没落令嬢フランセットは、まさかの契約を持ちかけられる
庭が静けさを取り戻したあと、私は改めて彼に感謝し、頭を下げる。
「危ないところを助けていただき、心から感謝しています」
「こちらのほうこそ、スライムを保護していただき、ありがとうございました」
お互いに頭を下げ合っている中で、名前も名乗っていなかったことに気づいた。
「私はメルクール公爵の娘、フランセット・ド・ブランシャールと申します」
ご存じかもしれないけれど……という視線を送るが、いまいち反応は薄い。
「あの、お名前を、お聞きしても?」
「私の、ですか?」
「はい」
彼がガブリエルという名前は把握しているものの、どこの誰かというのは謎である。
もしかしたら、有名な御方だったのか。若干信じがたい、という視線を向けていた。
「私は、ガブリエル・ド・グリエット・スライムです」
「スライム……ってことは、スライム大公なの!?」
「ええ、まあ」
七名いる魔物大公のひとり、スライム大公が我が家に!?
たしかに、知らないのは失礼だろう。
けれども、彼が夜会に現れたことはあったか。記憶にない。
それにしても、どうしてすぐに気づかなかったのか。これだけ多くの賢いスライムをテイムしているというのは、ありえないことなのに。
「あ、立ち話もなんですから、どうぞ家の中へ」
「どなたか、家にいるのですか?」
「いいえ、私ひとりだけです」
「ならば、入るわけには――」
未婚の男女が密室でふたりきりになるべきではない。家庭教師が、口が酸っぱくなるほど言っていた言葉である。
けれども、ここでは近所の人達の耳目があった。騎士達がやってきたので、先ほどから何かあったのかと覗きに来る近隣住民もいる。
「どうかお気になさらず」
「いやしかし」
「本当に、大丈夫ですので」
てこでも動かないつもりだろう。背中をぐいぐい押したが、びくともしない。
ここで、プルルンがガブリエルの背中に体当たりする。
「ぎゃーす!!」
ガブリエルはなんとも残念な悲鳴をあげていた。
体が動いた勢いを利用し、彼の手を引いて家の中へと誘う。
「……まさか、テイムしているスライムに裏切られるとは思ってもいませんでした」
ガブリエルはカモミールティーを飲みつつ、早口でぼやいている。
私も、プルルンが加勢してくれるとは思わなかった。
「ごめんなさいね。下町の人達、噂好きだから、話を聞かれたくなくて」
「もしも私が、あなたを襲ったらどうするのですか?」
「あなたが私を?」
聞き返した瞬間、プルルンが私の膝の上に跳び乗る。ガブリエルから守るように、触手を伸ばしてくれた。
「ちょっとプルルン、どういうつもりなのですか!」
『ガブリエルから、フラ、まもるう』
「自分の主人を忘れているのですか?」
『ガブリエル、あやしいからー』
ガブリエルとプルルンのやりとりは面白い。主従関係は破綻していた。
会話にほのぼのしている場合ではなかった。本題へ移らなければならない。
「あの、立て替えていただいた二十万フランなんだけれど、現状、お返しすることはできないの」
「ええ、メルクール公爵の家の経済状況は、わかっています」
「だったらなぜ、助けてくださったの?」
「あなたに、契約を持ちかけようと思いまして」
「契約?」
領地で強制労働か。
はたまた、人体実験か。
契約とはいったいなんなのか。まったく想像できない。
ガブリエルは銀縁眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、契約について話し始める。
「私と、結婚していただこうかなと」
「け、結婚!?」
たしかに、結婚は契約だ。しかしなぜ?
疑問符が雨霰のように降り注ぐ。
「どうして、私と結婚を?」
持参金はない、名誉もない、私自身の器量もない。ないない尽くしの女と結婚する意味などないだろう。
「大叔父に、結婚を急かされていたのです。もう何年も無視していたのですが、最近は特にしつこくて……」
なんでも、王都で最高の女性を探している。見つかるのを待つようにと宣言していたらしい。
「最近、年下の従弟が結婚したものですから、当主が長い間独身なのは恥だと言い始めまして……」
「でも、私で納得されるかしら? 父は爵位を没収されていないけれど、社交界で悪評は知れ渡っているし」
「大丈夫です。大叔父はゴシップの類が大嫌いで、社交界の卑しい噂話には耳を傾けないはず。メルクール公爵の娘と結婚すると聞いたら、小躍りして喜ぶでしょう!!」
眼鏡のブリッジを何度も押し上げながら、ガブリエルは早口で力説する。
その眼鏡、サイズは本当に合っているのか、指摘したくなったが我慢した。たぶん、眼鏡を押し上げるのが癖なのだろう。
「家柄についてはまあ、いいとして、最高の女性という条件も、当てはまらないような……?」
「あなたは、最高の女性では?」
「え? どこが?」
聞き返すと、ガブリエルはカーッと顔を赤く染める。
なんの照れなのか。私も恥ずかしくなるので、羞恥心は隠してほしい。
それにしても、何かがおかしい。いきなり、見ず知らずの女性を花嫁に抜擢するものなのか。
もしかしたら――という思いがこみ上げ、念のため質問してみる。
「あの、私、どこかであなたに会ったことがあるの?」
「――っ!!」
ガブリエルは口元を手で覆い、がっくりとうな垂れる。
この反応を見る限り、やはりどこかで知り合っているようだ。
「どこで会ったか、教えてくれる? 思い出すから。十年以上前、幼少期の話かしら?」
違うと首を横に振る。ごくごく最近の話らしい。
「詳しく教えてくださる?」
「いいえ、覚えていないのであれば、いいです!! まったく、まったく問題ありません!!」
「そ、そう」
強く言われると、追及できなくなる。
残念ながら、ガブリエルくらい個性的な男性と出会った記憶はない。
ガブリエルはゴホンゴホンと咳払いする。背筋をピンと伸ばし、眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
キリッとした表情で、話しかけてくる。
「我が領地について、ご存じですか?」
「いいえ」
「王都から遠く離れた、スプリヌという湖水地方なのですが」
「人が住む土地よりも、湖のほうが多いという噂の?」
「ええ。そこが、我が領地となります」
「はあ」
スプリヌについて、湖がとにかく多いというぼやっとしたイメージしかなかった。
ガブリエルの口から語られたスプリヌは、私が想像もしていない驚くべき土地だった。




