1.一日の始まり
──わたしは今日も完璧だ。
豪奢な姿見を確認しながら、わたしは自分に言い聞かせた。
カーテンで仕切られた向こう側にある一度も出たことのない庭は、仄かに赤く染まっていた。朝日が昇り始めるこの時刻。世話係の麦が、本日のわたしを彩るとっておきの衣装を持ってくるまでの、僅かな孤独の時間。この瞬間にどれだけ自尊心を高めておけるかということが、わたしの一日の運勢を大きく左右することになる。
姿見に映るわたしに不足はない。寝ぐせもなければ、背中に生えた青白い蝶の翅も皺一つ見当たらない。仄かに輝くその光沢も瑕瑾はない。その輝きに我ながら取り憑かれていると、不意に部屋の扉がノックされた。程なくして入ってきたのは、本日の衣装を運んできた麦だった。
「おはよう。今日の気分はいかが?」
そう言って微笑みかけられることが、何よりの目覚ましでもある。
「おはよう、麦。何も問題ないよ」
そう言って、すぐにわたしはネグリジェを脱いだ。真っ白なコットンから、臙脂色のシルクへ。その着替えを、途中からは麦に手伝って貰いながら、わたしは黙々と支度を整えた。
全てはこの後の朝食の為。これから顔を合わせる二人の人物に、今日も完璧なわたしの姿を今一度確認してもらう為である。
「はい、出来た。うふふ、今日も素敵ね、燐火」
背中の翅を軽く動かしながら、わたしは静かに頷いた。
燐火。その名の由来は背中の翅にある。
宝石のようだとよく麦に褒められるこの翅の色は、どうやら死者の傍に現れるという蒼き焔の色にも似ているらしい。
何故、その印象をわたしの名に選んだのかは分からないが、少なくとも名付け親がわたしを愛していないというわけではないと断言できる。
名付け親であり、わたしの主人でもある緋桐は、わたしを実の娘のように──いや、それ以上に愛してくれているからだ。
そうでなければ何故、こんなにも恵まれた暮らしが出来るだろう。主人にも、生みの親、さらには世話係にも愛されて、わたしは満ち足りていた。
ただ、足りないものがあるとしたら、と、無意識に視線が向くのはベッドの上。そこには、蛹化する前の青虫時代に緋桐から与えられた人形が横たわっている。
羽化して翅の生えた今、わたしはもう子供ではない。だからと言って、大人というにはまだまだ未熟であるそうだが、少なくとも幼児などではない。
それでも、自分でも不思議なくらい、あの人形と共に眠る習慣が抜けなかった。
寂しいからなのだろうか。あの人形がわたしにとっては唯一の友達だから。
「燐火?」
麦に名前を呼ばれ、わたしは我に返った。姿見越しにその顔を覗くと、麦もまた姿見越しにわたしを見つめて笑いかけてきた。
「今日は週に一度の健康診断もあるから忘れずにねって、猫柳の伯父様が」
「うん、分かった」
こくりと頷き、わたしはそっと襟を整えた。
それから、程なくして、わたしは麦と共に食堂へと向かった。すでに朝食を共にする二人は待っていた。
片方は猫柳博士。麦の伯父であり、わたしの生みの親でもある。ふわふわの髭が生えた特徴的な外見は、血の繋がっているはずの姪っ子・麦とあまり似ていない。それでも、その親しみやすさは同じだった。
そして、食卓の上座に座る長身の女性が緋桐である。黒髪に青白い肌、そして深みのある褐色の目が印象深い女性。
この屋敷の女主人で、猫柳博士を支援している人物。わたしの主人である。
「おはようございます、ご主人様、博士」
挨拶をすると、二人共にこやかに返してくれた。安心して、そのまま下座に着席すると、すぐにグラスと小皿が運ばれてきた。
中に入っているのは、特製の蜂蜜茶である。そして、隣に置かれた小皿には同じ蜂蜜が固められた飴玉がある。これこそが、わたしの食事であった。
「いただきます」
学んだとおりに静かに唱え、そっと口を付けると、途端に甘味が口いっぱいに広がっていった。
とろりとした蜂蜜の味は、羽化して以来、当たり前のように味わってきた。けれど、その味もまた恵まれているからこそのもの。その事をわたしは知っている。
羽化して間もなくの頃、見聞を広める名目で、博士から学んだことがあるのだ。かつて、この世界の森林で暮らしていたという本物の妖精たち──つまり、わたしの遺伝的な先祖となる種族が味わっていたという野生の花蜜の味を。
その味は、確かに甘かったが、いつもいただくこの蜂蜜茶を知っていると、あまりに物足りないものだった。あの経験があったからこそ、毎日飲める蜂蜜茶の有難みが良く分かる。そして、緋桐に愛される妖精である悦びもまた、理解できるというものだった。
ことり、と、グラスを置くと、緋桐はわたしに話しかけてきた。
「今日の服、期待していた通り、よく似合っているわね。着心地はいかが?」
「とても快適です」
「それは結構。もともとは人間用の衣装だったの。それを仕立て直して貰ったものだから、少し心配していたのよ。背中は窮屈ではない?」
「はい」
「そう。それなら、ちょっと動かしてみて」
愛らしく命じられ、わたしはすぐさま従った。
軽く羽ばたくと、微かに鱗粉が零れ落ちるのを感じ、わたしは躊躇った。まき散らすのは行儀が悪いと前に猫柳博士に言われたからだ。食堂ともなれば尚更の事。だが、緋桐の前であるからだろう。猫柳博士は何も言わなかった。緋桐も同じだ。むしろ、彼女は零れ落ちた青白い鱗粉を見つめ、何処か嬉しそうに目を細めていた。
「確かに大丈夫そうね」
ホッとしたように呟く彼女に、猫柳博士は軽く笑みを向けた。
「相変わらず心配性だね、我らがお城の女王陛下は」
「博士、からかうのは止していただける? それに、手が止まっていますわよ。今日は燐火の大事な健康診断のはずでしょう?」
「ああ、分かっているよ。あまりに美味しい朝食だからね。ついつい味わってしまったのさ。心配せずとも、健康診断まで十分時間はあるとも」
「頼みますわよ、博士。せっかくここまで順調だったのですもの。もう、悲しい想いは懲り懲りですからね」
「ご安心なさい、緋桐さん。ここまで来たならば大丈夫。早死になんてさせませんよ」
そう言って笑う猫柳博士を見つめながら、わたしは黙ったままグラスに口をつけた。
安心させるような態度の猫柳博士に対し、緋桐もまたつられて笑うも目が笑っていなかった。その心にはきっと、わたしという作品が完成するまでの辛い思いがこみ上げてきているのだろう。そんな事が慮れ、わたしは何も言えなかった。
少なくとも、三回。悲しい思いを緋桐はしている。そう聞いている。卵のまま孵らなかった分も含めればもっとたくさんだろう。だが、この三回が特に辛い経験となったという話だ。
一回目は孵化から一年、三回目は蛹化直前。博士の研究で生まれた姉たちは、翅も生やさずにこの世を去ってしまった。
中でも緋桐が泣きじゃくったというのが二回目の別れである。無事に蛹になったのに、蛹のまま死んでしまったらしい。だから、わたしが無事に羽化した時の喜びようは凄まじかった。
──ああ、これでやっと。やっと近づけるのね、私達の夢見た未来に。
そう言って博士と喜び合っていた彼女の姿は、今も鮮明に覚えている。
あの日、わたしは完璧になった。
姉たちが辿り着けなかった場所に、辿り着くことが出来た。羽化したばかりの裸体を、緋桐の手で丁寧に拭かれながら、その愛を直に感じながら、わたしは生きている事を誇りに思いながら、そして強く誓ったのだ。
──もっとこの人を悦ばせないと。
それはきっと、羽化してすぐに実感したからだろう。
完璧なわたしは、主人である緋桐の愛を一身に受けることが出来る。そうして味わえる全ての贅沢は、この上ない幸福であるのだと。
何も考えずに飲む蜂蜜茶と、この事を強く意識して飲む蜂蜜茶の味は全く違う。ただただ恵まれているからではなく、緋桐に愛されているからこそ、わたしは幸せなのだ。
だからこそ、わたしには使命があったのだ。
これからも完璧でいなくては。
夭折した姉たちのようには、絶対になってはいけないのだと。