わたしは椅子から立ち上がった。ずっと座っていたからか、軽く眩暈がする。ゆっくりと息を吐いて研究室を出ようとしたその時、ふと、わたしの視界に遮光カーテンの一つの赤色が入り込んできた。
隣室に繋がる扉を隠すカーテンである。窓辺の遮光カーテンが黒色なのに対し、真っ赤であるからかなり目立つ。その向こうでは、猫柳博士が研究に使っている薬や資料がたくさんあると聞いている。確か、わたしの誕生に使われた遺伝情報やサンプルなんかも管理されているのだとか。だが、そこに入った事はない。
だからだろうか。遮光カーテンの赤色が視界に入る度に、わたしは息を飲んでしまうのだ。
「どうしたんだい、燐火」
博士にそっと訊ねられ、わたしは我に返った。
「いえ、ただ、あのカーテンの向こうがどうなっているのか気になって。いつも閉め切られているなって思ってしまって」
正直に話すと、彼はちらりとわたしの視線の先を確認し、ああ、と短く声を上げた。
「準備室のことだね。前にもちらりと説明した気がするけれど、あそこには色んなサンプルなんかがある。作りかけ、作りっぱなしの装置もあれば、微生物なんかもいっぱい飼っていてね、だから、カーテンで遮っておかねばならないのさ」
「わたしの両親のデータもそこにあるんですよね?」
「ああ、それに、君自身のデータもね」
「わたしのデータ?」
「健康診断の結果、孵化した際の卵の殻、卵白の一部、蛹の殻の一部や、鱗粉、それに無精卵なのかも保管してあるよ」
「……何かに使う予定でもあるんでしょうか? 例えば、次なる新しい生命の研究だったりして」
と、その口調がやや刺々しくなってしまったのには理由がある。まさか、わたしというものがありながら、妹、もしくはわたしの娘にあたる新たな妖精を作るつもりではないかと不安になったからだ。
あり得ない話ではない。わたしだって、いつどうなってしまうか分からないのだから。けれど、理解は出来ても抵抗があったのだ。緋桐たちが次なる妖精の準備をしているその気配を感じるだけでも、耐え難かった。
そんなわたしのプライドを、猫柳博士も感じ取ったのだろう。彼は朗らかに笑いながら否定した。
「いや、そんな予定はないよ。君が何か大病をした時の治療などに備えての事さ」
「……本当かしら」
疑い深い部分が顔を覗かせるも、こちらは独り言に収まった。猫柳博士は明るい表情のまま、続けた。
「君もどうやらご主人様に負けず劣らずの心配性だね」
面白がるようなその視線を受けて、わたしは渋々ながら引き下がった。