湖畔にて 1
ちょっと寄り道します。
アウランの少し手前の、小さな森の中の湖畔に来ている。
どんな寒い日にも凍らないこの湖には、地下からわずかに温泉が湧いている。温泉と言っても、凍らない程度に湧き出しているだけなので水を触ればかなり冷たく、お湯として浸かることは出来ない。そもそも水深がかなり深く、下手に入れば溺れるだろう。
この湖は、シリア湖と呼ばれている。シリアとはこの国の神話に登場する女神の名前だ。青緑の美しい髪を持つとされることにから、凍ることのなく一年を通して、美しく神秘的な青緑の水を湛えるこの湖を人々はそう呼ぶようになった。
この女神が司るのは狩猟なのだが、人間は何にでもこじつけるもので凍らない湖に因んで、訪れると「変わらぬ愛」が叶うと謳われる観光地である。しかし昨日、夕食の席でアリアが「アウランに行く前にシリア湖に少し寄りたい」と言った時、オスカーは彼女に限ってその謳い文句は関係ないだろうと確信していた。アリアは実質主義である。
そして今日、辿り着いたシリア湖は、どこまでも清々しいという評判と異なり、どこか不自然に静まり返り空気が重いような気がした。アリアが僅かに目を細める。
「…少し地盤整備が必要のようです」
「それは、怪物の対応ということかな」
「………はい」
しばらく押し黙ってから、アリアは困ったように返事をした。
「ユノーグが話しました?」
「ああ。君と旅を続けるなら、知っておく必要があるだろうと」
ザルツストラーダの森で彼女が怪物を消滅させる光景を見たことがある。あの日以降、アリアには聖女の力があるのだろうかと考えていたのだが、サーメイヘルガでユノーグが言うには、違うやり方らしい。
「君が土地の魔力質を変化させて、怪物を追い払うことは聞いている。可能な限り、怪物が具現化する前の土地を訪れて、そもそも怪物が現れないようにしているということも。…君がどうやってそのような場所を知っているのかは、知らされなかった」
「そう、でしたか」
「それ以上深堀りするつもりは無けれど、もうここまでは知っているから、隠そうとしないで、目の届かない場所には行かないで欲しい。一定の距離を取る必要があるなら、少し離れているから」
「わかりました…」
アリアは表情に戸惑いと、そして気のせいじゃなければ安堵を浮かべたように見えた。
そして彼女は湖畔の雪に覆われた地面に、銀色のペグのようなものを大きな正方形をかたどるように計四ヵ所に打つ。現在湖畔に人気は無いが、万が一人が通りかかった時の目眩ましになるらしい。正方形のぎりぎり内側、アリアから5メートルほど離れた場所で彼女を見守る。
しゅるり
その音は、彼女が右手首から組紐を外した音だった。あれは魔力封じの組紐なのだとユノーグに教えられた時、にわかには信じられなかった。アリアは、そう普段頻繁に魔術を使わないが、たまに小さな生活魔術を使う時、その組紐は着けたままだった。
『あれは母さん特製の、市販品なんて目じゃないくらいに強力な魔力封じなんだ。それでも溢れ出してしまう分があるくらいに、アリアの魔力量は膨大なんだ』
組紐を外したアリアは、ローブが雪に濡れることも構わず膝をつき、右手も地面に押し当てる。瞑想するようにしばらく目を瞑って、何かを小さく唱えている。
そして彼女がその目を見開いた瞬間、一瞬その落ち着いた茶色の瞳が、爛々と紅く輝いていたような気がした。目を瞠ったが、次の瞬間ぶわりと、地面から何かが放出されるような突風が起き、思わずまぶたを閉じる。
立っているのがやっとぐらいの、強い風がごうごうと自分の体にぶつかってくる感覚をしばらく覚えた後、ふっと、風は止んだ。目を開けると、とても強風が吹き荒れたようには見えない、穏やかな湖畔の景色が広がるばかり。
先程まで感じていた空気の重さは消えて、まるで待ち兼ねていたかのように、鳥が一斉にさえずる。緩やかな風が湖上に吹いて、小さくさざ波が立ち、水面がきらきらと光った。
一変した景色に唖然としたが、アリアの体がぐらりと揺れるのを見て、咄嗟に駆け寄りその体を抱き止める。
「はぁ、終わりました」
「……お疲れ様。ザルツストラーダの森の時とは、随分違った気がする」
「あの時は怪物が形を持っちゃってましたからね。今日みたいなやり方が、どちらかといえば多いです」
「消耗するのは同じようだ。…次回以降も必ず、そばに俺を置くこと」
「…はい」
事前にテントは組み立てておいた。アリアを運び込み、一度壁に寄りかからせるように彼女を座らせた後、テント内の隅に折り畳んである旅用マットレスの留め具を外す。するとばすんと、脚無しの広いベッドマットが床に広がった。保温の魔術が付与されているシーツを敷いて、アリアを寝かす。掛け布団と毛布をふわりと彼女にかけた。
ぼんやりとされるがままになっていた彼女が、ハッと我に返ったように慌てて言う。
「オスカー!あの、ここまでしなくて大丈夫ですよ?少し座っていれば…」
「駄目だ。顔、青いよ。魔力の回復には貧血の時と同じものを食べると良いんだったよね?」
「…はい。あの、それもユノーグから?」
「シオドーラさんに教えてもらった。じゃあ作ってくるから、ウル、アリアを見張ってて」
その言葉がわかったように、ウルがしゅばっと寄ってきて、頭をマットの上に乗っけてアリアをじっと見る。その視線は、アリアが無理をしたのを良く知っているようにとてもじっとりしていて、アリアは早々に降参したらしく、布団に顔を半分隠し、目を閉じた。
テントを出て、格納庫から魔術式のコンロや調理器具を取り出した。冬が深まってからは、テント内で料理することも多かったのだが、病人の横で煮炊きは避けたく、今日は外での調理になる。
貧血の人に何を食べさせれば良いかは、母親が体が弱かったこともあってよく知っている。頭の中のレパートリーと、今ある食材を照らし合わせてメニューを決める。水煮の牡蠣とたっぷりの野菜を入れたクラムチャウダーと、豆と塩漬け肉のとろみをつけた煮物をさくっと作り、テントに戻る。すると、アリアが荒んだ目でこちらを見てきた。
「あれ、眠れなかった?」
「外から良い匂いが漂ってきて眠れません…」
「はは、ごめんごめん」
ベッドで食べるのは落ち着かないとアリアが言うので、座卓を壁際に移動させる。そしてアリアを抱き上げて、壁と彼女の間にクッションを置き、背もたれにして座らせた。アリアが頬を赤らめて、目をキッとさせる。
「自分で移動くらい出来ますよ!」
「うんうん。よく食べてよく寝たら、自立移動を許可しよう」
そう答えれば、アリアは座卓に顔を伏せてしまったが、湯気を立てる料理を並べればすぐに、顔を上げて目を輝かせた。こういうところが可愛いと思う。
「召し上がれ」
「頂きます!」
待ち兼ねたようにスプーンを握ったアリアを見ながら、デザートに林檎でも剥こうかなと思った。彼女に教わった、うさぎの飾り切りをして。




