逃げるのはやめた。
※途中からノエル視点に変わります。
<> = 日本語
() = 英語などの日本語訳
となっています。
それ以外はその世界の言語で会話されています。
英語で会話しているときは英語で記述しています。
迂闊だった。
私は一人で論文を読んで感慨に浸っているつもりだったが、ここはノエルの部屋。周りにはいつものように仕事をする皆がいる。
私は涙を拭って気になったことを瑞稀に尋ねた。
「 Have you ever read this paper? (この論文読んだことありますか。) 」
「 Yes, yes I have read it many times. A lot of people read it, but there are few people who can understand it in the true sense like you. (あぁ、そうだ、我は何度も読んだことがある。多くの奴らがそれを読んだが、それをお主のように真の意味で理解したものはほとんどいないだろう。) 」
「 I've seen earthmen read this paper and they shed tears. Could you write your name? (我は地球の者がその論文を読むところをそして涙を流すところを見てきた。名前は書けたか。) 」
「 Yes. …… <はい。これは私の名前です。私の名前を書けた。これほど嬉しいことはありません。>」
…英語で話していたはずなのに、もう頭が回んないや。
日本語しか出てこない。
「<そうか。>」
瑞稀はそれだけ言った。
「<私はもう逃げてばかりではいられないのかもしれません。それでは彼らに義理が立ちません。ずっと逃げてきた…好きでないという理由で、必要ないという理由で、それ以外にもたくさんの理由をつけて。自分が貴族であるということから、権力者であるということから逃げてきた。でも、それではダメなんだ。分からないからじゃ、理系だからじゃ、ダメなんだ。なにも知らなければ、なにもできない。なら知るしかないじゃないか。政治も、王政も、経済も、戦争も。私の授業で犠牲になった人のことも。見なかったふりにはしてはいけない。>」
「<それがお主の行く道か。>」
「<はい。多くは望みません。ただ、彼らに恥じぬ人になりたい。あなた方の信頼を得られるくらいには。>」
「<なら、我はそれに伴うだけじゃ。>」
瑞稀の言葉は心強いと同時に緊張する。
瑞稀は私個人への信頼なんてない。
あくまで、それ以前の彼らの築いたもの。
それを壊しちゃいけないし、それに積み上げなければいけない。
…ただ、今日だけは。
「<今日だけは、もう少しだけ前世に浸らせて。今日でさよならするから。>」
私は私だし、名前も私の宝物。
でも、前世気分でいるのはもうやめにするから。
人生のボーナスステージみたいに考えるのはやめにするから。
ケジメをつけるから。
ここが私の生きる世界だ。
♦︎♢♦︎
姉さんは瑞稀さんに何かを言って自室に戻った。
今日は休みたいらしい。
姉さんはいつも働きすぎているから、休みたいなら休めばいいと思うけど、その原因が心配だ。
姉さんは僕やレオンさん、ブルナンどのの前では本音を見せないようにしている気がする。姉さんが心を揺らすのは、全て亜人関連のものだ。サエラさんのところでも、今回も、涙を流していた。
姉さんは取り繕うのが上手い方ではない。
自分の状態にも鈍感だから、稀に強制的に仕事を休ませなければならない時があるが、それすらも分かりやすい。考え事をしているとき、内容は兎も角、なにに関心を寄せているかくらいはわかる。
だから、姉さんが僕たちに隠し事をしていること自体は明らかなんだ。
姉さんが一言二言瑞稀さんと話していたとき、前半は英語だったから一生懸命聞き取ろうとした。
姉さんは、紙を読んだ経験があるかどうかを瑞稀さんに聞いた。
瑞稀さんは、Yesと答えた。
そこから先は聞き取れなかった。
部分的に聞き取れた部分も、たくさんの人や読んだ、理解した、などの単語で意味まで類推することは不可能だった。
そして、名前を書けたかと尋ねた。それに、姉さんがyesと答えた後は、また分からない言語に変わっていった。佐助さんや楓さんが話すようなものに似ていたと思う。
名前が書けたか、という質問はおかしい。
姉さんが名前を書けないはずがないのだから。
会話を聞いても謎は深まるばかりで、結局なにも分からなかった。
姉さんが出て行ってしばらくして、瑞稀さんが姉さんが読んでいた冊子を僕に手渡した。
「読めるものなら読むといい。我やセシルが隠していることがあることくらい気づいているのだろう?直接的ではないが、それらに答えがある。そこから知るならなにも言わぬ。だが、我らは答えるつもりはない。」
…これは知られても構わないということなのだろうか。
なら、なぜわざわざ面倒なことをするのだろうか。
あぁ、分からないや。
でも、分からないなら、読むしかないんだろうな。
僕は与えられている英語と自分の使っている言葉の意味を調べる辞書という書物と文法に関する書物を持ち出してきた。文法は英語で説明されているが、姉さんの作った教科書同様、絵が多く描かれているため、なんとか理解できるようにされている。
「…ノエル、お前は理解できるんだよな?」
レオンさんに尋ねられた。
「…分かりません。瑞稀さんに習ってはいるけど、こんな論文を読むのは初めてで。辞書とこの本を使って意味がわかったらいい方だと思います。」
本当にそうだと思う。
単語の意味を調べても、文法が分からずに意味を読み取れないことなんて多々ある。
「いや、十分だ。できることなら俺はなんでも手伝う。頼む。」
レオンさんの言葉に頷いて一文目を紙に写す。
封に書いてあった言葉。
"FOR THE PEOPLE WHO KNOW THE EARTH"
「これが文字…なのか?」
ブルナンどのが驚いているけど、そんなことに構っている場合ではない。
「わかる単語は…PEOPLEが人々、WHOが誰、KNOWが知っている、だけか。THEは冠詞で意味はない。FORは前置詞?でイメージは矢印で指差すかんじだから…。」
僕はFORのイメージを絵に描いて、丸の部分にTHE PEOPLE WHO KNOW THE EARTHと書き記した。
「…つまり、この論文は特定の人に向けたものと理解していいのか?俺たちが読むものではないと。」
レオンさんが言ったが、その通りだと思う。
「問題はその特定の人です。僕らに向けたものではない。姉さんが読んでいたことを推測するに姉さんは特定の人に当てはまるんじゃないかな。」
敬語なんて気にしている余裕はない。
「だが、俺たちに見せていいっつーことは俺らもその特定に入ったりはしねぇのか?」
ブルナンどのが言った。
「…確かに。瑞稀さんは確かに僕らに渡しましたし…。」
「いや、そうではないな。」
レオンさんが否定した。
「誰かに宛てられた手紙をそれ以外の人が読んではいけないなんてことはないだろう?その人にしか伝わらない意味があったり、その人にしか意味のないものだったりするかもしれないが、他の人が読んではいけないものではない。褒められたことではないがな。そして、それは論文だ。個人的な手紙じゃない。もっといえば、宛先は名前でもなかったのだろう?」
「…そう言われりゃそうだ。確かに人の手紙を読んでも自分には意味がねぇ。だが、読めないわけでも、読んでまずいわけでもねぇぜ。」
いや、読んではだめでしょう。
「なら、問題はこの部分かな…。EARTH…この単語、見たことがないから意味が分からない。調べるしかない。」
僕は辞書を取り出して、その単語を調べた。




