窓の向こうに見た景色
オスカーが目にしたのは、驚くべき光景だった。
ディレイ・ノルヴァインは確かに一歩も動いていなかった。しかしその瞬間、間違いなく何かを仕掛けた。
何かが自分の脇をすり抜けたような感覚があり、オスカーはアリアを振り返る。アリアは目を見開いていた。その一瞬後、彼女の瞳は虚ろになり焦点を失った。
「アリア!」
彼女に手を伸ばそうとしたオスカーは、息を飲んだ。見慣れたアリアの容姿に変化があった。
茶色の髪が、闇に染まるように黒く塗り替えられていく。一つに編まれていた三編みがほどけて、長い髪が波打った。
そして瞳が、穏やかな茶色から、燃える石炭のような鮮やかな赤に染まった。その目は焦点を取り戻していたけれど、代わりに剥き出しの驚愕が浮かんでいた。
オスカーは直感的にわかった。今目の前にいる人物は、アリアでは無いことを。そしておそらく、誰であるかもわかったのだ。
「ナタリア・リュシャン…」
彼女は勢いよく踵を返してオスカーに背を向けて、まるでそこに誰かいるように虚空へと手を伸ばす。
けれどその手は、ただ宙を掻いただけだった。
「駄目…。追いかけなきゃ」
切羽詰まった声で彼女は呟き、足元に右手をかざした。途端に床にぬっと、彼女を中心にして黒い水たまりのようなものが広がった。
「待て…、アリアは、アリアはどこへ消えた!」
オスカーは耐えられずに叫んだ。彼女はオスカーの方へ振り向き、告げた。
「…説明する時間は無いけれど、必ず連れ戻すわ。意識体でしか行けない場所に向かうから、体はここへ置いていく。そこの魔術師に悪戯をされないように見張っておいて」
「…わかった」
オスカーはもう、時間を無駄にはしなかった。状況は何もわからない。しかし何より、ここにアリアがいないということだけが、重要な事実だった。
オスカーの返事にナタリアは微笑み、その場へすっとしゃがみ込む。すると黒い水たまりは急激に縮み、それが消えると同時に彼女はその場に崩れ落ちた。オスカーが慌てて駆け寄り、その体を抱き上げれば、彼女は既に意識はなく目を閉じていた。
そしていつのまにか、その髪色は見慣れた茶色に戻っていた。オスカーはこの場所にいないアリアに向けて懇願した。
「アリア…、アリア、いなくなるな」
その声は自分で情けなくなるくらい、酷く震えていた。
***
気付いた時、そこにあったのは窓だった。窓以外には何も無かった。辺りを見渡してもそこにはただ、何も無いまっさらな空間が続くばかりだ。
視線を再び窓に戻す。壁もないのに、自分の目の高さくらいの場所に浮いているその窓。両手を横にまっすぐ広げたよりも少し狭いくらいの幅、自分より少し低い、屈めばくぐれるくらいの高さ。
こんな奇妙な場所へは初めて来るのに、この窓を酷く懐かしく感じるのはなぜだろう。かつて似たような窓を覗き込んで、何かを夢中で見ていた気がするのだ。
(何を、見ていたんだっけ…)
それは確か、唯一無二のものだった。その窓を覗いている間は、どんなに辛い現実も、忘れることが出来たのだ。
けれどそれが何だったのか、どうしても思い出せない。もどかしくて、そっと窓に触れる。窓枠にはめ込まれている素材はガラスに似た、けれどほんの少し柔らかで、更にわずかに温もりまであるような、不思議な素材だった。
窓の向こう側の景色は乳白色にくもっていて、見ることは出来ない。しかし窓を眺めている内にだんだん、焦点が定まるようにその景色が明瞭になってきた。
「……っ」
息を飲んだ。窓の向こう側に見えたのは、白を基調とした整然と整えられた部屋だった。その部屋にはベッドが設えられている。
そのベッドに横たわり、眠っている娘がいた。腕や手の甲から様々な管が伸びている。眠る娘の顔色は青白く、腕は折れそうに細い。
あまりの既視感に目眩がしそうだった。そして悟った。説明は出来ないけれど、窓の向こうのこの景色は、夢でも幻でもないと。
確かに存在する、現実だと。
ふいに、部屋の奥にあるドアが開いた。慣れた様子で入ってくるその人を、私はよく知っていた。目を離すことが出来なかった。その人は大きな花瓶を抱えて現れた。その花瓶に活けられているのは瑞々しいミモザだった。白く味気なかった部屋が、急にパッと華やぐ。その人は壁際にあるテーブルにその花瓶を置き、ベッドの側に佇む椅子に腰をかけた。そして眠っている娘を眺めた。
その人は眠る娘の手を優しく自分の手のひらで包んだ。そして口を開いて、呼びかける。
(あ り さ)
窓のこちら側からでは、その声は聞くことは出来なかった。けれど口の動きは、確かに自分を呼んでいた。
「
「…行かなきゃ」
無意識の内にそう呟いていた。窓に触れた手に力を込める。この窓は開くのだろうか。向こう側に帰れるのだろうか、お母さんのもとに。
ぐっと力を込めた手に、かすかに窓が動くような感触があった。しかし、そのまま押し続けようとしたその時、私の体はぐいっと後ろに引っ張られて、窓から離された。
『…よかった、間に合ったわ』
安堵を滲ませた声でそう言ったのは誰だろう。私はもがいて、引っ張る力から逃れようとしたけれど、その力は圧倒的だった。窓は見る見るうちに遠ざかっていく。
『やめて!私は、帰らなきゃ』
お母さんをあのままにしておくことは出来ないと、私は暴れた。涙が次から次へと溢れて止まらなかった。
『ごめんなさい。まだあなたは、帰ることは出来ないわ』
私は暗闇に意識が飲み込まれるのを感じた。ミモザの鮮やかな黄色が、まぶたの裏に残像のように残っていた。
***
少しずつ、意識が浮上していく。誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
けれどよくわかっていた。あの名前は、ニセモノの名前だと。
抗うことも出来ず、浮かび上がるように向かっているあの場所は、私のいるべき場所ではないのだ。
私の本当の場所はあの窓の向こう側にあって、まだ続いている。
(そっか…)
そしてあのやけに既視感があった窓をどこで見たのか、やっと気付いた。あの窓は、向こう側では『聖国物語』という本の形をしていた。いつも夢中になって、あの窓枠から、この国の物語を覗き込んでいた。
いつの間に私は、窓をくぐってしまったのだろう。向こう側に体を置き去りにして。
ああまた、名前が聴こえる。それはニセモノの名前だった。けれど確かに、そう名乗ったあの日から、何度も何度も呼ばれて、大切なものになった名前だった。
あなたが呼ぶなら、なおさら。
「アリア!」
一際大きい声で名前を呼ばれて、アリアはぱちりと目を覚ました。まず目に入ったのは、鮮やかな若葉色。そしてさらりと揺れる銀色。いつも隣で見ている、アリアの大好きな色だった。
「えっ オスカー? わっ ウル!」
アリアはまず至近距離で自分を覗き込むオスカーに驚き、続いて飛びついてきた森狼に更に驚く。
「…はー、アリアだ…」
安堵を滲ませたため息と共にオスカーはそう言って、アリアをぎゅうっと強く抱きしめた。目を白黒させながらアリアは自分の状況を見るに、床に座り込んだオスカーの膝に乗せられて、抱えられているらしい。冷えないようにするためか、オスカーのマントが体を包んでいた。
頬に触れるオスカーの胸の硬さや熱さを感じながら、アリアは呆然と呟く。
「夢、だったの…?」
その言葉は口からこぼれ落ちたもので、誰に対する問いかけでも無かった。しかし、返事があった。
「どうかな。お前にとっては、こちらが夢かもしれない」
離してくれそうにないがっちり自分を抱え込むオスカーの腕から、ぎぎぎと体勢を変えて声がした方に顔を向ける。するとそこに、蔓性の植物にぐるぐる巻きにされて床に這いつくばっている美形という、何やらいかがわしい光景が目に入った。ディレイに絡みついている植物をよく見ると、それはアリアの私物で、オスカーにもおすそ分けしておいた植物性の罠であることに気付く。かつてキヌカの街でウルを捕獲しようとした時に、使うつもりだったものだ。
「ええっと、この状況は…」
「そこにいる、お前の番犬にやられてしまったんだ」
やれやれと首を振るディレイに、オスカーが低い声で言う。
「信用できないなら拘束すればいいと、お前が言ったんだろう」
「まあそうだ。まさかこんながんじ絡めにされるとは思わなかったけどな。妙な趣味に目覚めたらどうしてくれるんだ?」
オスカーがまとう空気が数度下がったようだった。しかしディレイはそんな状況でも気にせずに飄々と、アリアに話しかけた。
「すまないな、アリア。あまりにお前が得体が知れないので、手っ取り早く履歴を読もうと魂に手を突っ込んでみただけなんだが」
「やめてください」
「お前がはじき出されたのは予想外だった。すまないな。けれどおかげで、色々とわかった」
「………」
目を見開いたアリアを見て、ディレイは笑った。そしてふわりと手から焔を出現させると、巻き付いていた蔓をあっという間に燃やし尽くした。彼は煤を体から払いながら立ち上がった。
「悪いな。この蔓も多少耐火性はあるようだが、私にかかれば造作もなく燃やせてしまうようだ」
オスカーがギロッとディレイを睨んだ。ディレイは両手を上げて「何もしないさ」と言う。
「真面目な話をするのに、あのままでいるには少々格好がつかないだろう?客人を驚かせた謝罪代わりに、私が知ったことを、教えてあげよう」
「…それは、私一人で聞いてはいけませんか」
オスカーの視線が痛いほど突き刺さるけれど、アリアは気付かない振りをした。ディレイは眉を寄せて答えた。
「構わないが、残酷だな。あのような形でお前が消えた後で、何も聞かせないというのは」
その言葉に、アリアはオスカーを振り向く。オスカーはぎこちなく笑おうとして、失敗していた。そして片手で、目元を覆った。
「確かに…、きついな」
「オスカー」
「君が話してくれる時を、待つつもりだったのに。……ごめん」
オスカーの声は、少し震えていた。アリアはもし、自分の前で消えたのがオスカーだったらと考えた。ひゅっと、体の中に氷が流し込まれたように心が冷える。
「オスカー、私がきっと間違っていました。……一緒に、聞いてください」
そう言ってオスカーの手を握る。若葉色の瞳が迷うように揺れて、アリアを見つめた。
「……本当に、大丈夫?」
「はい」
自分が怖がって様々なことを隠し続けてきた今日までにどれほど、目の前の大事な人に怖い思いをしてきただろうか。もしかしたらこれからディレイが話すことは、オスカーと自分の関係性を徹底的に変えてしまうかもしれない。これまでのように旅を続けられるかもわからない。それでも。
もういい加減、変わらなくてはいけないのだ。目を逸していた現実に向き合わなくてはならない時が、とうとう来たのかもしれなかった。
「話を、お願いします。ノルヴァイン様」
「堅苦しいな。ディレイと呼んでくれたら話し始めよう。敬称も不要だ」
「……ディレイ」
ディレイはふっと笑った。アリアはその時、彼の目つきが少し変わったことに気付いた。冷え冷えとしたその目つきこそ、彼の地のような気がした。
「これから私が言うことが、お前にとっての吉報になるか、凶報になるか」
彼はまずそう呟いて、アリアを見据えた。
「肉体の奥深くに魂が存在する。そして魂の表層を覆うのが心だ。一つの肉体に収めることが出来るのは、一つの魂だけだ。…けれど表層のみなら、無理やりながら押し込めることが出来るようだな」
その夕焼け色の瞳は、何もかも見透かすようだった。アリアは自分の喉が酷く乾いて、震えているのを感じた。
「お前は別の世界から、心だけ剥ぎ取られて連れてこられた。だからお前の本来の体は魂を所有したまま、元いた世界で生きているだろう。だからそうだな、そういう意味では」
アリアは窓の前で感じた感覚を、まざまざと思い出す。あの窓の向こうに広がる景色は、夢でも幻でもなく現実だと直感的にわかったのだ。アリアは先程、目を覚ましてすぐの時にディレイにかけられた言葉を思い出した。
ーどうかな。お前にとっては、こちらが
「お前にとってこの世界はただの、長い夢だ」




