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湖畔にて 2

調理器具や食器を片してテントに戻るど、食後に出した蜂蜜入りのホットミルクが効いたのか、アリアは壁にもたれて眠っていた。


そっと抱き上げれば、触れ合った部分に心地良いぬくもりを感じる。彼女をベッドに横たえて布団をかけても、ぐっすり眠り込んだままだ。よほど消耗したのだろう。


今はまだ、時間帯としては夕方だけれど、もしかしたら明日の朝まで起きないかも知れない。その時はアリアに申し訳ないけれど、大判のマットなので横で寝かせてもらおう。ひとつ季節が過ぎただけなのに、随分昔のように感じるいつぞやの様にまた、ウルに間に入ってもらって。


オスカーは振動を与えないように慎重にマットレスの端に腰掛けた。そしてアリアの寝顔を眺める。


(…昨日、アリアは少し様子がおかしかったな)


いつもであれば彼女はどんな日にでも、飽きることの無いように景色を見つめながら歩く。そのためにたまにこけることがあるくらいだ。なのに昨日は、物思いにふけるようにして口数が少なく、溜め息ばかり吐いていた。何があったのか訊けば彼女は、ザルツストラーダ伯爵の友人はきっと面倒くさいので憂鬱なのだと言っていたけれど。


「…ろくでもない噂しか無い、ザルツストラーダ伯爵を訪ねた時はあんなに平然としていたのに?」


そう呟いた時、アリアが寝返りを打ってこちらに体を向けた。すると彼女の耳元に揺れる、小さな純白の耳飾りが目に入った。彼女は普段、顔の周りに少し髪を降ろしているので、この耳飾りが目に入ることはほとんど無かった。


危ないなと一瞬思ったが、この耳飾りは汚れたり引っ掛けたりしないように、外部干渉を防ぐ魔術が仕込まれているから、ずっと付けたままで問題ないのだということを思い出した。自分とアリアの右手に光る、雪の結晶型の婚約守りと同じように。


必要性を理解していても、彼女とほかの男を繋ぐものに対して、苛立ちが込み上げるのを感じた。息をゆっくり吐いて、耳飾りを外してしまいたい衝動をいなす。


思考を元に戻す。なぜアリアはあんなにも、憂鬱そうにしていたのか。


(…随分厄介な人物だというのは、確かだが)


ディレイ・ノルヴァインについては、時折王城でも噂を耳にした。噂話に興じる趣味のないオスカーの耳にさえ入ってくるのだから、どれだけ注視されている人物かわかるものだろう。


サーメイを除けば、ディーリンジアでは比類なき魔力を誇る魔術師であること。

十代を終える頃に亡命し、現在は二十代の半ばだということ。

亡命した彼を、ディーリンジア北西部の有力者ノルヴァイン氏が養子にしたこと。


そしてこれはどうでも良いことなのだが、噂の量として一番多かったのが、彼が絶世の美形であることだ。


ノルヴァイン氏が彼に与えたアウランの入り江に立つ邸宅には、暗殺者対策として厳重な警備が敷かれていて、彼がその敷地内から出ることはほぼ無いため、亡命後にその姿を目にした人はかなり少ない。けれど彼の美貌は亡命前から隣国にまで轟き、有名な話だった。


悲劇の美貌の王子のエピソードは、王城や貴族に限らず国民に広く知られた話である。アリアも、ディレイ・ノルヴァインについて何か知っていて、それが彼女を憂鬱にさせるのだろうか。それともまた別の要因なのか。


眠っているアリアを見る。ふと、彼女は美形に弱いのかどうか少し案じてしまって、情けないことを考えてしまったと天井を仰ぐ。


「アリアのことは、もっと考えるべきことがたくさんあるのにな…」


サーメイヘルガでアリアは、その名前が自分の本当の名前では無いことを明かしてくれた。共通点と話し振りから、彼女はナタリア・リュシャンで間違いないのだろう。ただ、彼女が抱えることは、きっとそれだけでは無い。


頻繁に王城を訪れていた聖女と異なり、ナタリアは滅多に王城を訪れることは無かった。オスカーが実物のナタリアの姿を目にしたのは、四年前のあの事件で見た、彼女の後ろ姿だけ。その一回だけだ。


ただ、ナタリアの話はよく聞いた。聖女の姉がどのような人物かは、みんな気になるのだろう。聖女が第二王子との茶会で姉の話ばかりしていることと、また王室付き魔術師がナタリアの通う学院に講師として顔を出すことも度々あるので、情報には事欠かない。


聖女は王子を引かせるほどに姉の優しさ賢さを褒めちぎり、王室付き魔術師の面々は、普段は物静かで品があり淑女らしい淑女なのだが、魔術を扱う時はキリリと凛々しいのだと口を揃えて言っていた。


そんな彼女を讃える噂は、事件と共に抹消されてしまったけれど。


(淑女じゃ、無いな)


目の前のアリアを見ながら、口元に苦笑がこみ上げてくるのを感じだ。

走馬灯のように、彼女とのまだまだ短くも濃過ぎる、旅の日々を思い返す。自分の知るアリアという人物は、行動も言動も所作も、淑女と聞いて思い浮かぶイメージからは限りなく遠い。魔術を扱う時だって、凛々しいというよりは、結構豪快で大胆不敵という印象を受ける。


四年の内で性格がまるっきり変わった可能性も無くは無いだろうけれど、ほとんど四年振りに会ったというシオドーラとユノーグは、アリアに対してそんな反応はしていなかった。


彼女がナタリアで無ければ成り立たない事実と、彼女がナタリアだとすれば成り立たない事実が同時に存在する。アリアは、「ナタリアは、きっとやるべきことがあるのでしょう」と言った。少なくともアリアは、ナタリアについて良く知っている。


ナタリアは本当に四年前、聖女を殺すつもりだったのか。あの日、任務とは言えどオスカーは、ナタリア・リュシャンを殺そうとした。それは変えようのない事実だ。けれどアリアが、自分はナタリアのだと明言していない今の時点では謝ることが出来ず、そして四年前のナタリアの意図がわからない以上、どう謝れば良いのかもわからない。


こんな状態でアリアに好意を伝えたことは、自分でも相当恥知らずなことだと思う。けれどこんなにも不安定な足場で、せめて一つは確かなことを、アリアに伝えたかった。


「うむむむ…むにゃ」


アリアが言葉になっていない寝言を発する。彼女の頬に髪が一筋落ちているのに気付いて、直そうと手を伸ばしたら、その手にすりりと、頬を擦り寄せられた。頬を包むように撫でてみると、へにゃりとアリアは幸せそうな顔をした。そのほころんだ唇に触れたいという欲求を堪えて、彼女の右手を取り、婚約守りへ口付ける。


唇を離した後の手を、そのまま指を絡めて握り、彼女の寝顔を見つめた。


いつか君は、すべてを教えてくれるだろうか。


この愛しい日々を思って慟哭するような未来は、欲しくない。どうしたら、失わずに済むのだろうか。


あの日願い石に込めた願いを、もう一度、胸の中で繰り返した。

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