1.はじめての朝
遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。窓が開く音がして柔らかい風が真白の頬を撫でた気がした。
「……あれ?」
真白の口からそんな言葉が漏れた。まどろみから目覚めると、木張りの天井が見えた。
「おっ、起きた」
ぼーっと天井を眺めていると、そんな声が聞こえてスチール製のサーベルタイガーが真白の視界いっぱいに広がった。
「きゃあ!?」
驚きすぎて飛び起きたと同時に真白の喉から変な声が出た。危うく真白はサーベルタイガーの頭に激突するところだった。
「お、おはよう。元気だな」
そこにいたのは意識を失う前に出会ったアルと呼ばれていた少年だった。アルは少しだけ面食らった様子だったがそれだけ言った。
ふと、視界に違和感があった。手で顔を触ってみると左目に眼帯がつけられていた。
「それは外すなよ。また吐いちまう」
気を失う前の出来事を思い出して真白は急に恥ずかしくなった。人前で戻してしまうなんてみっともなさすぎて今すぐにでも消えたい気分になる。
「気分はどうだ? アンタ三日も寝ていたんだぜ」
「……悪くはないけど」
アルの言葉にそう答えてから真白は自分の恰好が気を失う前と違うことに気が付いた。
「あの、私、ふ、服……」
「汚れていたから着替えさせたよ。汚い恰好のままでベッドを使われるのって気分悪いしね」
それを聞いた瞬間、真白は一気に顔が熱くなるのを感じた。真白は物心がついてから今まで父親にさえ自分の裸を見られたことがない。
あまりにも恥ずかしくて気が付けば真白の目からポロポロと涙がこぼれた。
「え、ちょ、おい!? 何!? どうしたんだよ!?」
真白が泣き出したせいかわからないが、アルが急に慌てだした。
「おぅおぅ、おぬしも女子じゃのぅ。アルに裸を見られたと思って泣いておるのか」
大人の女性の声がした。しなやかな体つきのセクシーな女性が悠々と部屋に入ってくる。エキゾチックという言葉がよく似合う背の高い美女だった。褐色の肌にプラチナブロンドの美しい髪。ルビーのような紅い目。ノースリーブの空色のワンピースには、花柄の美しい刺繡が施されている。スリットの入った膝上のスカートからは、しなやかな脚が伸びていて、女の真白でも見とれてしまうほどにきれいだった。
「え、な、なんでそうなるんだ?」
アルが焦った様子で女性に聞き返した。
「安心せぃ。おぬしの服を変えてやったのはわらわじゃよ。まったく、貧相な体の分際で色気づきおって。おぬしの裸なんぞ見ても誰も得せんわ」
「お、俺は見てないからな!」
アルは少しだけ頬を紅潮させて真白から顔を背けた。なんだかちょっと貶された気がして、真白の涙は引っ込んでしまった。
「お、起きたんなら朝飯にしようぜ。準備ができたら下に降りて来いよ。アセナ、あとは頼んだ」
アルはそう言うと足早に部屋を出て行ってしまった。アセナと呼ばれた女性は、アルを見送ると、心底楽しそうにクスクスと笑った。
「うぶなやつよのぅ」
アセナの顔をじっと見つめながら真白は意識を失う前の出来事を思い出していた。
――――アセナ。
――――確か、あの子がアセナと言ったとき、光の奔流がそれに呼応するようにゾンビに攻撃を加えていた。ということは、この女性が光の奔流?
――――でも、今は普通に声が聞こえている。脳に語り掛けてくるようなあの気持ち悪さはない。こんなに近づいてきても、気分が悪くはならない。
「まるで百面相じゃのぅ」
アセナが真白の顔を見てニヤニヤ笑った。そこまで顔に出ていたのかと、真白は急に恥ずかしくなった。
「おぬしの疑問はわかっておる。とりあえず、着替えが先じゃ」
アセナが真白に差し出した着替えを見て、真白の喉から変な声が漏れた。
青い花の刺繍が施された半袖の白いチュニックに赤いプリーツキュロット。膝までカバーできそうな黒い靴下とこげ茶色のブーツ。あからさまにこどもっぽい服のチョイスに、真白はめまいがした。
「ちょ、ちょっとさすがにこれは……」
「なんじゃ、不満か? おぬしにピッタリのものをコーディネイトしてきたというのにぃ。ほれ、ものは試しじゃ。着替えた着替えた」
そういうや否や、アセナは真白の服を引っ張って脱がせてきた。真白は思わず悲鳴を上げた。
「本当に貧相な体じゃのう。もっとわらわのようにセクシーに育たねば男がひとりも寄ってこんぞ」
アセナがあてつけのようにセクシーポーズを取った。出るとこは出て締まるところは締まっている。悔しいが彼女は確かにきれいだった。そう思う自分が腹立たしい、と真白は思った。
「余計なお世話よ!」
アセナにまた貶されて真白はそれしか言い返せなかった。大体、二四歳の女がこんなこどもっぽい服を着るとか、痛々しすぎるわと、真白は腹立ちが治まらない。しかし、これしか着る服がない。真白は仕方なく、アセナが持ってきた服に袖を通した。
最後に真白はベッドわきにさりげなく置いてあったおじいさんの杖を腰に差す。
「うむ、良き良き」
アセナはニコニコしてそう言うと、クローゼットの扉を全開にした。クローゼットの扉の裏には全身を映せる姿見がついていて、真白の全身を映した。それを見た瞬間、真白は全身の毛が逆立つのを感じた。
――――そこに映っていたのは、十四歳の真白だった。
熱い何かが胃の中から込み上げてきて、真白は思わず左手で口を押さえた。
「なんで……」
そう声に出した瞬間、真白の脳裏にある光景がよみがえった。
――――戻りたいなぁ、あの頃に……
――――あの頃?
――――祖父母と一緒に暮らしていた、十年前。私が十四歳だったときに。あの時が私は一番幸せでしたから……
――――……あいわかった。
――――あの時だ! おじいさんは、私が望んだことを叶えたんだ……!
でも、と真白は思いなおす。真白は祖父母がいたあの頃に戻りたいと言っただけで、自分の体を十四歳に戻してくれとは頼んだ覚えはない!
――――体だけ若返ったとしても祖父母がいないんじゃ意味がないじゃない!
「おや、また顔色が悪くなった。人間とは、実に愉快よのぅ」
アセナは真白を見て心底おかしそうに笑うと、ぽんっと頭に手を置いた。
「ほれ、髪を整えてやろう。身支度を整えたらアルのもとへ向かうのじゃ」
アセナに促されて真白は部屋を出ようと歩き始めてから、ふと視界の端に動く影が見えて窓の外に目をやった。
遠く南の青い空にエンシェント・ドラゴンが羽ばたいているのが見えた。
――――ここは少なくとも日本じゃない。いや、そもそも地球じゃないのかもしれない……。
真白はエンシェント・ドラゴンが小さくなっていく背を見つめながら、一抹の不安に駆られた。