3.すれ違いの果てに
夕食後、就寝には早く、温室で暇つぶしをするには遅すぎる時刻。わたしは自室と廊下をふらふら行き来していた。
背中の翅が頻りに動いてしまうのも、まとまらない思考によるものだろう。これまで就寝時刻までの小一時間を、どのように過ごすべきかと。
いつもならば麦が寝る前のシロップを運んでくるのを部屋で大人しく待っているところだが、今宵はそんな気分になれない。ほんの僅かな時間であっても、間に合うならば行きたい場所があったのだ。
だが、本当に間に合うだろうか。うっかり就寝時刻を過ぎてしまい、麦を困らせる事にならないだろうか。その迷いが行動に現れた結果、部屋と廊下を何度も行き来する羽目になっていたのだ。
勿論、迷いに迷っているうちに答えは定まっていくもので、気づけばわたしは自室から段々と離れていた。一度それを自覚してしまえば勇気は出るもので、ついにわたしは開き直って温室を目指すことが出来た。
それでも、ずっと後ろ髪を引かれるような気持ちになってしまうのには理由がある。向かっている先が、本当は温室ではなくカヤの元であったからだ。
今日はまだカヤに会っていない。カヤと出会って以来、そんな日は何度もあった。出会ったばかりの頃は、それでも諦めがついていたものだった。
また次の機会を見つけ出せばいい。心配せずとも、緋桐も、猫柳博士も、二人とも出かけてしまう日なんて幾度となくあったから。だが、日を追うごとに、カヤとの交流が増え、その思い出が重なるごとに、わたしは段々とカヤに会えない日の退屈さに耐え切れなくなっていったのだ。
せめて、おやすみを言いたい。話せるのは五分だけだっていい。顔を見るだけでも十分だ。その願望が強まり、もしかしたら見つかるかもしれない、叱られるかもしれないという不安と拮抗する。
内緒の関係ならば、当初のように会える機会をよく考えて会いに行けばいいのに、一度、開き直ってしまえば、立ち止まるのは難しかった。
だが、それが寧ろ良かったのかもしれない。
「……それで、期限は?」
「年内の何処か。そこは譲れません」
あともう少しで温室にたどり着くという時、わたしの歩みを止める話し声が聞こえてきた。
この時間はいつも無人であるはずの部屋の一室が明るい。ふと気になって、きちんと閉め切られていなかった扉の隙間から、そっと中を覗いてみれば、そこには緋桐と猫柳博士が二人きりでいた。
向かい合って座る二人の横顔が見える。緋桐は至って冷静だったが、猫柳博士は何処か暗い表情をしていた。
「あとは博士次第です。博士の気持ちの整理がつき次第、私はこの話を進めるつもりです」
真っすぐと告げるのは緋桐である。
何の話だろう。息を殺し、耳をそばだて、わたしは扉の向こうへとさらに意識を向けた。
博士は俯いている。俯いたまま手を組み、そして、大きく息を吐いた。
「そもそも、あの子は緋桐さんのモノだ。私は依頼を受けて作っただけ。あの子をどうするかについては、私の意見など気にしなくていい……」
「ええ、契約書に従うのならば、そうしたって良かった。けれど、そうはいっても、アレを作ったのは博士なのです。博士にとって、アレは娘のようなものでしょう。相談もせずに手放すことは出来ないと判断したのです」
「……確かにあの子は娘のようなものだ。本音を言えば、今すぐに買い戻したいくらいだ」
「勿論、博士が買い戻したっていいのです。それが可能であれば。けれど、その場合は、この屋敷に置くことを禁じます。何処か余所に部屋を借りて、そこで保管しておいていただけますか?」
さらりと言われ、博士はグッと息を詰まらせた。返答はない。ただじっと俯いている。今すぐに答えられない事なのだろう。
わたしはさらに聞き耳を立てた。何の話か探るのに必死だった。誰の、何の、話を、二人はしているのだろうかと。
本当はこの時点で、薄々分かってはいたのだ。だけど、信じたくないという気持ちが勝っていたからだろう。勘違いだと思いたい気持ちが溢れ、わたしに理解することを拒ませようとする。
だから、わたしは音もなくしゃがみ込み、そのまま静かに耳を傾け続けた。
「アレはとても素晴らしい作品でした」
緋桐が言った。
「私に束の間の夢を見せてくれた。懐かしく、切ない夢を。幼い頃、何度も一緒に古いスタイルの人形劇を観に行きましたね。機械ではなく、人が操って劇を演じさせる。あの時、まだ可愛い少年だった博士が言ったように、私も魔法にかけられたのです。本当に魂が宿っているかのようだと。……でも、夢は夢でした。アレは生き物ではないのです。作られた命ですらないのです」
アレ、と、呼ぶ緋桐の表情──その姿が、わたしには辛かった。
博士もまた暗い表情のままだった。目を伏せたまま、ぽつりと漏らす。
「分かっておりますとも。それについては私も同じ気持ちだったからね。あの子は機械人形としては素晴らしい出来だった。私の自慢の娘だ。けれど、緋桐さんの求める理想とはかけ離れていた。そこは否定することも出来ない。そして、緋桐さんが手放すというのならば、それを阻止する権限も私にはない」
緋桐が静かに頷くと、今度は博士が顔を上げた。
「だが、せめて聞いておきたい。私が買い取らない場合、あの子は今後どうなるのです。何処か当てがあるのかい?」
「……ええ、あります。それも複数のお声がかかっております。博物館、研究所、それに人形愛好家。そのいずれも、アレを大切に保管してくれると約束してくれました。何処に嫁がせるかは、博士が決めていただいても構いません」
「博物館、研究所、人形愛好家、か……」
いずれにせよ、博士は納得がいかないのだろう。
わたしは、放心していた。ここまで聞いていて尚、信じたくないという気持ちがあったのだ。そうだ。まだ、はっきりと聞いていない。誰の話をしているのか、その名前もはっきり出ていないのだから。それ以上、彼らの姿を見ている事すら出来ず、わたしは扉の前に背を向けた。膝を抱え、耳だけを澄ませ、そのまま床の影を眺め続けた。その背中越しに、二人の声は聞こえてきた。
「どうしても、気持ちは変わらないのだね?」
博士の問いに、緋桐は即答する。
「ええ」
揺るぎないその声に、博士もついに諦めがついたのだろう。深いため息の後で、彼は静かに言ったのだった。
「分かった。では……カヤにも選ばせるとしよう」
博士の声が、異様に頭に響いた。
──カヤ。
その名をはっきりと耳にしてしまった以上、もう目を逸らすことは出来ない。今の話は間違いなくカヤの事。緋桐がカヤを手放そうとしている。
──カヤ……!
直後、わたしはその場から逃れるように走り出した。緋桐たちに気づかれるかもしれないという恐れすら、わたしの頭にはなかった。その余裕がなかったのだ。ただただひたすら走り、わたしは温室を目指していった。
カヤに会わないと。博士よりも、緋桐よりも先に、カヤに会わないと。このままでは二度と会えなくなるかもしれない。
──そんなのは嫌だ。
転がり込むように温室へと入ると、そのままわたしはいつもの読書スペースへと潜り込み、いつもよりだいぶ乱暴に書籍とコルクボードを退かして扉を開けた。
不用意に音を立てぬようにだとか、はしたない真似はしないようにだとか、そういう事も考えている暇はなかった。とにかく道を開けると、危険から逃れる獣のように扉をくぐり、そして、準備室へと侵入した。そして、いつものように布のカバーを掴むと、乱暴にそれをひったくったのだった。
カヤはいつものようにその下にいた。いつもとは違うわたしの振る舞いに驚いた様子でこちらを見つめてくる。だが、わたしと気づくとすぐに落ち着いた表情に戻り、そっとこちらを窺ってきた。
「いかがなさいました、燐火?」
その声、その表情を前にしていると、どっと涙が溢れてしまった。だが、泣いている暇など今はない。
「お願い、今すぐ一緒に来て!」
わたしはとっさにカヤの手を握りしめたのだった。