襲来
1月4日エナム王国の王都・エナーメルにあるエマール伯爵家の屋敷にて。
「私は分かっていたさ。茶会じゃないから用意などしなくてよいと言えば、水一つ出てこないことくらい。」
お忍びで訪れている国王は言った。
「ふう、あまり大人数になると困るだろうからと子爵家と男爵家の連中が辞退してくれたから、私たちに全てを話せ。さすれば、欠席の彼らへの説明はこちらで請け負うから。」
パルテレミー公爵は言った。
「あぁ。皆が興味津々なのだ。辺境伯家として国の防衛をしている我が家としても民の能力を高めたというのなら私も追随したい。確かに、あまり文字を使う機会などないだろうが、民の基準が高ければ、領としての強さも増す。」
カステン辺境伯は強さを重視して、兎角知りたいようだ。
「詳しく聞かせて欲しいんだ。勿論、何も準備しなくていいといわれて、本当に何も準備しなかったことを咎めるつもりはない。寧ろ、私は美徳だとすら思うよ。私のような人間としては、あんな利益の生むものを垂れ流しするなんてありえないことなのだ。その権利を保護したり、危険から守る方法を考えなくてはならない。だから、全てを話すのですよ。」
黒い笑顔で話すようにと促すのはアズナヴール公爵だ。
今日集まっているのは、4人。
急に大勢で押しかけるのも申し訳ないという理由だが、王都に引き留め、4人で来ている時点でエマール側としての印象は最悪である。エマール伯爵家にとって4人というのは大人数なのだ。
「クリストフ、茶をもってきてるなら、俺にもくれよ。」
「構わぬが、俺とてただでとはいかないな。欲しいのなら、ユーグ、お前が持ってきたケーキをよこせ。」
「あぁ、こうなると思ってたからな。」
完全にプライベートで、一人称も俺になり、名前で呼び始めた。
因みに、クリストフ・フォン・エナメス国王とユーグ・フォン・カステン辺境伯の会話だ。
「私もクッキーを持ってきたんだ。当然交換だよな?クリストフ、ユーグ、そしてアンドレ。お前も持ってきているのだろう?」
「当然だ。俺はマカロンを持ってきた。エリクの言う通り、交換だな。」
こちらはエリク・フォン・アズナヴールとアンドレ・フォン・パルテレミーだ。
高位貴族は好き嫌いはあっても、皆幼馴染のようなものだから、このように気が合うと、当然のようにはっちゃける。表でできないから、裏での爆発はすごいというものだ。
女性同士のお茶会のようなスイーツまみれ。
これはこの仲間内で集まる時ふざけてお菓子を持ち寄る慣例に基づいたもので、それぞれ妻へのプレゼントを物色していると思われる。
彼らに混ざることなく不機嫌でいるのがパトリス・フォン・エマールその人である。
押しかけておきながら、パトリスを放置して雑談を繰り広げる彼らに思うところがあるかというと、すごくある。
だがしかし、彼の頭の中は課題でいっぱいだった。
新しい課題も同様に解こうとしたが、どうにもうまくいかないのだ。1つの林檎と7つの林檎の違いは6だが、林檎が1つ入っている方のが大きいはずなのだ。
「さて、本題に入ろうか、パトリス。なにをどうやって民が文字を扱えるようになったのかな。」
国王、ユーグが話しかけた。
「でも、どうしても林檎がないのだ。入っているリンゴの数は下の方が多い。」
だが、パトリスは旅に出ていた。いや、パトリスの思考は大海原へ漕ぎ出していた。
「もしもし、パトリス君?ねぇパトリス?さすがにそれはないよね?パトリス!!」
「!!はい、なんでしょう?」
「俺、パトリスのこと、何度も呼んだんだよ?」
「そうなんですね。」
「もう、いいよ。本題に入るから。民が文字を扱えるようになるために何をしたのかを聞きたい。」
「文字を扱うように教えたのです。」
「うん、具体的には?」
「そうですね......持ってきた方が早そうなので、私のノートを持ってきてもよろしいでしょうか。」
「ノート?」
「私の記録を貯めたモノです。直ぐに戻るので、では!!」
瞬く間にパトリスは消えた。
戻ってきたパトリスは教科書・問題集一式と交換日記、ノート、インク、ペン、そして、先日もらった計算・百ます計算・数独を持っていた。
「娘と息子が魔道具を用いて領内の教会の講堂に放送し授業をしたのです。で、その内容を私が纏めたノートとその授業の反響、その時に使った本一式です。これを読めば全てがわかります。私はやるべきことに専念するので、質問があったら聞いてください。絶対に汚さないでくださいね。では!!」
パトリスはそう言い放つと離れたテーブルに紙を広げて、一心不乱に計算を始めた。
「ここに答えがあるというのか。いつも思うけどパトリスは大物だよね。」
「国王を無視してやりたいことを始めるとは。まぁ、クリストフを無視するのは賛成だな。」
「同意。」
「私もそれは同意。」
国王であるクリストフを一斉に虐める一同、この光景は意外と見ることができる。当然、公式の場では行わないが。
「それは酷くはないか?」
この言葉も華麗にスルーする。見事なスルースキルだ。
「さて、私も気になるし、分けて読もうか。私は、そうだな、国語と書かれている赤い本を。」
エリク、アズナヴール公爵は国語の教科書を読み始めた。
「なら、俺は青いやつにするか。算数と書いてあるけどなんか分からないもんな。アンドレはどうする?」
「そうだな、水色のにするよ。」
ユーグ、カステン辺境伯は算数の教科書を、アンドレ、パルテレミー公爵は算数の問題集を手に取った。
「なら余ったのはオレンジ色のだな。文字の書き方か。」
最後にクリストフ、エナム国王が文字の本を開いた。
しばらくして、最初に根を上げたのはユーグだった。
「待て、それ、何書いてあるかわかるか?」
それに同意するのはアンドレだ。
「確かに、俺が見ているのはひたすらに数字と謎の記号"+"あと"-"とか"="が並んでいるだけで何がしたいのかが分からない。」
しかし、残りの二人は同意しなかった。
「俺はとても分かりやすいと思った。これほどまでに分かりやすければ、勝手に勉強することも可能なくらいだ。だが、アレは笑える。笑いを噛み締めるのが大変だったぞ。思い出しても笑える。フフフ。」
「私の方は、面白い文章だと思った。読んでいて分かりやすく、興味深い。最初は誰もが知っている唄から始まるのは工夫されていると思ったな。」
「なら、エリクとクリストフが今俺らが持っている本を読むんだ。交換しよう。俺がオレンジ色のを読む。アンドレが赤い方だ。」
「分かった。なら、私は水色をもらおう。エリク、それでいいか?」
「あぁ。」
そして交換からしばらくして、クリストフが言った。
「確かに意味がわからない。数字が大量に書いてある。面白くもなんともない。エリクはどうだ?」
「頑張れば理解できそうだと思ったが、今のところはまだ。私としては興味深いが、確かに難しいと思う。」
「はぁ??エリク、分かりそうなのか?」
「あぁ、もう少しだと思うのだが、ユーグが理解できないのも当然だと思ったよ。」
エリクのみ、何かをえられそうな状況みたいだ。
「俺の、赤いのは確かに興味深い。もっと読んでいたいと思える文章だ。そしてユーグ、クリストフの爆笑の原因は分かったのか?」
アンドレは国語の教科書を楽しめたようだが、それ以上にクリストフの爆笑原因が知りたいようだ。
「あぁ、これだろ?」
ユーグはあるページを開いた。
「パトリス式??」
「ぷふふふっ!何度見ても面白い。いや、恥ずかしいね、これは。」
「ペンの持ち方を紹介しているのか。だが、自分の名前がこうやって広まるのは、確かに私も恥ずかしいな。」
「面白いだろ?何より、私が知るパトリスという人物はこういうのを好む人間ではないはずだ。」
「それは同感だ。だが、最初は驚いたが、そうか、平民はペンを持ったことすらないから、基準となる持ち方があったほうが良いということなのか。」
「私も盲点だったよ。ちゃんと端には好きな持ち方をしても構いませんと書いてある。」
「さて、文字が扱えるようになった原因、これだけではないはずだが、まずはその青と水色の本について聞かないとね。」
クリストフの言葉に首肯した。
「パトリス、パトリス?質問があるのだけれど。」
「....................」
「パトリス?」
「.........」
「そうか、仕方ない。実力行使だ。」
クリストフは青い本を紙と顔の間に差し込んだ。
「パトリス、質問があるのだけれど。」
「なんだ?今、とてもいいところなのだが。」
「もはや、デスマスも抜けたか......。この青い本と水色の本がわからないのだけれど。」
「はぁ。数字に関しての勉強です。」
「数字?」
「今、私がやっているのがその一部の計算というもので、数えずに全部でいくつかを出すという訓練です。」
「数えずに?」
「この程度、うちの領民なら誰だって簡単にやりますよ。私のペースだって真ん中より上ではあるが、うかうかしていると最下位になるのでね。」
「今、誰でもと言った?」
「えぇ。これもセシルとノエルが広めたのですが。その程度ができないと馬鹿にされてしまいますよ。今や、文字が汚い奴はモテないとか、計算ができる奴がモテるとかそういう次元なのですから。」
「はぁ?」
「なんなら、使用人か妻を呼びましょうか?」
「そ、そうか......。頼もう。」
「確か、講堂で用事があると言っていたから......」
パトリスが先導して屋敷の講堂へ向かう。
講堂の扉の前にたどり着き、扉をノックする。
「パトリスだ、入るよ。」
扉を開けた瞬間、クラリスがパトリスを押し出して、部屋に入ることはかなわなかった。
「パトリス。何をしているんですか。」
「向こうの人たちが計算が分からないというから、誰でも計算できる証人として何人かの使用人や君に計算をしてもらおうと思ったんだ。」
「今、大事な用で、私も外せないんです。皆、真剣にやってるんだから、邪魔しないでください。残り時間僅かなの。」
「残り時間僅かって何を、まさか......」
クラリスを避けて扉を開けると、全使用人が机に齧り付いて黙々とペンを動かしていた。数人の視線の先には大きな砂時計がある。そして黒板に書いてあるのは..."遠征版計算コンテスト -タイムアタック-"の文字。1度目ではない証拠にこれまでの最高記録が名前とともに書かれている。
それを確認すると、邪魔をしないように静かに扉を閉じた。
「王都に来てからずっと、私を除け者にして、計算コンテストをやっていたのか!!」
「除け者にした覚えはありませんけど、計算コンテストは毎日やっていましたよ。」
「私以外は参加しているではないか。」
「いいえ、私も参加していませんの。試験監督ですから。なら、夫婦として参加しませんよね?」
「いや、これまで隠されていたのは事実だ。次回からでもの参加を。」
「いえ、できません。これは厳正な規則のもとに行われているのです。事前に問題を受け取っているなんて不正ですから、参加資格などとうに剥奪されています。パトリスが問題を受け取ったその時点で、あなたに参加資格などないのです。」
「嘘だろ。」
「事実です。では、試験監督に戻りますので。失礼。」
クラリスは扉の向こうに消えた。
「パトリス?なんか大変そうだけど大丈夫?」
クリストフが遠慮がちに声をかける。
「大丈夫、ではないです。」
「そう、か......。」
「傷心のところ申し訳ないが、先程の会話、全く意味を理解できなかったのだが。」
アンドレが質問をした。
「計算コンテストとは先程の計算の速さを競う戦いです。領内全域で定期的に、一般的には休息日ごとに行われるのですが、まさか、王都に来てまでやっているとは......。」
「なるほど。もうすぐ終わると言っていたから、終わった後に見せてもらえるよう頼むというのはできるだろうか。」
「たぶん、可能かと。」
「ならよし。その時に訊ねよう。他のことも解決させておかねばな。」
「先程読んでいなかった本をとりあえずは持ってきた。全て同じ色で、他の本よりも薄い。私が今の時間少し読んでいて気になったことがいくつかある。」
「あぁ、ノートか。」
傷心のまま、エリクに対して答えるパトリス。
「まずは、表紙に書いてあるのが貴方の名前ということはわかる。が、裏や内側に書いてある大量の名前はなんだ?」
「それは、サイン交換会の時のです。セシルは一番最初の授業でインクとペンの使い方を教えたすぐ後に、全員に名前を書けるようにさせていました。そして、その次の授業で、近くにいるもの同士で相手のノートの表紙の内側に名前を書くのです。その名前をサインと呼んでいて、いくつサインを集められるかという遊びをしました。以来、自分の名前を書けないものはいなくなりました。」
パトリスはサイン交換会について詳しく説明した。
だが、サイン交換会が熱狂したこと、サインの形の進化については知らなかったため、語らなかった。おそらく知らないのは領内で彼だけであろう。
「成る程、これが大量の名前に繋がると。しかし、最初に名前を書かせるとは、一人一人に教えて回ったのか?」
「あぁ、それは、洗礼式の紙を使ったのです。セシルは一番上に書いてあるのが貴方の名前です、と説明しました。自分の紙かどうかは持てば分かりますからね。洗礼式を終えていない子には一人一人に教えました。」
「そうか、洗礼式のあの紙を、そんな使い方があったのか。では次に、この交換日記とはなんでしょう?見たところ、色々な人が書いていますが。」
「村または集落、うちでは屋敷でやっているもので、順番に書いていくのですよ。自分に回ってきたら、日付と名前とその他出来事などを書いて次の人に回す。同じ日に次の人に回してはいけないというルールはありますが、そのほかは基本的に自由なのです。全てのページに書いたものは誰でも見れる場所においてあり、誰もが読むことができます。」
「理解した。それによって、文字を扱う機会を増やそうと。考えた者は恐ろしいな。クリストフ。私はなんとなく分かってきた。何故、ここまで広がったのかが。」
「エリク?」
「あぁ。まずは分かりやすい本で誰でも一人で勉強ができるように。放送で一気にたくさんの人に説明をして、交換日記にサイン交換、士気、つまり文字が書けるようになりたいというやる気が上がるような施策をいくつも打ったのだろう。日常に文字を扱う機会を無理矢理にでも増やしていく、なんなら、本が読みたくなるような施策でも打っているのではないか。そうやって、誰もが何かに興味を持って、最終的に文字を扱うのが当たり前となれば、できないものは努力するしかない。考えたのは、おそらく長女のセシルか...恐ろしく人に興味を持たせるのが上手いのだろうな。」
「はい、確かに、本を読ませるためのものもあります。絵本という、文字が少なく、絵がメインの本を教会で読み聞かせ、司教が文字の方を読み上げています。最近は、まだ字を勉強する段階にない子が親と一緒に聞くのがメインですが、最初期は大人も多かったと聞いています。今は何冊か本を教会に置いていて、図書館という本が誰でも借りられる施設が計画されています。他にもいくつもの企画があります。」
「やはりな。これだけの大胆な施策、欲しいな。丁度息子も5歳、その子はもうすぐ4歳だったね。もともと、今代あたりでエマール伯爵家とは関係を持つつもりだった。どうかな?私の息子と婚約なんかいかがかな?」
"婚約"その言葉を聞いた途端、パトリスは震え出した。
「いや......いえ、断るとか、そういうんじゃないんですが......婚約...悪魔が......」
「大丈夫ですか?」
「.........、お気になさらず。その、婚約?というのはここでは決められません。子どもの意志がありますから。」
「あぁ、そうですね。ちゃんと顔を合わせて本人同士の意志の確認が先ですね。」
「いや、本人ではなく......いえ、そうですね。その.......できればその顔合わせの際に息子も同席させてもらえませんか?」
「息子?息子さんのお相手なら、望むなら私も別途紹介しますが。」
「そういうことではないんです。その......息子が娘の嫁は自分が見極めると怖くて......。」
「は?」
「娘は、セシルはノエルが怖いってことを知らないんですが......その...ノエルはセシルによく懐いていて、別に恋愛感情ではないようですが、半端な人にセシルを任せたくないと。」
「私の勘違いでなければ、もうすぐ2歳ですよね。」
「はい。そうなんです。その、ノエルは......」
その時、扉の向こうから拍手が聞こえてきた。
「中、終わったようですね。入りますか?」
扉をノックして部屋に入った。