閑話 : はじめての授業
エマとセルジュはたいへん緊張していた。
何故なら、今日は彼らにとって初めての授業だからだ。教師側として。
目の前には堂々と主人たる旦那さまと奥さまが座っていて、プレッシャーが半端ではない。
ノエルは
「僕や姉さんのような子どもにできることですから、大人ができないはずありませんよ。」
とプレッシャーを掛けていたし、セシルは、
「何事も経験ですって、私が言えたことじゃないですが。私も最初から完璧ではなかったし、ノエルには最初台本すら存在しなかった。新しくなってから急にやるよりも、ちょっと慣らしておいた方がいいと思うんですけど......でも、仕事投げちゃってごめんなさい...。」
と、天然ながら罪悪感を煽るようなグサグサ刺さってくるようなセリフを口にしていた。
当然、セシルからしたら、いくら授業は受けたことあっても、友達に勉強を教えたことがあっても、教壇に立ち教鞭をふるったことはなかったし、何より、普段教えたことがあるのは中学以上の内容、それもほぼ数学だ。まさかペンの扱いも知らぬ人たちにこんな映像で授業をする日など来ると思ってもみなかったのだ。授業を受けている人からしたら完璧だったかもしれないが、本人からしたら試行錯誤の連続、何度も失敗を繰り返していた。授業を受けていた彼らは知らぬ話であったが。
「セルジュさん、できますかね?授業はこれまで受けてきましたけど、教えるのは初めて。それも領内全土に。」
「私も不安です。いくら何でも、初めてなので。今日はお嬢さまからのテスト問題がありますから、何とかそれで持たせましょう。」
彼らはブルブルと震えながら何度もノートを読み直していた。
一つ一つ互いに何をいうのか、何をするのかを記した、言わば、台本のような何かである。セシルなら名前の列とセリフ(行動)の列、その他備考の列で分けたりしただろうが、彼らのノートには文章で綴られていた。セシルなら読みにくいと一刀両断するようなものだ。
実は、彼らは密かにセシルに相談していた。
ノエルにバレると休暇の邪魔をするなと睨まれるからである。
セシルにはそのノートも勿論見せていた。
でも、セシルは何も言わなかった。
セシルはノートの取り方を教えたことがなかった。だから、自分にとって分かりやすい書き方もわからないのだと察していし、当然、台本のような書き方に訂正することはできた。でも敢えて助言はしなかった。
「大丈夫。ただ、教える側が不安になっていたり、怖い顔をしていたら聞いている方もビクビクしちゃうからね、笑顔笑顔。あとは、そうだね、声のトーンちょっとあげた方がいいよ。まぁ、あとは何とかなるって。」
セシルが言ったのは当たり障りのないことだけ。
セシルは彼らに自ら気づいてほしかった。
緊張している生放送の中、素人が台本を読むことの難しさ、台本しか見ないとカメラの方を向けず伝わりにくいこと。読んでいる最中にどこまで読んだのか分からなくなってしまうこと、授業の構成をびっちりとしすぎると何もできないこと。
セシルは知っていた。
ノエルが無理矢理に彼らに授業を投げ飛ばしたのが直前だったこと、授業のために何度も黒板の前で練習していたこと、ノートにびっしりと試行錯誤の結果が残っていること。
何も言わないこと、それがセシルの選んだ優しさだった。
セシルは彼らの姿を見て、何度も助言をしたかった。彼らの努力が報われてほしかった。
でも、それじゃ駄目だった。
確かに、彼らはそうしても、何らかを学び取るだろう。
でも、失敗から本当に学んだものには届かない。
彼らのゴールはここじゃない、ここはただの初めての授業、この授業が成功する必要はない。
その成長過程を自分が邪魔してはいけない。
セシルは七瀬としてたくさんの経験をしていた。
台本をびっしり書くよりも、要点だけを抜き出して書いたものから自分の言葉で喋る方が前を向いていられると。
どんなに試行錯誤をしても、本番で見るメモは綺麗で簡潔であった方がいいと。
プレゼンとして見せる資料の文字は少ない方がいい、文字は大きい方が見やすく、印象に残りやすいと。
試行錯誤した際のノートは隙間を大量に開けて見やすく、ノートは分割して使用するれば内容を分けられると。
そして、自分が仕事をしてしまったら後輩は育たないと。
道に転がっている石を一つ一つ拾っていたら、彼らは何もできない無能になってしまうと。
セシルは分かっている。
恐らくは、満足がいかない結果に終わるだろう。
その失敗の程度はわからないが、満足できるはずがない。
そして、セシルは彼らに失敗を経験してほしい。
失敗から学ぶということを知ってほしい。
セシルは彼らの授業を見ていなかった。
ノエルと一緒に図書室で本を読んでいた。
ノエルもそのことについて何も言わなかった。
やがて、授業が終わった。
エマとセルジュはセシルとノエルの居る図書室にやってきた。
彼らは悲壮な顔をしていた。
わかりきっていたことだから、セシルは動揺せずいつも通りだった。
「授業、おつかれさま。まぁ、座ってよ。」
セシルは淡々と何の感情も込めずに二人を目の前の席に座らせた。
「で?どうだったの今日の授業は?」
二人はすぐには答えず、黙っていた。
俯いて、下唇をかんで、感情を堰き止めているようだった。
「......すみません、お嬢さま、坊っちゃま、......全然、駄目でした。」
俯きながらも、セルジュが何とか応答した。
「うん、それで?」
敢えて、同情も込めずに淡々と、突き放すように言った。
「それで...とは...?」
その返しに驚いたのか二人とも目を見開いてセシルを見ている。
「いや、それで?失敗したんでしょ?それだけ?」
セシルは自分でもキツいと思いながらも、そう投げかけた。
(二人にはもっと頑張ってほしい。きっと、彼らならできるから。)
「いや、それだけ、といいますか、お二人がここまで築いてきたものを、その......。」
彼らは辿々しく、謝罪を口にしていた。
「はぁ。失敗することくらい承知の上です。というか、相談にのった時点で失敗することは分かっていた。それでも、私は授業をさせた、失敗したこと自体に何も思っていないよ。」
エマもセルジュも驚いていた。まさか、失敗するのにやらされていたとは思ってもいなかったからだ。
対して、ノエルはじっとセシルを見てその言葉に耳を傾けていた。
「大体ね、1度で満足のいく授業ができると思っていること自体驚きよ。この伯爵家で何を見てきたの?誰が一度で研究成果を出したの?彼らは、何度だって積み重ねて、失敗をたくさんして成果を出してきたはず。」
「いえ、でも......。お嬢さまは、私たちと違って、最初から完璧だったではありませんか。セルジュと何度も練習したけど、駄目だった。練習が足りなかったのかもしれないけど、お嬢さまは最初から成功していた。」
エマは、目を潤ませながら言った。
「違う。あなたたちには、成功しているように見えていたのかもしれないけれど、私だって不満だらけだったわよ。意地でも笑顔で立っていただけ。失敗しても誰も台本は知らないのだから、知らん顔しただけ。誰が失敗しないって?あなたたちが気づいていないだけで、私も完璧じゃない。今だって、満足する授業ができているわけじゃない。できるわけないじゃない。」
セシルは額に皺を寄せながら口角を上げて言った。自嘲するようにも見えた。
「失敗を失敗のままにしていたら何も変わらない。あなたたちは次の休息日にも授業がある。それまでに、どれだけ変われるかな。今日は此処で反省会をしましょう。1度だけ付き合います。」
1度だけを強調してセシルは言った。
「まずは、ノートでも用意したらどう?言ったことは書いてしまわないと忘れてしまうわよ。」
セシルの言葉で急いでエマとセルジュはノートを用意し、書く体勢をつくった。
セシルは、ひとつ溜息を吐くと二人に問いかけた。
「エマ、セルジュ、二人は今回の失敗の原因を何だと考えているの?というか、どんな失敗をしたの?」
「私は......練習不足だと思います。急にやることを決めるのではなく、もっと前から決めて練習しておくべきでした。そうでなかったから、今回も言うことを間違えてしまって、何回も戻ってしまいました。」
まずは、エマが答えると、セシルは目でセルジュに促した。
「私も、エマと同じだと思います。それに、授業中ふと顔をあげたときに、皆の顔が困惑していました。後で聞けば、全く自分たちの方を見ないと旦那さまやイーヴが言っていました。」
セルジュが思い出しながら言った。
「そうね、その答えは及第点に届かないわ。まずは練習量だけど、貴方たちは明らかに私やノエルより練習していた。私は授業こそ見なかったけれど、貴方たちがどんな練習をしているのか、何を対策しているのかは見ていたからね。その量は私たちを凌駕している。私たちは他に教科書の制作やテストの作成などを行なっていたからね。次にセルジュの件、私はカメラ、分かりにくいから目の前で授業を受けている人たちをずっと見ている。授業を受けていれば分かると思うけど、人の目を見て話しているかどうかっていうのは意外と大事だ。少なくとも相手の反応を見ることができるし、相手もちゃんと教えてもらえてると思えるものよ。最後に、二人とも考察が甘い。エマの案である、もっと前に計画をたてておけばだけれど、それは単発の授業なら可能かもしれない。でも、これからは休息日ごとに授業があるんだ。それではダメだ。何より、わからない人が多いと情報が入ってきているのに既定路線で授業を行うの?違うでしょう?少なくとも私とノエルは視察からの領民たち、生徒たちの反応を聞いて、進度を調整している。2度同じ内容を授業で取り扱ったことも1度や2度じゃないはずだ。あと、練習をすれば目線を台本から上げられる?2時間にも及ぶ授業の全てを休息日ごとに覚えられるわけがないだろう。もっと考えなさい。」
セシルはきつい表情を崩さないように、厳しさを心がけて言った。
「ではエマ。なぜ言うところを間違えたんだ?」
「それは......どこまで読んだのか分からなくなってしまって......。」
「なら、それがなくなるようにどうする?」
「それは......。」
「それを考えないと次には進めないよ。セルジュ、どうしたら生徒の方を見ることができると思うんだ?」
「それは...やはり覚えるしかないのでは?」
「いいや、違う。暗記するのは不可能と言ったはずだ。私は既にいくつか思いつくわ。何故、下を向く?」
「台本を見るためで。」
「なら、答えは簡単じゃない。考えなさい。私は、次に失敗しても構わないと思っている。でも、今回と同じ方法で同じ失敗をするならそれは許さない。数日中に解決策を出さなければ、次には間に合わないよ。これから数日は私やノエルも相談にのることはできない。此処にある本は全ていくらでも読んでいいから。頭をつかいなさい。以上。では、また。」
セシルはノートを1冊持って自室に戻った。
その間、表情を動かさず、一言も声を発することはなかった。
残されたエマとセルジュは頭を抱えて泣き出しそうになっていた。
セシルの態度に恐れているのだ。
彼らはセシルがあのような態度をとったことは今までになかったと記憶している。
だからこそ、この失敗が許されざるものなのではないかと怯えているのだ。
対してノエルはセシルの意図が何となく読めていた。
最初はノエルも何故このような態度をとるのかが分からなかった。セシルが相談にのっているのも知っていたし、それに対して、指摘をしないでいたのも知っていた。失敗するに決まっているのに。
しかし、今回のやり取りで何となく分かった。セシルは態度こそ怒っているような雰囲気だったが、言っていることは誘導尋問のようなもの、ある方向へ導こうとしていた。無理矢理にでも答えを自分で出させようとしていた。
セシルは二人を育てようとしているのだと思った。
セシルが助言をしなかったのも意図的だ。
そんな方法があるのかと驚いた。
しかし、一方でノエルは落胆していた。
ノエルは一番近くでセシルを支えている。最近、新しいノートに何やら書き込んでいるのを確認していたし、これまでも授業1回ごとにノートを使い切る勢いで試行錯誤をしているのを知っている。セシルは自身の授業に満足などしておらず、いつだって失敗を成功に導く対策を考えている人だとノエルは理解していた。それを、セシルに近しい二人が気づいていなかったとは、ノエルはセシルのそれを天才で片付けていいものではない、むしろセシルは天才でなく秀才の部類に入ると思っている。だからこそ、苛立っていたのだ。セシルがあれだけ努力しても満足のいく授業をしていないのに、たかが数日必死に授業をシミュレーションしたって成功するはずがない、それを成功すると思っていた彼らに納得がいかない。
「エマ、セルジュ。」
ノエルは彼らに声をかけた。
「まず、君たちが成功するわけがないだろう?奢るな。たった1度で成功させる?姉さんだって自身の授業に納得していないんだよ?たかが?数日やったからって?それの何が努力だ。努力というのは、姉さんみたいなことをいうんだ。」
ノエルは感情を込めて言った。
ノエルは浮いて本棚の中で一番目立たない棚から数十冊のノートを取り出して机の上に置いた。
「これは、姉さんが授業のために書いたノートだ。1回の授業で1冊使うときもある。他にも教材をつくったり、研究したりするノートは別でね。毎回、反省して、視察での様子を聞いて、授業の内容を組み直して、テストの成績を確認して、そうやって、授業をしているんだ。それが努力だ。少なくとも僕はそう思う。君たちの授業の音読練習が努力というなら、間違った努力だ。そんなの本当に結果に繋がるのか?確かに、練習は大事だ。でも、1ヶ月も前から練習をして、暗記をして、授業をしました、が君らの目標なはずがない。もっと効率的な努力をしろ。間違った方向への努力は時間の無駄。その前に、やっていることを見直せ。僕からは以上。失敗したことには何も言わないよ。姉さんと同じ。失敗自体を怒る趣味はないからね。だが、いくら何でも、あの反省会はない。次に言ったら、姉さんへの侮辱ととるよ。」
ノエルは重ねたノートをそのままに、興味を失ったような目をして去っていった。
「セルジュさん、この本は読んでもいいのでしょうか?」
「いいと思います。此処にある本はいくらでも読んでいいと。」
彼らはセシルのノートに手を伸ばし、片っ端から読んでいった。
彼らの目は驚きで一杯になり、興味津々で読み進めるうちに、その日が終わった。
コンコン。
「ノエルです。姉さん、入っても?」
「どうぞ。」
セシルは、先程までとは別人のように穏やかな口調で言った。
「やはり、演技でしたか。姉さん、そういうことだったんだね、僕は失敗に突っ走る彼らに助言しない意味がわからなかったけど、今やっと分かったよ。」
ノエルは言った。
「ノエル、私はね。これで正しかったのか分からないのよ。」
そう応じるセシルが開いているノートには"後輩の育て方"と書かれていて、たくさんの思考の形跡が残されていた。
「姉さんは真面目だ。いつだって、そうやって......。」
「これも、時によるんだけどね。こういうのをやりすぎて、頭でっかちになりがちなのよ。だから、人とのコミュニケーションは苦手。」
「いつも僕たちと話せているよね?授業もちゃんとやっているし、恥ずかしがり屋とかは思わないけど。」
(警戒心は解かない猫みたいなタイプではあるけれど、表向きはちゃんと話すよな?)
ノエルは、考えていることを意図的に隠しながら言った。
「あー、そういうことじゃなくてね。目的を持った会話とかだったらいいの。その、雑談?とかが苦手なだけで。」
「ふふっ。そうか、ノートを書いて対策を立てられないもんね?」
「ノエル、揶揄ってる?」
「いいや。」
「ふん、ならいいけど。大丈夫かなぁ、エマにセルジュ。」
先程の図書室での無表情とはうって変わって困ったような心配したような表情をした。
「大丈夫だよ、二人なら。そう思って姉さんも厳しくしたんでしょう?それに、僕がうっかり発破かけちゃったし。」
「えぇ!?」
「問題ないよ。既に意図には気づいていたから、まぁ、ちょっとヒントとして歴代のセシルのノートを机の上に置いていったけれど、それ以外、具体的なことは何も言っていないよ。それじゃ、姉さんが心を鬼にした意味がなくなるからね。」
「ならいいや。うまくいくといいけど......。」
次回の授業でエマとセルジュがどうなるのか、それはまだ誰も知らない話。