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Dr.メフィストフェレス  作者: 霞
序章
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第5話


 オリヴァーはホテルに戻ってから、チャーチから聞いたDr.メフィストフェレスなる人物について調べてみた。

 ……が、その人物に関連する戦中の記録は、ネット上には転がっていなかった。(もしかしたら日本語の記述はあるのかもしれないが、そうだとしてもオリヴァーには読めないだろう。)

 そこで、ドイツにいる医師仲間数人に、Dr.メフィストフェレスのことを知っているかメールを送ってみた。すると驚いたことに、数十年前にドイツに実在した日本人医師だったということが判明した。


 名前をトウノヨウイチといった。


 トウノヨウイチは第二次世界大戦後、日本からドイツに渡り、天才的な腕で数々の難手術を成功させた経歴を持つ、世界的名医だったという。その技術を学ぼうと彼のもとにやってくる医師が、ドイツ国内外から絶えなかったらしい。晩年まで医師を続けていたようだが、ある年を境にぴたりとメスを握らなくなったそうだ。



 ……Dr.ヨーコがトウノヨウイチの孫?



 人間とは、深淵の一端を知ってしまうと、さらにその先を覗いてみたくなる生き物だ。未知の深海や宇宙に惹かれるように。

 だが、チャーチの言葉を思い出しては、「……いや、これ以上は、やめよう」と、何度もノートパソコンを閉じるのだった。

 



  第5話「メフィストフェレスの十字架」




 1週間後、ヨーコの屋敷に戻って来たオリヴァーは、2階の病室に案内された。やや華美だったエントランスやリビングとは一転して、床や家具が木目調で統一されていて落ち着いた雰囲気だった。


「おはよう、クラウディア。日本はもうお昼だよ。ドイツはまだ朝だね?」


 パソコンの画面を通して見る娘の姿に、思わず表情が綻ぶ。

 一方、娘のクラウディアは、うさぎのぬいぐるみを抱き、大きな青い瞳からは今にも涙が溢れてきそうだった。


「パパ、お仕事いつ終わるの?パパに会いたいよう……」


「パパもクラウディアに会いたいよ。もうすぐ帰れるからね。おばあちゃんのお家で、いい子にしてるんだよ。」


 ガチャリと扉が開き、ヨーコがノックもなしに入室してきた。娘と話をしていることに気づいたようだが、相変わらず不機嫌そうな顔で、腕を組んで壁にもたれた。


「……じゃあね、クラウディア。パパはそろそろお仕事に行かなきゃいけないから……。」


「うん……。パパ、愛してるよ。」


「あぁ、パパもだよ。」


 少し言葉に詰まりそうになりながら、ノートパソコンをパタリと閉じた。


「……妻は、この子の出産時の事故で死亡してしまってね。私が死んだらこの子は1人になってしまう。私が死ねない理由がわかっただろう……。」


「ふーん……。」


 あまり興味なさげな返事だった。無理もない。ヨーコはまだ若い。子供もいないだろうし、むしろ子供に対し嫌悪感すら持っていそうな雰囲気を、オリヴァーはうっすら感じ取っていた。

 ヨーコはオーバーテーブルに置かれたクラウディアの写真を一瞥すると、


「ねぇ、Dr.オリヴァー。もし、アンタの娘が同じ病気で、あたしのところにやってきたとして……、治るためにはアンタの心臓が必要とあたしが言ったら、どうしてた?」


 と、細い人差し指でオリヴァーの左胸を指した。悪魔のような質問だ。だがオリヴァーに、迷いはなかった。


「もちろん、喜んでそうしていただろう。」


 ヨーコが少し、怪訝そうな顔で首を傾げた。


「そうしたら、アンタは娘の成長を見れないのよ?それに、1人残された娘は悲しむかもしれない。……それでも?」


「あぁ。娘のためなら、私は自分の命なんて惜しくない。たとえ悪魔にだって、喜んで魂を差し出すだろう。父親とは、そういう生き物だ。」


「……。」


「だが、私は究極のエゴイストだ。自分が助かるために、君のところにやってきた。」


「……ふふふ。いいね。よく分かってるじゃない。」


 ヨーコが唇の片端を持ち上げて、怪しく微笑んだ。

 目の前を横切った陽子が病室の窓を開けると、心地いい春の風が部屋に流れてきた。屋敷を取り囲む桜の木々。この森は、四季が移ろうたびにその顔を変えて行くだろう。


「ここはサクラが綺麗だな……。ベルリンで見るものとは、また違う。」


「あぁ……、あのベルリンの壁跡にある桜ですか?懐かしいな……。祖父とよく見に行きましたよ。」


「え?」


 風に紛れて、一瞬、ヨーコのものではない声が聞こえた気がした。柔らかい、男の声が。



「君は……?」



 さらりとした長い黒髪の後ろ姿は、確かにヨーコのものなのに、そこにはまったくの別人がいるような気がした。

 だが、振り返ったその顔はやはりヨーコのもので、彼女は自信満々に唇の端を持ち上げて笑っていた。


「さ、行くわよ。手術時間は10時間を予定してる。そもそもアンタが手術に耐えられなかったら、娘に会えないんだから。頑張ることね。」


「……あぁ……。」


 一瞬頭をよぎった考えに、オリヴァーは自嘲して頭を振った。そして今は遠く離れた場所にいる愛しい存在の代わりに、写真に指先で触れると、ゆっくりと立ち上がった。






 、、、





 手術室に響く、心電図の規則的な電子音と、人工呼吸器を介して酸素が送られる音。

 2台並んだ手術台に横たわる男女の身体。身体中から夥しいほどのチューブに繋がれていて、意識のない彼等にとって、今はそれが文字通りの生命線となっていた。

 青い手術着を着たヨーコが入室してくると、オリヴァーの頭側に待機していた高橋が、すっと立ち上がった。


「バイタル、全て安定しております。陽子お嬢様。」


 陽子は鷹揚に頷く。 

 

「はじめに提供者からの心臓摘出から行うわ。それから患者本人の開胸を行い、人工心肺に接続後、患者心臓の摘出および移植を行う。長時間の手術と、かなりの出血が予想されるけど……」


「輸血用の血液も確保できております。」


「OK、準備万端ね。」


 2人の患者の間に立った陽子は、目を瞑って天を仰いだ。


「……主よ、救いたまえ。主よ、私を平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを……。」


 手術室に、陽子の静かな声が響く。


「主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分の体を捧げて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです。」


 陽子の胸元の小さな十字架が、光に反射してきらりと輝いた。



「……はじめます。」


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