1.大蜘蛛と小蜘蛛
──どうしよう。
扉に耳を押し当てたまま、わたしはしばし震えていた。
廊下の向こうでちらりとだけ目にした蜘蛛型ロボたちの事を思い出す。本物の蜘蛛や、従来の番犬ロボと違って、彼らは危害を加えてはこない。
なのに、わたしの頭の中に浮かぶのは、図鑑で目にした蝶を食べようとする蜘蛛の絵だった。出来れば、見つかりたくない。鉢合わせたくない。
音を探る限り、蜘蛛たちは、図書室のあちらこちらを捜している。猫柳博士の研究室で耳にするようなけたたましい機械音は、同じ機械仕掛けのはずのカヤとはだいぶ様子が違う。それに、時折、謎の信号音が聞こえてくる。機械同士で会話でもしているのだろうか。いずれにせよ、不気味で仕方なかった。
息を殺しながら、わたしは先程のカヤの説明を思い出した。
投網を打ってターゲットを傷つけずに捕まえるというのは、猫柳博士も自慢していたポイントだ。だが、それ以外にもカヤは特徴を語ってくれた。素早く動ける八本の足に、複数の目と二本の触肢でターゲットの位置を把握する力。その具体的な性能が気になるところだ。
触肢にあるという便利な機能ってなんだろう。もっと真面目に聞いておけば良かった。そんな後悔を今更していると、カヤがわたしに告げた。
「燐火……聞いてください」
辛うじてわたしにのみ聞こえる、耳がくすぐったくなるような小声だった。
「このままでは彼らに気づかれてしまいます」
「……でも、ここは鍵がかかっているよ」
同じくらいの小声でそう言ったが、カヤは首を振った。
「先程、省いた説明の一つです。大蜘蛛と小蜘蛛、それぞれの触肢には様々な機能が搭載されております。彼らはその部分を人間の手のように使う事が出来るのですが、それだけでなく、必要と判断すれば触肢を変形させてピッキング行為も致します」
「ピッキング行為って何……?」
不安になりながら尋ねると、カヤは落ち着いた様子で言った。
「施錠された扉を、鍵を用いずに解錠することです。つまり……彼らはここの鍵を開けられるという事です」
とっさに悲鳴を上げずに済んだ自分を褒めてやりたい。
ただ動揺は収まらなかった。彼らはいずれ此処に来るだろう。壁の向こう側を調べ尽くしたら、間違いなく此処を捜すはずだ。
「……どうしよう」
狼狽えるわたしに、カヤは言った。
「まずはこの扉から離れましょう。彼らは至近距離ならばターゲットの位置を正確に捉えます。その際、壁は意味をなしません。けれど、弱点もあります。彼らはさほど目がいいわけではないのです。動かなければ、気づきません。距離を置けばすぐには気づかれません」
カヤの言葉に、わたしもどうにか心を落ち着けた。
「分かった。此処から離れればいいのね」
息を殺して、同時にその場から離れていく。真っすぐ前ではなく、まずは、万が一、扉がすぐに開けられても死角になる方向へ、その後、十分距離を置いてから本棚の影に身を隠し、そっと扉の様子を確認した。
「それからどうしよう」
わたしが呟くと、カヤは言った。
「まずは様子を見ましょう。その後、隙を見て外に脱出するのです」
「うん」
短く答えて、わたしはしばし黙り込んだ。
思い出すのは、幼い頃に麦を困らせた無邪気なかくれんぼの事だ。あの頃は、隠れている間もドキドキしていたものだった。見つかった際も、麦を驚かせて、その反応を楽しんでいたのだ。こんなところにいた、と、呆れられる事自体も楽しかった。今思えば苦労をかけてしまったものだけれど、当の麦は懐かしんでその事を話してくれる。かけがえのない思い出でもあった。
このかくれんぼは随分と違う。見つかっても、叱られたり、呆れられたりはしない。当然、傷つけられることもないだろう。だけど、麦が鬼だったあのかくれんぼと違って、絶対に見つかってはならないという緊張感がある。本物の蝶が本物の蜘蛛に捕まれば、閉ざされるのは未来だ。では、わたし達の場合はどうだろう。
がちゃん、と、大きな音がした。施錠された扉特有の重たい音だ。何かが扉の向こうに集まっている。しばらくして、ドアノブが向こう側から動かされ、間違いなく鍵が掛かっている事が確かめられる。やがて、カチャカチャと金属がぶつかり合うような音がして、あっという間に、かちゃり、と、鍵の開く音がした。
「……燐火」
ほぼ吐息の音に近いカヤの呼びかけに頷き、わたしはさらに息を殺した。
扉がギイっと開かれ、すぐに何かが覗き込んできた。怪しげな機械音と信号音。薄暗い部屋の中で薄っすらと見えるのは、その輪郭。三体の小蜘蛛だ。小蜘蛛達はちょろちょろと中へ入り、ふと扉の入り口にいる大蜘蛛を振り返った。
大蜘蛛は、器用に体を変形させて、どうにか中へ入ってきた。その後ろにも仲間がいるのだろう。だが、入れるのは一体が限界だった。本棚が邪魔になっているためだ。小蜘蛛達はそんな大蜘蛛の様子を確認すると、信号音で何かを話し合い、すっかり諦めて動き出した。手分けして捜し始めるらしい。
幸いなことに、すぐにこちらには来なかった。
だが、それも時間の問題だ。いつかは小蜘蛛に気づかれてしまう。
──どうしよう。
ここに籠城するのはどうだろう。見たところ、大蜘蛛は入り口付近から動くことが出来ない。小蜘蛛がどれだけ騒ぎ立てても、書庫の奥に引っ込んでしまえば、投網も通用しないだろう。捕まる事は絶対にない。
だが、それでは結局、わたし達の方が不利だ。小蜘蛛たちは、けたたましい警報音を鳴らすと聞いている。その音は決して意味のないものではない。書庫から図書室、そして、付近の部屋へと響き渡り、人を呼ぶことになるだろう。
ではやはり、此処を出るしかない。
しかし、どうやって出るべきだろう。書庫の入り口はわたしの知る限り一つしかない。他にもあるのだとしても、小蜘蛛がうろついている今、探すのは非常に危険だ。
となれば、あの場所しかないのだが、唯一のその場所を大蜘蛛が守っている。真正面から飛び掛かれば、投網の餌食となるだろう。
「……燐火。お困りですね」
カヤが囁いてきた。
「わたしはこの逃亡劇を成功させたいわけではありません。けれど、あなたが困っているのでしたら、知恵をお貸ししましょう」
答える代わりにカヤの目を見つめる。黙ったまま軽く頷いてみると、カヤは続けた。
「蜘蛛型ロボは、高性能な警備ロボです。けれど、明確な弱点もあります。それは物理的な衝撃に非常に弱い事です。彼らの脆弱性に頭を悩ませた博士は、わたしを作る際にまず、コランダムと同程度の頑丈さに拘りました。それくらい、蜘蛛型ロボたちは繊細だったのです。わたしは頑丈に作られましたが、彼らは改良されておりません。攻撃をされる前に捕まえる事を前提にしているため、不必要と博士は判断したのです」
「……ってことは、捕まらずに攻撃できれば勝てるってこと?」
「そういう事です」
カヤの説明に一縷の望みを見出した。けれど、すぐにわたしの視界は暗くなった。
物理的衝撃と言っても、一体どうすればいい。蝶の翅を持つ妖精という生き物は、戦闘に長けていたわけではない。確かに物語では木製の武器を手に勇ましく戦っている姿も描かれていたけれど、生憎、わたしは戦う術なんて知らない。
──そもそも武器だって。
と、早くも諦めかけてしまったその時、わたしの視界にある物体が映り込んだ。書庫の端に置かれていた、アルミ製の脚立である。背丈はわたしの肩当たりまで。大きいが、見た目ほど重くない事は知っている。前にこれを使って作業をする人に話しかけて、持たせて貰ったことがあるからだ。
「あれを武器にすれば……」
と、その脚立に手を伸ばした時の事だった。
ビビビっと耳障りな警報音が背後から響きだした。振り返ってみれば、カサカサと猛スピードで走り寄ってくる物体がそこにいた。
複数の目を赤く光らせ、表情のないはずの顔に敵意を浮かべるそれは、小蜘蛛の一体だった。