期待してしまった男
河内はすぐ横の地下鉄の入り口に向かおうとしてやっぱりやめた。ものずき堂に寄ろう。
ものずき堂に行くと店主はもう店の奥に引っ込んでいた。入り口はいつも解放されており本が傷まないか心配になる。
店主はレジ台の向こうで読書中のようだ。河内に気付いて顔を少し上げたが、すぐにまた本に目を落とす。レジに背を向けてから思いきり鼻から息を吸い込んだ。
久々の本の香りにしばし酔いしれる。香ばしいような懐かしい香り。祖父の家を思い出す。河内の祖父も物書きであった。家には本がたくさんあり、祖父も何だか本の香りがする気がした。時代遅れだと父はいつも言っていたが河内少年は祖父の家も祖父も大好きだった。
「さっきとは大分顔色が違うな。」
店主は目を合わせずにそう言った。
「少し休みがもらえたんだよ。」
「ふん。なるほどな。たまの休みに家に引きこもって本でも読もうってのかい。いい若い者が不健全なこった。」
「おいおい。本を売るのが仕事だろ。」
「本なんて足腰弱っても読めるんだ。若いうちは女とデートでもするほうが健全だろ。」
「なるほど一理あるな。じゃあこれ一冊だけにしておこう。」
星新一のショートショートの文庫本を手に取った。
「いい選択だ。これならお前さんが家に着く前に半分は読み終わるだろうよ。」
店主は職人的な手付きで本にカバーをかけた。気持ちのいい仕上がりだ。
ものずき堂を出て携帯電話のスイッチを押し画面をスクロールする。Kの項の一番最初。通信ボタンを押した。しばらくすると画面に不機嫌そうな顔が写った。
「今、仕事中なんだけど。」
声も不機嫌そうだ。
「暫く休みが取れたんだ。今夜空いてない?」
「…空いてるけど。」
「一緒に飲みに行かない?」
「急に連絡してきて何言ってんの!いつも自分のいいようにばっかりして!」
河内は思わず声をひそめた。
「今仕事中だろ。」
「…嘘」
「え?」
「仕事辞めた…。」
河内は驚いたが表情に出さないように努めた。そして何かを飲み込むかのようにうなずいた。
「うん。そっか。じゃあ今から会える?」
* * *
一か月ぶりに会った香は少し痩せたようだった。近づいて声を掛けるとそっぽを向いた。
「あたしから電話しても全然出てくれなかった。」
「ごめん。」
隣にいたカップルの女がちらりとこちらを見た。人の不幸は蜜の味。
「場所変えない?」
「何で?」
「ここあんまり静かじゃないじゃん。」
「別に私は気にならないけど。」
香はヘソを曲げると取り付く島もない。(早く注文取りにきてくれよ)と心の中で店員に八つ当たりをした。
「久々だしゆっくり話そうぜ。ほら…香が行ってみたいって言ってたちょっと高そうなあのお店行ってみない?今日は奮発するぞ。」
香は口を尖らせたまま俺と自分の手を交互に見た。何回か視線を往復させてから俺の顔で視線を止めた。
「…じゃあ…家で飲む?」
「あたしね、仕事辞める前までは早く自由になりたかった。」
香はベッドから少し出て煙草に火をつけた。それに習って河内も投げ出された服のポケットから煙草を出して火をつける。
「でもね自由ってことは何の保証もないってことと同じだった。」
香の髪に触れた。
「後悔してる?」
香は煙草を灰皿に押し当て丁寧に火を消すと鼻まで布団をかぶった。
「まだわかんない。」
その様子がかわいかったのでおでこにキスをした。香はくすぐったそうに笑った。
目が覚めると朝食の用意がされていた。コーヒーをすすりながらテレビ画面に向かっていた香りが目を覚ました俺に気付いた。
「おはよ。昨日のニュース見てた。誰かさんが政治家の大先生に怒鳴られてるとこ。」
ベッドから這い出した俺の前にコーヒーが置かれた。テレビの画面に永田町の色ボケ政治家が記者に向かって吠えている姿がアップになった。幸い俺は後頭部しか映っていない。
ニュース映像をぼんやり眺めながら頭の中でこれからやるべき事を必死に組み立て始めた。
香と別れ一旦家に戻る。
仕事用の電子端末には編集長から原稿を受け取った件の短いメッセージがあるのみだった。
この端末にはすごく助けられている。俺の暗号のような手書きの文字を瞬時に変換し、誤字・脱字も修正。音声認識もほぼ間違うことなく会話を丸々文字変換してくれる。端末の内容はすべて一度自宅のコンピュータに落として保存。更に超軽量ハードディスクにも保存。更にハードディスクは信頼のおける貸金庫に保管する。
このデスクとコンピュータと冷蔵庫しかない部屋には今まで3回空き巣に入られているので家に大事な物は置いておけないのだ。
河内には編集長の指摘通りずっと追っている人物がいた。現少年保護育成庁大臣の速水誠一郎だ。彼は地方の市議会議員などを経て28歳という若さで国会議員に初当選。その若さと容姿ですぐに注目された。
外見で取り上げられることの多かった彼だが、大変な切れ者で人心掌握に長けた人物であった。目立つ彼を利用しようとする者も多かったがミイラ取りがミイラに…大体の人間が彼の魅力に取り憑かれてしまうのだ。
俺も完全に取り憑かれた一人だ。彼はまだ駆け出しの新聞記者だった俺の話も真摯に受け止めてくれるような人物であった。若くて未熟な俺は彼に他の政治家達とは違う何かを勝手に感じてどんどん彼に興味を持った。公平公正な立場とは言い難い程に俺は速水誠一郎という男に期待していた。
そんな彼が突然とてつもない不幸な事件に見舞われた。
妻と生まれて間もない我が子が殺されたのだ。犯人は当時21歳。少年法が適用され少年刑務所という20歳から25歳の少年法が適用された犯罪者の入る施設に入所した。
成人と見なされれば無期懲役か死刑でもおかしくない程身勝手で残忍な犯罪であったが、最長でも10年程だという。少年法が適用された犯罪者の判決は報道しないのが慣例なので多くの人はそれを知らない。
表向きは刑期が短いのはより多くの若者に社会復帰をするチャンスを与えるためだと言われているが、長く入れておくと施設がパンパンになってしまうからという噂だ。短期間で出所した者の再犯率が高いという研究結果を発表している研究所もあるが政府は見てみぬふりらしい。
何にせよ遺族からしたらたまったもんじゃない。速水は元々現行の少年法に対して懐疑的であったように思う。軽率に自分の考えを公にすることはなかったが、少なくとも俺はそう感じていた。
だが事件以来少年法に関して全く考えを述べることもなく、むしろ触れないようにしているようだ。事件の事も一切語らない。相変わらず政治家としてはそつなく粗を見せる事もないが、以前とは人が変わってしまったかのように雰囲気が変わって人を寄せ付けなくなってしまった。
俺は彼の”言葉“が聞きたい。その一心で彼を追っていた。速水誠一郎は権力にしがみつくような男ではないと今でも思っている。だから彼が何も語らない事にも何か意味があるはずだと。しかしそんな勝手な期待とは裏腹に悪い噂を耳にすることもあった。
部屋が空き巣に入られてデータを破壊されるということがあったりする中迷いが生じたり、疑心暗鬼に陥ったりする事もある。ただ気になっていることがいくつかあった。一つは第一秘書を務めていた川村琢磨を側に置かなくなったことだ。
川村は速水の高校時代からの友人でもあり、妻の光とも家族ぐるみで付き合いがあったはずなのに事件後しばらく後から姿をほとんど見ていない。
しかし、解任されたという話も聞こえてこない。絶対に何かあるはずだと河内は確信していた。




