3.異世界へ
真白はネイサンの歪んだ笑顔を思い出して鳥肌が立った。
「悪魔?」
おじいさんの表情が険しくなる。
「父が亡くなってからというもの、私はがむしゃらに働きました。仕事に没頭することで家族が亡くなった悲しみを忘れたかったんです」
ネイサンと交流した四年間は、平穏そのものだった。
「ネイサンは四年もの間、ずっと私の様子を気にかけてくれていました。男女の関係にはならなかったけれど、私にはもう家族なんていなかったから、寄り添って話を聞いてくれるだけで嬉しかった。昨日も父の命日だからと家に線香をあげにきてくれたんです。そのあとお酒を飲みながら色々と話をしていました。でも途中から記憶があいまいになって、今日、昼頃に目が覚めたら、……部屋が荒らされていたんです。ネイサンはいませんでした」
記憶がなくなる直前に見た、ネイサンの歪んだ笑顔。今思い出しても真白の体の震えは止まらなかった。
「……なぜ」
「すぐに警察に電話をして、なくなったものを一緒に見て回っていたら、わ、私の大切にしていたものがすべて壊されていました」
声の震えが止まらなかった。祖父母の形見の品や家族の思い出の写真や位牌。それらが踏み荒らされていた。今思い出しても怒りで体が震えてくると同時に言いしれない悔しさが心の底から沸きあがってくる。
「……ひどいことをするものだ」
「空き巣かもしれないと思って、ネイサンに連絡をしようとしました。は、犯人を見たかもしれないって思って……。それで、携帯を見たら、ネイサンからこんな画像が送りつけられていました……」
真白はおじいさんに自分のスマートフォン画面を見せた。
真白のスマートフォンの画面にはネイサンから送られてきた、真白以外の会社の人間が入っているグループチャットのスクリーンショットが表示されている。
――――総務の光兎さんの話聞いた!? 今朝、受付のこのところに光兎さんの婚約者さんが来たんだって! 光兎さんが会社の誰かと不倫してるのを問い詰めたら喧嘩になって光兎さんが部屋で暴れたって! DVで訴えるぞ、会社の教育はどうなっているんだって怒鳴り込んできたらしいよ!
――――知ってる~。暴れた後の部屋の写真見た? やばくない!?
――――光兎さんって真面目そうに見えたけどDVとか、こわ~って感じ。しかも不倫とか、ドン引き。
――――あの子、人より顔がきれいだから近寄りがたかったけど、やっぱり女の武器使って相当遊んでたんだね。
――――お高く留まりやがって、尻軽女。犯罪者になる前に黙って会社辞めてくれねぇかな。
おじいさんは険しい顔でそのスクリーンショットを見つめていた。
「なぜこんなことを……」
おじいさんが困惑した声を出した。真白はスマートフォンの画面を見て唇をかみしめた。
「ネイサンが何を考えているのかわからない……! 全部嘘! 全部嘘なのになんでこんなこと……!! ……こんなことをして何が楽しいの? 信じていたのに、まさか、こ、こんなことをする人だったなんて……!」
急に体の力が抜けて、真白の手からスマートフォンが滑り落ちた。
信頼していた人に裏切られ、居場所を奪われ、それに抗う気力さえも奪われた。
「もう誰も信用できない……! ネイサンも、ネイサンの話を鵜吞みにして私のことを悪く言う会社の人も、大嫌い! 今すぐ消えてしまいたい……! ……家族も信頼できる人もいない。大切なものも壊されて、会社にも居場所がない! 私一人がいなくなったところで、悲しんでくれる人なんてひとりもいない! この世界はひとつも困らない! 私が生きてる意味なんてひとつもない……!」
おじいさんの顔を見ていられなくて、真白は橋の欄干の向こうに広がる星空に目を向けた。
涙でぼやける視界から見る星空は、いやになるくらいきれいだった。
――――ふと祖父母と一緒に見た星空が脳裏をよぎった。
「戻りたいなぁ、あの頃に……」
「あの頃?」
真白の呟きにおじいさんがすぐに反応する。
「祖父母と一緒に暮らしていた、十年前。私が十四歳だった頃に……。あの頃が私は一番幸せでしたから……」
祖父母との幸せだった日を思い出して真白の目から大粒の涙がこぼれた。
――――やり直したい! やり直したい! やり直したい! 今すぐに今の自分の境遇をかなぐり捨てて、もう一度新しい人生を生きなおしたい! でもそんなことはできない。ならばいっそ、この欄干から飛び降りてしまえば……。
そんなやり場のない思いがこみ上げて、真白は息ができなかった。
「……あいわかった」
おじいさんの力強い声が聞こえて真白は我に返った。
「……お嬢さん。君の話を聞かせてくれて、どうもありがとう」
おじいさんの優しい言葉に、真白は急いで頬に伝った涙を袖で拭った。
「ごめんなさい、取り乱しちゃって……! 恥ずかしいので、忘れてください」
ひとしきりしゃべってしまうと、なんだか急に気恥ずかしくなって真白は感情を悟られないように早口でそう言った。
「そんなことはない。お嬢さんはよく耐えて頑張ってきたんだね。お嬢さんの消えたいくらいつらい気持ちは、わしに痛いほど伝わったよ。人を疑うことを知らない君の純粋な心は、他の何よりも美しい」
おじいさんは優しい声でそう言った。
そしておじいさんは真白を強い瞳で見つめた。美しいと言われて真白の顔が熱くなる。誰かに面と向かってそんな風に言われたのは初めてだったからだ。
「今ここで君を失うのは惜しい」
「え?」
おじいさんの唐突な言葉に、真白は呆気にとられてしまった。おじいさんは、にっと口元を緩める。
「お嬢さん、わしは決意したよ。君にわしの夢 を託すことを」
「な、なんですか? 夢?」
思わぬ展開に、真白は思わず聞き返していた。
「――――どうせ死ぬのなら、誰かの役に立ってから死ね。わしの持論じゃよ」
おじいさんの鋭い眼光に、真白は蛇ににらまれたように動けなくなった。
「わしには時間がない。わしには、いや、あの世界には、君という存在が必要だ」
「一体、なにを――――」
真白は言いかけてもう声を出せなかった。おじいさんの体の周りが明るく光りだした。何か強い空気の振動を感じて真白は目を見開いた。
おじいさんは腰の後ろから杖を取り出すと体の前に構えた。暗がりで良く見えなかったが、グリップの先端に宝石があしらわれている随分と年季の入った杖だった。
「お嬢さん、君に今わしが持ちうるすべての力を与える。これから先、どんな困難が立ちふさがろうとも君は歩みを止めてはならない。心配は要らない。わしがこれから与える力で君はどんな辛い試練にも立ち向かえるだろう。君にはその素質がある。どんなに苦しく辛い境遇からも逃げずに立ち向かってきた君なら、――――きっと大丈夫だ」
おじいさんは何かの言葉を唱えた。真白には理解することができない言語。
次の瞬間、まるでシャボン玉がはじけるように、あたりの景色が解けて消えた。同時に真白の体が光に包まれ、急に体が熱くなって苦しくなってきた。
「な、なに……!?」
そんな呟きが真白の口から漏れ出た。何もない真っ白な空間が三六〇度広がって天も地もわからない。体の痛みはどんどん強くなっていく。
不意に真白の左目に激痛が走った。焼けるような痛み!
――――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!!
「君に力を与えたらわしは消える。だからどうか頼んだよ。彼 を、我々の世界を、……救ってくれ」
かすかにおじいさんの声がした。
――――息が、できない……!
急に真白の目の前が真っ暗になって何も聞こえなくなった。