純白の領域
こんなに寒い国でアリアとオスカーを歩き回らせてるのに、私は寒さに大変弱くて更新が遅れに遅れすみません!
リハビリにいちゃいちゃしてるばかりの番外編書きました。ナルグからアウランまでの道中のどこかです。
「…厄介な場所に迷い込んでしまったようです」
「それなら大丈夫。俺達が出会ってから訪れた場所で、厄介じゃなかった場所の方が少ないんじゃないか?」
「悲しいことにその通りですね!」
「それにここなら、俺でも知ってる空間だ。……純白の領域、だね」
先程まで、荒れ狂う吹雪の中をアリアとオスカー、そしてウルは歩いていた筈だった。
いつもであればこういう時は、さっさとテントの中に入り吹雪が行ってしまうのをのんびり待つのだ。アリアのテントもオスカーのテントも魔術の仕掛けで地面に固定させるので、吹雪くらいで倒れてしまうような事はない。しかし今日は、そうも行かない事情があった。
視界を埋め尽くす雪片の中ではぐれないよう、二人はきつく手を繋いで歩いた。雪風からアリアをかばうように、オスカーが先頭を歩く。重い足取りで一歩、また一歩と進んでいたら、叩きつけるようだった吹雪がぴたりと止んだ。
目の前に広がるのは静かな雪原だった。木々も山並みも何もかもが消えてしまったような、どこまでもどこまでも純白が広がるその光景は、あきらかにおかしかった。おかしいとわかっているのに、その白の輝く美しさは、痛むくらいに胸に迫る。
それはディーリンジアの子供であれば誰もが、家族から用心するように教え込まれる『純白の領域』だった。
「俺は初めてだけど、祖母は一度出くわしたことがあったらしい」
「私も話には聞いていましたが、初めて遭遇しました…」
純白の領域は、移動する領域だ。ふわりと現れては、またふわりと消えて行く。滅多に出会うものではないが、昔々から確かに存在する現象なのだ。
「…純白の領域では火は使えませんが、吹雪の中に戻るよりは安全ですね。テントでしばらく休みましょう」
この空間の中では、魔術火であれそうでない火であれ、火を熾すことはおろか、火を熾す道具自体も持ち込むことすら禁忌に当たる。純白の領域に迷い込んだと気付いたなら、それらを素早く手放し、決してこの場所に火種を持ち込まないと言う意思表示をしなくてはならない。
幸い、アリアとオスカーには魔術仕掛けの格納庫がある。格納庫の空間領域は、外界に対して完全に遮蔽されているので慌てて道具を投げ出すことはせずに済んだ。
「それが良さそうだ。…あー、本当にあの穴熊野郎、しつこかった…」
オスカーが珍しく口悪くそう言って、うんと伸びをした。アリアも「まったくですね」としみじみ頷く。
先程まで、吹雪の中に麝香穴熊の気配を感じていた。
足を止めると襲いかかってくる系の魔獣だが、アリアとオスカーくらいに戦える人間からすれば、別に大した敵では無い。が、麝香穴熊は死ぬ時に悪臭を撒き散らし、その臭いをひとたび浴びてしまえば、どれだけ洗っても一週間は取れないと言う。それは嫌過ぎるので、出来るだけ戦うのではなく撒きたかったのだ。
幸運なことに純白の領域に立ち入ることが出来るのは、人間や普通の獣のような系統を持たない生き物と、そして雪の系統の魔物や魔獣、妖精や精霊たちだ。麝香穴熊は風の系統なので、この領域内には入れない。
アリアとオスカーは一息つくことにした。危険は無いはずだが特殊な空間には違いないので、離れずに同じテントに入る。雪にまみれた外套を脱ぎ、テント内に渡してあるロープにかけておく。今は乾燥の為の火の魔術を使う事ができないから自然に乾くことを待つ。
二人とも毛布をマントのように被った所で、アリアがトランクから小瓶を取り出し、中身を手のひらに乗せてオスカーに差し出したのは、明るい黄みがかったオレンジ色の、柔らかそうな葉っぱだった。
「これをどうぞ」
「これは?」
「カリアダの葉です。これを手や足先に擦り付けると温かいです」
「アリアの分は?」
「……一枚しか無いんです。さっき、吹雪から庇ってくれたオスカーの方が冷えているでしょうから、使って下さい」
「なるほど、貸して」
オスカーは素直にカリアダの葉を手に取ったかと思えば、アリアの手首までもがしりと掴み、もう片一方の手で彼女の手先にカリアダの葉を擦り付け始めた。
「ギャッ!?い、いえですからオスカー、あなたが使って下さい!」
「二人で使えば良いじゃない」
「効果が減りますから!」
「俺が一人で使える訳無いでしょ」
「せっ、せめてオスカーが先に!」
「あはは」
「聞く気皆無…!?」
オスカーはアリアの指を一本一本を丁寧に擦り上げ、アリアは堪らなかった。
両手の指全てに寧にカリアダの葉を擦りつけられた頃にはアリアはかなり熱くなっていたが、それはカリアダの葉の効果というよりは、羞恥由来のものであった。
「次は足かな」
あまりの恥ずかしさに呆然としていたアリアも、その恐ろしい言葉にハッと我に返った。猛然とオスカーからカリアダの葉を奪い取る。
「足は結構です!次はオスカーの番ですよ!!」
叫ぶようにそう言って、勢いのまま両手でガシッとオスカーの手を捕まえてから、アリアは墓穴を掘ったことに気付く。オスカーがにっこりと笑った。いつ見ても眩しいその騎士の笑顔が、今は腹黒く見える。
「アリアがしてくれるの?じゃ、お願いします」
アリアは赤い顔で何度か躊躇った後、震える手でカリアダの葉をオスカーの長い指にこすり始めた。
少なくともオスカーにされたくらいには丁寧にせねばと、恥ずかしさを押し殺してアリアが真面目にカリアダの葉を擦りつけようとしているのに、オスカーは戯れるようにアリアの手を握ってきたり、指を絡めらたりしてくるので、作業は遅々として進まず、かなりの時間がかかった。
「や、やっと終わりました…」
「もう終わり?」
「終わりです!!」
「はは。ありがとう、アリア」
アリアからぽいっと返却された手を、オスカーは閉じたり開いたりしながら感心したように言った。
「凄いな、懐炉を押し当てているみたいに手が熱くなってきた」
「便利な葉ですよね。ディーリンジアでも栽培出来たら良いんですけど」
「出来ないの?」
「気温が低くて育たないんですよ」
「そっか、残念だね。まあ暖を取る方法は色々あるから」
オスカーにそう言いながら、アリアを引っ張った。
「え?」
アリアは気付けば、ぽすんとオスカーの腕の中に収められていた。
「これでよし。ほら、ウルもおいで」
「……古典的な暖の取り方ですね」
「服も脱ぐとより効果的って聞くね」
「勘弁して下さい」
アリアの腕の中にウルが飛び込んでくる。そのアリアをオスカーがまた包むように抱きしめて、更に毛布をばさりと羽織った。
「…あったかいです」
「うん。良い感じだ」
「アォン!」
腕の中の森狼の体温は高くぽかぽかと温かく、背中にはじんわりとオスカーの温もりが伝わってくる。確かにとても心地よい温度だけれど。
「………」
耳や首にオスカーの息使いが伝わってくる。服を隔てて、鼓動の振動を感じる。アリアは頭がぐるぐるしてきた。
「………確かにあったかくて、合理的な体勢だとは思います。思いますけども!」
「ん?何かな?」
明らかに笑いを含んだ声で、オスカーが訊ねる。
「う、腕は疲れませんか?」
「腕?全然。ほら」
そう言ってオスカーは、アリアをぎゅっとした。
「わかりました!わかりましたから!!」
アリアがじたばたし、ウルが少し迷惑そうな顔をする。オスカーは笑って腕を緩めた。
「純白の領域は、小さい頃に親から口酸っぱく気を付けるように言われたな。やけに雪が美しく、辺りが静かになったように感じたら、マッチだとか火種になるものを持っていたらすぐに手放すようにって」
「未婚の若い女性が火事で死んでしまった時、もう二度と火に巻かれて苦しむことの無いように雪の精霊の花嫁になる。純白の領域は、その花嫁が通る行列なのだと言われてますよね」
「ああ、そう聞いた。…今更だけどこの話、純白の領域の中でして大丈夫?」
「火の気を持ち込む以外には、特にタブーは無いって言ってました。これは精霊の渡りとかではないそうです。もっと自然現象に近くて…強い雪の精気のような。伝承は、そうであれば良いという慰めの願いなんじゃないかなと」
聖国物語の中で、純白の領域が登場するエピソードがある。その解説の中に、そう書かれていた。だからそれが正しいことなのだろう。
アリアはそう言ってからハッとした。
「あ、その…!というのは一説で!結局の所は純白の領域が何であるかはわからないそうです。だから必ずしも伝承を否定する訳では」
耳元でオスカーが小さく笑う感覚があった。
「俺は親しい人を火事で亡くしたような経験はないよ。ただ君が慌てたように、この伝承はディーリンジアに留まらず、この大陸で広く根付いているものだから、救いにしている人もいるだろう」
「そうですね…。浅慮でした」
神の立ち位置を科学が取って代わった有沙の世界でさえ、人々は信仰を捨てることはなかった。自分だってあの死に近い日々の中、もし天国や生まれ変わりを否定されて、死んでしまえば何もかも終わりで、その向こうには何も無いのだと言われたら。
アリアは自分の軽率さと傲慢さにぞっとした。神の視点など持ちたくは無い。アリアは、この世界の一員で居たかった。オスカーと同じように。そう思っていたのに。自分はどこまで行けどもこの世界の異端なのだ。それをちゃんと、自覚しなければならないのだ。
しかしそう思った次の瞬間、緩くアリアに回されていたオスカーの腕の拘束が、再び強められた。さっき冗談でぎゅっとされた時よりも、強く。
「けど、俺にはそういう気遣いは不要だよ。というか、うん。禁止かな」
「えっ」
「旅の相棒であり、かつ婚約者である俺に、何を気遣うことがあるでしょう」
「えっと、でもこの話の流れの気遣いは、人としてのマナーでは。親しき仲にも礼儀が」
「君はその場合、どこまでも遠慮して人を遠ざけそうに思ってしまうのは、俺の気のせいかな」
オスカーのその言葉に、アリアは返事が出来なかった。
「…ねぇアリア。どうか俺に気を使って口を噤んでしまわないで欲しい。俺は君のことをもっと知りたいんだ。誰よりも君のことを知っていたいし、甘えられたい。…シオドーラよりも、ユノーグよりも」
仮の婚約ではないかと言いたいのに、冬祭りの夜にオスカーに囁かれた言葉が、言わせてくれない。
「だから話して、何でも」
「…何でも?」
「うん、何でも」
アリアは瞳を揺らした。どんな顔をすれば良いのかわからなくて、うっかりすれば泣いてしまいそうで、いろんな感情を飲み込んで微笑んだ。
「……ではひとつ。これはシオドーラから聞いたんですが、林檎酒を純白の領域で一晩寝かしすと、喉越しのキレが増すそうです」
「予想外の活用法だったよ…。ってそうじゃなくてね。……いや、そんなこともやっぱり言ってほしいか」
そう言って、オスカーはアリアの頭をぐしゃぐしゃ撫でてハハッと笑った。
「何でもいい。アリアとたくさん話したい。好きな色、好きな季節、苦手なこと、好きな食べ物」
「…オスカー、あなたの、好きな色は?」
「そうだな。この頃は茶色が好きになったよ」
鈍いアリアがきょとんとした顔をするので、オスカーは笑って彼女のおさげをひっぱる。ひっぱられた己の長い三編みを横目で見て、その色が何色か気付いたアリアは両手で顔を覆ってしまった。
「もういや。このひとなに」
「君の相棒であり君の婚約者で、自分に素直な騎士だよ」
アリアはもうぐうの音も出ず、ウルに顔をうずめた。
***
テントの中でその後もまったりしたり、アリアが赤面したりしているうちに半刻が経ち、少し外に出てみることにした。
まだ純白の領域はそこにあり、広がるのはまっさらな銀世界だ。
その静謐さはどこまでも穏やかだけれど、どこか死さえも連想させる。かつていつも傍にあったその終焉の気配に、アリアは心臓の鼓動がどくどくと早まるのを感じた。
「…アリア?」
だからオスカーに覗き込まれた時、アリアはその瞳から目が離せなくなった。
雪景色にオスカーの若葉色の瞳はとても映えた。温度の無い世界で唯一のぬくもりのようで、胸が締め付けられたのだ。
その時オスカーには、アリアが心細そうに立ち竦む子供のように見えた。すがるような眼差しをまっすぐに見つめ返して、両手で彼女の頬を包む。
「アリア」
もう一度呼びかけられて、ようやくアリアはハッとした。
「すっすみません何でも無いです!近いぃ!!」
「はは、本当だ。あっさり唇も奪えそうだな」
飛び退くようにオスカーから離れたアリアを、「冗談冗談」といってオスカーは抱き寄せる。
「銀世界も悪くないな。俺とアリア、世界に二人だけみたいだ」
その言葉に、アリアはヒッと叫び、ウルが不満そうに吠えてオスカーにじゃれついた。
「おっとごめん、お前もいたね。世界に三人だな。…あれ」
「…純白の領域が、移動を始めたようですね」
銀世界の向こうから、見慣れた景色が現れる。空は明るくなり、森の輪郭が現れる。
世界から静けさが拭い取られて、木擦れの音や鳥の囀りなど、当たり前のざわめきが帰ってきた。
「良いタイミングでしたね、吹雪は抜けていたようです」
「麝香穴熊も無事に撒いたみたいだね。純白の領域さまさまだ」
「はい。…あったかいものでも食べますか」
「賛成」
「……なので、腕を離してもらえますか」
「ええ?」
「料理の準備が出来ないでしょう!」
オスカーが笑いながら手を離した。その笑顔はアリアに、いつだって眩しい。
(…私の好きな色)
彼は茶色が好きになったと、言ってくれたけれど。
きっとその何十、何百倍も、私はその若葉色が好きだ。
それは、ぬくもりの色。凍った大地に芽吹く、命の色だ。




