1.知らない森
どこからか虫の声が聞こえる。生ぬるい風が真白の頬をそっとなでた。土の匂いがする。
重いまぶたを開けると真白は自分の目を疑った。
――――そこは森の中だった。
「え、なに。どういうこと……!?」
真白は頭がくらくらした。あたりは真っ暗だった。しかし顔をあげてみると木々の隙間から満天の星空が見えた。星の明かりだけがかろうじて辺りを照らしていた。そこらかしこから動物たちの光る眼に見られている気がして気味が悪かった。左目がじんじんと痛みさっきの出来事が脳裏をよぎった。
ここには真白以外の生き物の気配がない。その事実に気が付いて真白は急に心細くなった。
「おじいさん! どこですか!?」
さっき会ったおじいさんを呼んでみてもその呼び声すら森の中に消えていくだけだった。
「ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待ってよ! どうなってるのよ、これ!? ……まさか、夢!? 夢かな!? もうやだなぁ! 夢なら早く目覚めないと……!」
真白は懸命に状況を理解しようとそう声に出していた。だが一生懸命言葉を紡いでみてもただの独り言にしかならない。
ふと、真白は自身が右手に何かを握っていることに気が付いた。
「これは、……さっきおじいさんが持っていた、杖……?」
真白は一瞬それを取り落としそうになったが、すぐに杖を強く握りしめた。これを手放してしまえば真白とおじいさんの繋がりが切れてしまう気がしたからだった。
とりあえず、と真白はぐるりと周囲をもう一度見渡した。やはりさっきと変わらない光景が目の前に広がっていた。森の中で間違いないらしい。
「一体どうなってるの……?」
ついそんなことを独り言つも、その問いに答える者はいない。
真白がどうしようかと考えあぐねていると、不意に視線の端にちらちらと光が見えた気がした。真白がその光の方向に目を向けると、森の木々の間をすり抜けるようにゆらゆらと揺れる松明の火がこちらに近づいてくるのが見えた。
「なに……?」
真白は思わずつぶやく。松明を掲げた誰かがこちらに走ってきた。外国人のように見える。
「……!? ***、***!?」
その誰かが何かをしゃべった。まったく聞いたことのない言語。だがその言語を聞いた瞬間、真白の頭に激痛が走った。
「……痛っ!! 何……!?」
あまりにもひどい痛みに真白は吐きそうになる。地面に膝をついて頭を押さえると徐々に痛みが引いてきた。
「おい、君!! おい!!」
急に言葉がクリアに聞こえた。その誰かがしゃべっている言葉が急に聞き取れるようになる。
「……へ?」
驚いてその誰かを見上げると、その人は心配そうに真白の顔を覗き込んだ。若い外国人の男性だった。
「大丈夫か!? 何があった!?」
「……こ、言葉……」
違和感なく聞き取れる言葉に真白は唖然とするしかない。
「どうした!? 言葉がなんだって!?」
「い、いえ、さっき、言葉が……」
そう言いかけてズキリと頭が痛んで、また頭を押さえた。
「大丈夫か!? 頭を打ったのか!?」
男性は慌てた様子で真白の顔を覗き込む。
「い、いえ、なんでもないです……。それより、あの、ここは? あなたは誰ですか?」
近すぎる距離感に気恥ずかしくなって真白は慌てて男性から距離を取ろうとした。だが真白はなぜかスラックスの裾を思い切り踏んで盛大に転んでしまった。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「は、はい……」
男性は真白の体を支えるように立たせてくれた。自分の間抜けさに真白は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
「迷子になったのかい? ここがどこかわからない?」
「え、えぇ、さっぱり……」
真白はそう応えながら、スラックスの裾を見た。スラックスの裾が急に長くなったことに違和感を覚えつつ、また転ばないようにと、真白はとりあえず裾をまくることにした。少しみっともないが仕方がない。心なしか履いていたパンプスもサイズが合わず脱げてしまいそうだった。
真白のそんな様子を見ていた男性は、ひとつ息をついた。
「かわいそうに……。ここはね、ノトスの南東にある祈りの森だよ」
「はい?」
まったく聞いたことのない地名に、真白は面食らった。
「この森はとても危険な場所なんだぞ。恐ろしい魔物がウヨウヨしている。最近までは禁忌の森として立ち入りを制限していたんだが、この森から危険な魔物が出てくるのを見たとうわさが立ち始めてね。さすがにまずいと思って村の有志で討伐隊を組んでやってきたのさ」
男性は真剣な表情でそう語った。とても嘘を言っている声色ではない。
「ま、魔物……?」
どこかのファンタジー小説かゲームに出てきそうな単語を真白はオウム返しに聞き返すことしかできない。
「たまにこの森に迷い込んでしまう人間がいるとは聞いていたが、本当に出会うとは。とりあえず無事でなによりだ」
男性がにこっと微笑む。真白は少しだけ自身の頬が熱くなるのを感じた。
「あ、あの、ありがとうございます」
急いで頭を下げると男性は少しだけ眉を寄せた。
「それにしても、君はこんなところで何を? 家出でもしてきたのかい? こどもがこんな夜更けにひとりで外をウロウロするのは危ないぞ。親御さんのところに帰ったらきちんと謝るんだぞ」
男性が真白の頭をポンポンとする。まるでこども扱いしているかのように。
「し、失礼な! 私もう大人ですよ!?」
真白はカッとなってつい声を荒げてしまった。外国人からしたら日本人はこどもに見えると聞いたことはあるが、あまりにも心外な言葉だった。男性は少し不思議そうな顔を見せてから、なおもこども扱いするかのように顔を覗き込んでくる。
「背伸びしたい年頃なのはわかるが、ちゃんと自分の置かれている状況を考えような。お嬢ちゃん」
こどもに笑いかけるように屈託なく笑う男性に真白の頬は引きつった。
「……あの、さすがにお世辞、ですよね……? 私、もう二四歳ですけど……?」
真白がそういうと男性は一瞬目を真ん丸にした。
「二四歳? ……あのね、君。嘘をつくと君のためにならないぞ。噓つきは泥棒の始まりだぞ」
男性は首を横に振ると腕を組んでそう言った。
「いや、あの……」
何とも言えない空気を打開しようと真白は口を開いた。
「アスケラさん! 大変だ!!」
いきなり刃物を持った男が松明を片手にこちらに走りこんできた。
男はかなり取り乱した様子だった。額からは大量の汗が噴き出している。刃物を持った男の存在に真白は驚いて体が硬直した。
「どうした!?」
アスケラと呼ばれた目の前の男が弾かれたように顔を上げた。
「血だらけの鎧を着た人間のようなやつが、……メ、メンカルを食ってる!!」
「はぁ!?」
アスケラが訝しがるようにして声を上げた。意味の分からない言葉の羅列に真白は声を上げることもできない。
「アスケラさん、どうす――――」
走りこんできた男がそう言いかけたとき、突然、彼の後ろに現れた真っ黒な何かが彼を後ろからがっちりと取り押さえた。走りこんできた男が絶叫する。
急にきつい腐敗臭がして真白はとっさに鼻をおさえた。
「ポラリス!! この野郎!!」
アスケラが急いで自身の腰に差した鞘から剣を引き抜く。松明の火に照らされてその真っ黒な何かの顔が見えた。その顔を見て真白の体から血の気が引いた。
「……ひっ!!」
真白の喉の奥から変な声が出た。真白は心臓が早鐘を打って呼吸が早くなるのを感じた。
真っ黒な何かは、全身をスチール製の防具で固めている。その防具は血で汚れていて、さび付いていた。光の宿っていない目。腐敗した顔。まるでホラー映画に出てくるゾンビそのものだった。
「痛い痛い痛い!! やめて、やめてください!」
ポラリスと呼ばれた男が痛みに絶叫する。ポラリスはゾンビから逃れようと体をよじるが、ゾンビはものともしない。ゾンビはその口をあんぐりと開けた。あごの関節が壊れているのか異常に大きく開かれた口に真白は言葉も出なかった。
「離せ、この野郎!!!」
アスケラが弾かれたようにゾンビに向かって斬りかかる。
「いやだあああああ!!」
ポラリスの絶叫とともに、ゴキリという骨が折れる音とつぶれた蛙のような言葉にならない断末魔が響いた。
ゾンビはポラリスの首をかみちぎった。血の匂いがした。
ポラリスの首から噴き出した血が飛沫をあげてボタボタと地面に滴り落ちる。その光景を目の当たりにして真白は全身から冷や汗が噴出すのを感じた。急に全身が寒くなった。体がガタガタと震えだして、気が付けば真白はへたり込んでいた。
――――その時、真白は見た。ポラリスの体から白い炎が立ち上り、ゾンビの口に吸い込まれていくのを。
アスケラの攻撃はゾンビの右腕に直撃していた。だがゾンビは痛覚が壊れているのか、どこ吹く風だ。
アスケラはそれに気づいて態勢を立て直しつつ後退りした。
「おい! お嬢ちゃん!! ここから離れろ!! 立て!! 立って走れ!!」
アスケラが背中越しに真白に向かって絶叫した。真白も立って逃げようともがくが、体が言うことを聞かない。立ちあがりたいのに、体にまったく力が入らなかった。口から変な声が漏れるだけ。
――――あぁ、私はなんて情けない人間なんだろう。
真白の瞳から涙がこぼれた。
「ぐぁああ!!」
ゾンビがアスケラの左腕に噛みついた。アスケラは右手に持った剣を逆手に持ちなおすとゾンビの頭を何度も何度も切りつけた。
「はなせええええ!!!」
ものすごい怒号とともに骨が砕ける音が聞こえた。同時に、アスケラが持っていた武器が大きく弾き飛んで真白の足元まで転がってきた。
「逃げろ、早く……!!」
アスケラが強い瞳で真白に訴えかけた。次の瞬間、彼の首にゾンビが噛みついてアスケラの体は壊れた人形のように力なく地面に落ちた。
――――誰かが叫んでいる。
それが自分の口から発せられていることに、真白はしばらく気が付かなかった。ゾンビがポラリスとアスケラの屍をむさぼる。その様子を真白は見ていることしかできなかった。ふと真白はゾンビの首の後ろに血のように光る石を見つけた。それは首輪のような装置にはめ込まれていて、星の明かりを反射して禍々しく鈍く輝いて見えた。
アスケラの体から白い炎が立ち上り、それをゾンビが飲み込む。その光景を目の当たりにしながらも、真白の体は動かなかった。
――――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ! ここにいちゃダメ! 早くこの場から離れないと!
そう思ったとき、真白はふと気が付いてしまった。
橋の欄干から飛び降りようと思った自分は、今、生にしがみついている。
――――あぁ、私は、本当は死にたくないんだ。私は、本当は怖くて仕方がなかったんだ。私は私を否定しない誰かに、ただ寄り添っていてほしかっただけなんだ……。
ゾンビがようやく真白の存在に気が付いたのか、ゆっくりと頭をもたげた。光の宿っていない空虚な目が、ゆっくりと真白に向けられた。