3.反抗する理由
さて、何処へ行くべきだろう。
少なくとも、此処でじっとしているという選択肢はない。
彼らの話を信じるならば、蜘蛛型ロボもいずれここへやって来るだろう。大蜘蛛がこの家具だらけの部屋に入り込めなかったとしても、小蜘蛛は間違いなく入り込んでくる。わたしたちを見つければ、大騒ぎすること間違いない。
その騒ぎを聞きつけて、もしも此処にたくさんの人が集ったならば、わたし達の逃げ場は何処にもない。この場所は隠れるには適しているけれど、見つかった時の事を思えば危険すぎる場所である。
──せめて、扉が開けば良かったのだけれど。
そこは恨んでも仕方がない。開かないものは、開かないのだから。となれば、移動するのは確定として、すぐに決めなくてはならないのは、その移動先である。
温室、談話室、倉庫、客間、応接室、図書室……。複数の候補が真っ先に頭に浮かんだ。いずれも、わたしが無邪気な青虫だった頃に、麦を困らせていた場所だ。かくれんぼも回を重ねれば、だいたい分かってくるのだろう。すぐに見つかったものだった。だけど、飽く迄もそれは麦が相手の場合である。
蜘蛛型ロボとはまだかくれんぼなんてしたことがない。もしかしたら、うまく掻い潜れるかもしれない。では、そのうちの何処へと向かうべきだろう。迷いながら、わたしはその候補を一つずつ消していった。
まずは温室。いつもわたしが和むあの場所は、植物たちがひしめき合っている。読書スペースこそ小部屋のようになっているけれど、それ以外はまさに小さな密林だ。しかし、実のところ隠れられる場所はそんなにない。それに、あの場所は誰もがわたしと関連付ける場所だろう。多くの人が立ち入る可能性を考えれば、隠れるのは止めた方がいい。
次に、談話室。幼い頃はよくそのカーテンの裏や、掃除用具入れの中などに隠れていた。だが、それらの隠れ場所は、此処とおなじように見つかったら逃げ場がない。それに、いずれも小さすぎて、おひとり様専用である。カヤを連れて逃げるなんてことは、出来ないだろう。
残すは四つ。さて、何処へ行くべきか。
ここから近い場所は確か──。
と、頭を働かせ続けていると、不意に両肩を揺さぶられた。
「燐火……」
必死さが込められたその声色。人形ながら感情のこもったその眼差しが間近に迫り、わたしは面食らってしまった。どうやら、ずっと彼女に話しかけられていたらしい。
「ご、ごめん、カヤ。考え事をしていて……」
とっさに謝ると、カヤは肩を落とした。
「構いません。ですが、どうか、少しの間だけお耳をお貸しください」
おずおずと頷くと、彼女は言った。
「燐火、あなたは、この屋敷を出て行ってはなりません」
半ば怒ったような口調に、わたしは息を飲んでしまった。
「勿論、必ずってわけじゃないよ。ただ、あなたを奪われるくらいなら、一緒にここから出ていきたいの」
迷いなくそう言ったが、カヤはきっぱりと言った。
「なりません」
「どうして?」
「あなたの健康を著しく害することになるからです」
カヤはそう言うと、諭すようにわたしを覗き込んできた。
「いいですか、燐火。わたしの中には滅びの一途をたどった妖精たちの情報が記録されております。その大きな理由が、生活環境の変化でした。この世界の森はもう、あなた達妖精の暮らせる環境ではないのです。だから、世界で最後の蝶の妖精は人の手で保護され、理想的な環境で守られる事となって、それに異を唱える者も現れなかったのです」
「……そ、そんなこと」
緋桐は、猫柳博士は、教えてくれなかった。
だが、カヤが嘘を言っているようにも見えない。きっと本当の事なのだろう。本当にあった事として、彼女の中に記録されているのだろう。
しかし、わたしは相当な、分からず屋だった。こうしたいと一度でも願った事を、そう簡単に諦めることが出来なかった。それに、疑い深かった。カヤが嘘を言っているとは思わない。だが、カヤの優れた頭脳に刻まれたその情報については、一切疑うことなく信じるなんて出来なかった。
けれど、わたしはそれをうまく言葉に出来なかった。ただただ反論の言葉を探っているうちに、カヤの方が先に言った。
「どうして」
声を潜めつつ、心底呆れたように、彼女は言ったのだった。
「どうして緋桐様を困らせるような事をなさるのですか。どうして反抗なさるのですか。彼女はあなたを我が子のように愛しております。あなたを大事になさっているのです。それなのに、どうして」
どうして、だろう。真っすぐ問われ、再びその疑問に頭を支配される。どうして、わたしは緋桐に反発しているのだろう。
色々と知ってしまい、怖いと思ったのは確かだ。では、緋桐を嫌いになっただろうか。いや、そんな事はない。緋桐を悲しませたいのだろうか。いや、それも違う。けれど、間違いなくわたしは、緋桐にただ従うことが出来なかったのだ。その理由について、静かに、落ち着いて噛み砕いていくうちに、わたしは一つの答えに辿り着いた。
「多分だけど……緋桐様を嫌いになりたくないからだ」
呟くわたしに、カヤは首を傾げた。
その表情には困惑が窺える。きっとわたしが何を言っているのか、その意味が分からないのだろう。それは、わたしも同じだ。わたしもわたしが分からない。だが、これは確かだ。嫌いになりたくない。なりたくないから、わたしは緋桐から逃げているのだ。
「よく、分かりません」
カヤの言葉に、わたしもまた頷いた。
「そうだよね、わたしも分からないもの。だけどね、これは確かな事なの。わたしは緋桐様を嫌いになりたくないの。だから、カヤを連れて逃げなくちゃいけない。だって、カヤと離れ離れになりたくないから」
「でも、緋桐様だって、あなたにずっと傍にいて欲しいと願っております」
諭されるようにカヤに言われ、わたしは答えに窮してしまった。焦りながらどうにか捻り出せたのは、突きつけられた事実から逃れるような問いかけだった。
「カヤは、わたしの事が嫌い?」
「嫌いじゃありませんよ」
「一緒にはいたくない?」
「一緒にいたいですよ」
「じゃあ、一緒にいて」
懇願するわたしを見つめ、カヤは溜息を吐くような動作を見せた。
「燐火、今日のあなたはとても不可解です」
淡々とそう言って、だが、彼女はこう続けた。
「けれど、緋桐様や猫柳博士によれば、そんなあなたこそが完璧なのだそうです。わたしには再現できなかった部分。きっと、あなたの方が正しいのでしょう」
カヤはぽつりと呟いた。その様子が何処か寂しげだったのは、わたしの気のせいだろうか。ともあれ、カヤは少し間をおいてから、わたしに告げたのだった。
「分かりました。しばらく、あなたの行くところについて行きます。あなたが諦めぬのでしたら、それも結構。歩んだ先に、どんな結末が待っていたとしても、わたしはあなたの傍に居続ける事を誓います」
その言葉を聞いた途端、一気に視界が晴れたような気分になった。だが、すぐにわたしは心を落ち着け、カヤの手を握りしめた。
「ありがとう、カヤ。約束するから。わたしは絶対に、あなたの事を見放したりはしない」
そして、手を繋いだまま、わたしはこのお役御免の寝床の出入り口を視線で促した。
「まずは此処を出よう。蜘蛛たちが起きだす前に、移動しなきゃ」
共に階段へと向かって、静かに上階を見上げていると、カヤがそっと訊ねてきた。
「それで……何処へ向かうのです?」
その問いに、わたしは少しだけ考えて、そして真っ先に浮かんだ場所の名前を口にした。
「図書室。図書室に行こう」
直後、わたし達は互いに頷き合い、共に階段を踏みしめた。




