没落令嬢フランセットは、スライム大公と毎日の習慣を決める
至近距離でガブリエルの匂いを吸い込んだ上に、微動だにしない様子に気づいてハッとなる。すぐに、ガブリエルから離れた。
彼の耳が真っ赤になっていた。本当に、申し訳ない。
「あ――ご、ごめんなさい」
我に返ったら抱きついていた、なんて言えない。まだ婚約すら交わしていないのに、はしたない行為だっただろう。
「いいえ、お気になさらず。私達はいずれ、夫婦となる身。この程度のふれあい、なんてことありません」
そう言って、振り返ったガブリエルの顔は真っ赤だった。私も、同じくらい赤面しているだろう。顔が、燃えるように熱いから。
彼に、好きだと言いたかった。けれども私はまだ、一人前ではない。
ガブリエルから借りたお金を返し終えて、父が結婚を認めてくれたら、気持ちを伝えたい。
今はまだそれができないから、体が勝手に動いてしまったのだろう。
未熟者だ。本当に恥ずかしい。
「あの、フラン。こういうのは、滅多にしないことなので、恥ずかしいと思うんです」
「え、まあ、そうよね」
「毎日したら、恥ずかしくなくなるのでは?」
「え?」
「抱擁を、習慣にするんです」
「そ、そう、なのかしら?」
「そうだと思います」
私が恥をかかないように、提案してくれているのか。
たしかに、毎日当たり前のように抱擁していたら、恥ずかしく思わなくなるかもしれない。
「わかったわ。やってみましょう」
「よろしくお願いします」
そろそろ出発の時間だ。カエルが釣れる湖へは、男女別れて馬車に乗りこむ。
ここでいったん、ガブリエルと別れなければ。
プルルンに一言声をかけ、執務室をあとにする。
ディアーヌとリリアーヌ、義母と馬車に乗りこんだ。男性陣の馬車は、先陣を切っている。もう一台、ニコ、リコ、ココなどの使用人が乗った馬車があとに続く。
ガタゴトと揺られる中で、私は気づいた。
一日一回抱擁するなんて、おかしくない!?
まだ、婚約ですら交わしていないのに……。
先ほどはガブリエルを抱きしめてしまった手前、混乱していたのだろう。
彼もまた、混乱していてあのような提案をしたのだろうか。
わからない。
おかしいと思ったら、ガブリエルのほうから断ってくるだろう。
そうだ。そうに違いない。
必死になって、言い聞かせる。
私のほうから抱きしめてしまった手前、毎日抱擁するのはおかしくないか、などと言えるわけがなかった。
うだうだと考え事をしている間に、カエルが釣れる湖へと辿り着く。
窓を覗き込んだディアーヌとリリアーヌは、「ヒィッ、あ、あれはなんですの!!」と悲鳴を上げていた。
カエルが好んで棲んでいる湖は、全体的に濁っている上に周囲は霧が深い。
おののく姉妹に、義母が物申す。
「いいですか、あなた達。殿方は遊びに夢中になると、周囲が見えなくなるものです。この辺りには、凶暴なスライムがいるという話です。自分の身は、自分で守ってくださいね」
「せっかく国内最強と言われるアクセル殿下がいらっしゃるのに、守ってくれないなんて」
「強い女性なんて、男性は嫌がるという話なのに」
「つべこべ言わずに、護身用の武器を持っておくのです!」
私も座席の下に押し込んでいた、護身用の傘を手に取る。義母の武器は外側に縛り付けていたようだ。ちょうどリコが、取り外して差し出していた。
「お、お義母様、それは……?」
義母は槍のような、細長い武器を手にしている。
「これは、連接棍ですわ!」
「フ、フレイル!?」
それは柄の先端に棍棒がぶら下がった、打撃に特化した武器らしい。脱穀を行う農具からヒントを得て、完成したようだ。
このフレイルで、スライムを猛烈に殴打するという。
「女性は傘でスライムと戦うのが一般的ですが、リーチが短いでしょう? フレイルならば、十分に離れた位置から戦えますので」
「な、なるほど」
フレイルを手に持つ義母は、勇ましかった。さすが、スプリヌの地で生まれ、育った女である。
ディアーヌとリリアーヌは、傘を手に馬車から下りてきた。
「なんですの、この不気味な湖は」
「こんなところで、何が釣れるというの?」
「それは、釣れてからのお楽しみですわ!」
義母の言葉に、笑いそうになってしまう。まだ、カエル釣りをすると説明しないようだ。
使用人達が地面に魔物避けの聖水をまき、日よけの大型日傘を立てていた。敷物を広げ、寛げるような場所を作ってくれる。
ガブリエルとアクセル殿下は、湖のほとりに魔物避けの魔法陣を展開させているようだった。
椅子を設置し、釣り竿に餌を付けているようだ。
ディアーヌとリリアーヌが、嬉々としてアクセル殿下に話しかける。
「アクセル殿下、何を餌にしているのですか?」
「教えてくださいませ」
アクセル殿下は無言で、地面を掘って得たミミズを差し出していた。それを見た姉妹は、悲鳴をあげる。
「きゃあ!!」
「な、なんですの!?」
すぐさま、ディアーヌとリリアーヌを義母が叱咤する。
「なんですか! アクセル殿下に対して、その態度は!」
「だって、変な虫がいたから」
「動きが、気持ち悪くて」
そのミミズを、私に贈ってきたのはどこの誰だったのか……。
ディアーヌとリリアーヌの悲鳴と共に、カエル釣り大会はスタートした。




