その声が呼ぶのは
建物の奥へ奥へと歩いていくと、見落としてしまいそうな小さな通路があり、更にその奥へと進んで行く。そして行き着いた突き当りの隅っこに小さな倉庫があった。古ぼけた木の扉には鍵がかかっているようだった。しかし家令は鍵を取り出すことはなく、鍵穴の台座になっている薄汚れた正方形の石版を、すっと指でなぞった。扉がぎぃ、と開いた。
倉庫の中は何も仕舞われてはおらず、がらんどうだった。その代わり、床いっぱいにぽっかり穴が空いていた。何も知らずに足を踏み込んでいたら大惨事である。覗き込むとそれはただの穴ではなく、地下へと続く階段になっていた。階段はすぐに影に飲まれてしまっていて、どれくらいの長さなのか推し量ることは出来なかった。
初老の家令は申し訳無さそうな表情で、アリアとオスカーに告げる。
「こちらは地下通路に繋がる階段となります。このような所へお連れしなくてはならないのは心苦しいのですが、ディレイ様の棟へ繋がる道はこちらのみでして。私が先頭を歩きますので、どうぞ、足元をお気をつけて続いてください」
家令は魔術仕掛けの格納庫になっているらしい胸ポケットから、ずるりと取り出したランタンが掲げて、階段を下り始めた。その後をまずオスカーが行き、次にアリア、ウルが続く。
ランタンが照らし出す範囲はそう広くなかった。息が詰まるような暗闇の中、湧き上がってくる不安さを紛らわすように、アリアは家令に尋ねる。
「別棟に繋がる道がこの道だけなのは、やっぱり警備のためですか?」
「一概にそうとも言えないのですが、確かにこのノルヴァイン邸にディレイ様がいらしてから、オルグスブーケから送り込まれた暗殺者の数は両手では足りませんね」
「ひえ…」
「それは…、危ないこともあったでしょうね」
オスカーは言葉を選んでそう言ったのだが、家令はふふっと軽やかに笑った。
「考案を旦那様が、構築をディレイ様が行った魔術の罠を屋敷全体に張り巡らしまして。暗殺者どもを生け捕り、吐けるだけの情報を吐いて頂きました。その後は…、お聞きにならない方が良いでしょう」
「うわぁ…」
「そうですか…」
「暗殺者を送り込む程に、逆に情報を搾り取られているとオルグスブーケが気付いてからは、奴等も行儀が良いものです」
家令は飄々とそう語り、アリアとオスカーは引いた顔になった。
「じゃあ、別棟は」
「ディレイ様は新しい魔術の開発をなさるのが趣味で、思う存分実験が出来るようにと、旦那様が別棟を与えられたのです。別棟は、かつてこの屋敷が要塞として機能していた時代の実験用施設でして」
「要塞時代の実験用施設…」
アリアはなんだか引き返したくなって来た。
「ええ。国の機密事項となる実験が数多く行われ、秘匿された施設だったため、こうして隔離されております。そういう履歴の建物なので、ディレイ様が研究熱心なあまり、寝食まで別棟で取るようになるとは旦那様も予想外だったようです」
和やかに怖い話をしながら、ようやく階段を下りきった。平らな地面へと足を下ろし、アリアは少しほっとした。
「アリア、大丈夫だった?」
「…転げ落ちなかったでしょう?」
階段を降りる順番は、アリアが転がり落ちても受け止められるようにという屈辱的な理由をオスカーが提言し決まったのだ。なので前言撤回を要求しようとアリアはそう言ったのだが、オスカーはにこっと笑ってアリアの頭に手を乗せる。
「そうだね、偉いなアリア」
「褒めてほしかった訳じゃありません…!」
「お二人は仲がよろしいのですねぇ」
家令が微笑ましげに言った。
地下通路は暗さは相変わらずだが、道幅が広いためオスカーやウルの顔を見ながら並んで歩くことが出来るので、アリアは先程のような不安さは無くなった。
しかし歩き始めてしばらくも経たない内に、地下通路は行き止まりに行き当たってしまった。壁や天井と同じ煉瓦で、進行方向が完全に塞がれてしまっている。
アリアは戸惑ったが、家令は何でもない顔で、その場でカツン、カン、カツンと足を三回踏み鳴らした。すると
「え…!」
急に光がはじけたかと思えば、次の瞬間アリア達が立っていたのは、明るい温室のような空間だった。
アーチ状の高い天井付近に謎の球体が浮いていて、そこからまるで太陽のような光がさんさんと降り注いでいる。
何十、何百の様々な植物が植えられていて、その植物の間を給水用と思われる細い水路が張り巡らされていて、水の流れるサアサアという音が絶えず聞こえる。咲き乱れる花々の間をひらひら飛ぶ虹色の蝶を見つけて、アリアは思わず目をこすった。
「て、天国…?」
間の抜けた声でアリアはそう呟くと、家令が誇らしげに頷く。
「これらは研究用の植物であり、その育成の為に周囲の環境を整えているだけとのことですが、ディレイ様は決して美しくない履歴を持つ長らく放置されていた別棟を、妖精蝶が自然派生するほどに、清浄で美しい場所へと生まれ変わらせたのです」
(秘密の、花園だ…)
目の前の光景に魅入られながら、アリアはこの別棟が物語の中に描かれていた温室だと気付いた。
ディレイがナタリアを匿っていた期間、ナタリアが「秘密の花園」と呼んで度々訪れる温室があった。今は人工の太陽が浮かんでいる天井は、夜は星が投写される。ディレイとナタリアがそれを二人で見上げるシーンもあり、有沙はうっとりと読みふけったものだが、まさかその秘密の花園が、隔離された元実験施設だったとは…。
少し遠い目になったアリアだが、この別棟が素晴らしい空間であることは間違いない。何百もの花々の香りは、心にまで吹き込みそうなくらいに芳しく鮮烈だ。ずたぼろだったナタリアは確かに、ここでゆっくり癒やされて、心の息を吹き返したのだろう。
「あちらがディレイ様の様の住まいになります。正面入口からまっすぐ進むと玄関ホールになります。そちらでディレイ様をお待ち下さい」
「え、勝手に入ってしまって良いのでしょうか?」
「この空間はディレイ様が許可を出さないと入れないようになっていますので、我々が到着していることはご存知の筈です。すぐにいらっしゃるでしょう」
そう言って家令が指差したのは、温室の中にある青緑がかった銀色の金属で出来た、不思議な箱型の建物である。
「では、私はここで失礼しますね」
家令の急な言葉に、アリアは目を丸くした。
「えっ」
「夕餉の時間になりましたら、お迎えにあがります。ディレイ様から、ご用向の内容からおそらく三日程度は滞在して頂く必要があるだろうと申し使っております。本邸にお部屋をご用意しておきますので、本日はお泊りくださいませ」
「あ、ありがとうございます」
家令は先程のようにその場で靴を鳴らした。カッ カツン カッ。すると一瞬の後には、もう家令の姿は無かった。
「三日滞在が決定しました…」
「まあ、依頼を受けてくれる前提なのはありがたいんだけどね」オスカーが肩をすくめて言う。
「うぬぬ、とりあえず行ってみましょうか」
屋内に足を踏み入れると、その内壁も、外壁と同じ青緑がかった銀である。床材は靴音を吸収する、光沢のない黒い素材が使用されていた。入り口からごく短いアプローチがあり、すぐにホールに出た。片側の壁はガラス張りになっていて、外からの光がさんさんと入ってくる。例えばソファーやキャビネットのような調度品は全く無くて、人が住んでいるような生活感は無かった。代わりに部屋の隅には用途不明の実験器具や、異国のものと思われるいくつかの楽器が雑然と並べられていた。ディレイが現れるのを待ちながら、アリアとオスカーは何となくそれらを眺めていたら、背後から声がかかった。
「よく来た」
ぞくりとするような、美しい声が響いた。振り返るとそこに、それはそれは美しい男が立っていた。
ゆるく束ねられた紫紺色の髪に、鮮やかな赤紫色の瞳。神様がとびきり美しい夕焼け空の色彩を、切り取って与えたようだとアリアは思った。
絶世の、凄絶な、肌が粟立つ程の。
そんな表現が似合う美貌だ。
オスカーがちらと、アリアの方を見た。もしかしてこの神話の神々のごとき造形美に、挨拶の口上が飛んでしまってないか心配したのかもしれない。
確かに、物語の中でも圧倒的美形として描かれるディレイを前に、本物だ…!というミーハー心は疼いた。
しかし本当に僭越ながら言わせて貰うと、有沙の時代から今に至る今まで、断然好みはオスカーなのだ。共に過ごすようになってからは、日に日に好きになってしまって、どうしたものかと頭を抱えるくらいである。
つまりは、オスカーに至近距離で見詰められたり触れられたりしてる時より、ディレイ・ノルヴァインと向き合っている今の方が余程気楽なのだ。
アリアは大丈夫ですの意味を込めてオスカーに力強く頷き、ディレイに向き合い深々と頭を下げた。
「アリア・マクベイと申します。突然のご面会をお許し頂きましたこと、感謝申し上げます」
続けてオスカーが挨拶をして、ディレイが思いのほか気さくな口調で答える。
「ディレイ・ノルヴァインだ。かしこまる必要はない、今の私に身分は無いからな。ルースから話は聞いている」
一瞬ルースとは誰かと、アリアの頭に疑問符が浮かんだが、そういえばザルツストラーダ伯爵のファーストネームだ。
「訪問を楽しみにしていた。待ちくたびれたくらいだ、随分寄り道をしてきたんじゃないか?」
「…ええと、何か楽しみにして頂ける要素がありましたか」
困惑した顔で聞き返したアリアに、ディレイは整い過ぎて冷たく感じるその表情をふっと和らげた。
「あのルースが、変わっていて面白いと言う程の人間を、楽しみにしない訳が無いだろう」
「………ご期待に沿えるかどうか」
アリアはあの伯爵め余計なことをと思いながらもディレイの様子に戸惑っていた。物語で読んだ彼の印象とは、随分違う気がする。
(…でも、そういえば)
あの物語で描かれるディレイは全て、恋仲であるナタリアの視点によるものだった。
(逆に彼は、懐に入れていない人間には素を見せず、愛想が良いのかもしれない)
アリアは緩みそうになっていた緊張を、またしっかり張り直す。
「ザルツストラーダ卿から既に話を通して頂いているかもしれませんが、この度お伺いした理由は、この森狼の義眼作成をご依頼したく」
「ああ、聞いている。魔力侵食に侵された瞳の結晶は保管しているのだったな、であればそう難しい作業では無い。承ろう」
アリアはぱっと表情が輝かせたが、感情を思いっきり顔に出してしまったことにぎくりとし、慌てて落ち着いた表情を繕った。ディレイが面白そうにこちらを見ている視線に気づかないフリをしつつ、こほん、と咳払いをする。
「お礼はどのように返せば良いでしょうか」
「そうだな、何が良いか。ああ、心配するな。ルースの友人からふんだくるようなことはしない」
「…ええっとすみません。ザルツストラーダ卿とはまったく、友情を育んだ覚えは無く」
どうやら友達割があったようだが残念なことにそれは誤解なので、アリアは遠慮がちにしつつもハッキリ訂正する。ディレイが口元を手で抑えて、堪え兼ねたかのように笑う。
「そうか、残念だな。あいつの友人になれるくらいなら、私の友人にもなれるかと思ったんだが」
「……恐れ多いです」
アリアは乾いた笑いしか出なかった。色んな意味で気まずいディレイとのご縁は、できれば今回限りにしたいものだった。
「ははっ。気が変わったら言ってくれ。しかし礼か…」
ディレイは考えるようにして、顎に手を添える。そしてアリアを見た。まじまじとアリアを見詰めてくるその赤紫の瞳は神秘的で、すべてを見透かしそうな目だった。
「礼は、そうだな。少しばかり私の好奇心を満たしてくれればそれで良い」
「え?」
「お前も、なぜ自分がここに居るか知りたいだろう?」
返事を返すことは出来なかった。それどころでは無かったからだ。
それは不思議な光景だった。ディレイは先程から立っている場所から、一歩も動いていないのが確かに視界に映っている。
それなのに、同時に彼はいつの間にか、鼻が触れる程に近い場所に居た。目の前に夕暮れの瞳が迫る。そして
とん、と、胸の中央の一点を押されたような感覚があった。
押された衝撃で、ぐらりと体が後方に倒れていく。その間、やけに時間の進みがゆっくりと感じられた。倒れて行きながら、アリアが見たものは。
それは後ろ姿だった。茶色の髪を一つに結った、長いおさげが揺れる女の子の背中。
けれどその茶色の髪は、まるで内側から染め替えられていくように、黒く変色していった。
しっかりと留めていた筈の髪紐がぷつりと切れて床に落ち、解かれた髪がふわりと広がる。
緩やかにウェーブがかった、艷やかな長い黒髪。
そしてその目の前の人物は、慌てたようにばっと身を翻して、こちらを振り返った。
長い睫毛に縁取られた鮮やかな赤い目には、見覚えがあった。あの日、慌てて覗き込んだ床に落ちた水たまりから、私を見返してきた瞳。
『ナタリア…?』
呟いた自分の声は、水の中に居るようにくぐもっていたけれど、でもその声音は、ちゃんと耳に届いたのだ。あっ、と思った。激しい違和感と強烈な懐かしさ。この四年間、聞くことのなかった声。
それは、有沙自身の声だった。
目の前の美しい少女が、こちらに向かって叫んでいる。けれどその声は遠くて、何を言っているのかわからない。
やがて視界すらも、霧が立ち籠めるようにくぐもって遠くなり、有沙は落下して行くように何もわからなくなった。




