雪玉パンケーキの夜
アリアが宿に戻ると、ウルが飛びついて迎えてくれた。
「こういう時、窮屈な思いさせてごめんね…」
そう言いながらウルの顔周りをごしごしと撫でる。森狼は心地良さそうに目を閉じた。
旅をしているとどうしても、こういう風にウルを部屋に置いていかなくてはならない時がある。魔封じの腕輪と調伏の首輪を装着しているので、法律的にはどこへ連れ歩いても問題ないのだが、唯でさえ人が森狼を連れ歩くのはとても珍しく、更にその森狼は魔力変異で、それは美しいエメラルドグリーンがかった青の毛並みを持つのだから、どうしても注目を集め過ぎる。それはアリアにとっても避けたいし、ウルにとっても負担がかかるだろう。
しかし森狼であるウルにとって、壁に囲まれた建物の中に閉じ込められることも、かなりのストレスになるのではとも懸念していた。周辺の森にでもぶらぶらさせてあげたい所だが、調伏の首輪を装着させた人間には管理義務があるし、そもそもどのような危険があるかもわからない森に、ウルを放り出すつもりはない。
ウルはサーメイヘルガをかなり気に入っているようだった。無理を強いて旅に連れて行くより、ここに留まったほうが幸せなのではと思いシオドーラに少し相談をしてみたのだ。
『子供の森狼にとって、何より大切なのは庇護者と共にあることなんだよ。あんたがその分可愛がってやれば何よりもの喜びで、それ以外で多少我慢が強いられようと、そんなことは森狼には些事でしか無いのさ』
シオドーラはあっけらかんとそう言った。
『どうせ成獣になったらどこかの森に落ち着くんだ。二年なんて、あっという間だよ。今は社会経験させているとでも思っておきな』
いずれ別れる子。だから出来るだけ、情を移したくなかったのに。
「ウルにそっくりな色のティーカップを買ったんだ。いつの間にか、あなたの色を大好きになってたよ」
アリアはぎゅっとウルの首周りを抱きしめる。森狼独特の、針葉樹の森のような匂いがした。
***
自分の部屋に荷物を置いてきたオスカーも、アリアの部屋に集合した。
宿屋の主人から冬のナルグの飲食店事情を教えられていたので、可能な限り食事はあったかいものを食べたいアリアは、キッチン付きの部屋を取っていた。閑散期なのでと広い部屋を使わせてくれたので、成人二人と森狼一匹でもゆうゆうの広さである。ダイニングテーブルまであるので、食事もゆったりと出来そうだ。
一緒に作って食べるのだから片方の部屋だけキッチンがあれば良いねと話すアリアとオスカーに、宿の主人はだったら最初から二人用の部屋をひとつ取れば良いのにと内心不思議に思っていたことを二人は知らない。
雪氷鹿の塩漬け肉を塩抜きして、鍋に投入し焼色がついた所で、スパイスやワインなどを加えてソース仕立てにする。そこに市場で購入した茸と一口に切った根菜をぽんぽんと入れてじっくり煮込めば、贅沢なシチューの出来上がりだ。付け合せにマッシュポテトと薄く切ってカリカリに焼いたライ麦パンと、それに雪氷鹿料理に合うよとシオドーラから大きい瓶で渡されていた、酸味が強い雪下苺のコンポートも添える。
そして市場で買ってきた新鮮な牡蠣の殻を、オスカーがナイフでこじ開ける。するとぷっくりとした、見るからに美味しそうな身が現れた。市場の人のお薦めの食べ方で、スライスした林檎と玉ねぎのマリネを添える。
「ご馳走ですね!」
「ああ!サーメイヘルガの味とナルグの味で、贅沢だね」
シチューは一口頬張るごとに、口の中に馥郁とした森の香りがいっぱいに広がった。
牡蠣は旨味がぎゅっと詰まっていて、マリネの酸味が合わさると複雑な味わいになって、とても後を引く。
ちなみにウルのごはんは、新鮮な牛塊肉と艶々した林檎だ。いざという時用にイヌ科用固形飼料も一応常備してはいるのだが、それは本当に必要に迫られた時で、普段は新鮮なものをというのが、アリアの食育の方針である。
「デザートの分もお腹残しておいてくださいね」
「え、作ってくれるの?」
「簡単なものですが」
そう言ってアリアがトランクからひょいと取り出したものに、オスカーは目を丸くする。
「雪玉パンケーキの、フライパン?」
「当たりです!好きですか?」
「もちろん!でも食べるのは久しぶりだな。このフライパンよく持ってたね」
「…雪玉パンケーキは、ちょっと憧れの食べ物で、衝動買いしてしまいました…」
雪玉パンケーキは一口サイズの丸いパンケーキだ。最後に雪砂糖という粉砂糖に似た純白の砂糖をまぶすので、見た目が雪玉みたいだからこの名がついたらしい。ちょっとしたお祝いごとの時など良く食べる。生地には季節の果物の角切りが入り、ジャムをつけていただく。
丸く仕上げるための専用のフライパンは、ディーリンジアの家庭では必ずあるものだけれど、旅荷として持っている人間はそう居ないだろう。本当に雪玉パンケーキ専用の道具だし、旅の最中に食べるようなお菓子ではない。しかしこの世界に来たばかりのアリアは、『聖国物語』にもよく登場するディーリンジアの伝統菓子をどうしても作ってみたくて、つい買ってしまったのだ。
レシピはとてもシンプルなので、あっという間にころころとしたパンケーキは焼き上がり、部屋中に甘く香ばしい匂いが漂う。
「今日は生地には林檎を入れて、ジャムは黒すぐりです」
「初めての組合せだけど、美味しそうだ。じゃあお茶は俺が淹れるよ」
「…あのティーカップ、早速使いませんか?」
アリアがそう聞けば、オスカーが笑って頷く。
オスカーはティーカップの入った箱と、お茶の箱を取り出す。お茶はいくつかの種類を買ったのだが、その中からオスカーは、雪玉パンケーキに合うミルクティー向けの茶葉を選んだ。
深い紅色の美しいお茶をティーカップにこぽこぽと注ぐ。別に温めておいたミルクを加えて、仕上げにナルグ特産の梨のリキュールを垂らす。茶屋の主から教わったアレンジで、美味しさが一段引き上げられるし、夜に飲むと良く眠れるよとのことだ。紅茶の香りに、梨の甘い香りが入り混じってなんとも芳醇な匂いが鼻孔をくすぐる。
テーブルに、雪砂糖がまぶされて雪玉にしか見えないパンケーキが山盛りと、夕焼け色と、エメラルドグリーンがかった青いウルの色のティーカップが並べられる。二人はフォークで突き刺した雪玉パンケーキを頬張った。
「……アリア、凄く美味しい。懐かしい味だ」
「良かったです!フィリングの林檎は、市場で見付けたちょっと珍しい黄昏林檎を使ってます」
「へえ、だから少しとろっとした舌触りになるのかな。良く合うね」
「ミルクティーもとても美味しいです!」
「リキュールが効いているね。良いレシピを教えてもらった」
「何よりオスカーの淹れ方が良いんだと思います。カフィルでもお茶でも、飲み物を淹れるのは全然オスカーに敵いません…」
「そっかそっか。じゃあますます腕を磨いて、射止めておかなくちゃな」
「……うぎゅ」
オスカーがいたずらっぽく笑って、アリアが赤くなる。
アリアは三年半ほど前、立ち寄った調理用品の専門店街でこのフライパンを購入した。それから何度か旅の途中で、雪玉パンケーキを焼いた。美味しかったけれど、少しさびしい味もした。雪玉パンケーキは誰かと笑い合いながらぱくぱく食べるのが似合うお菓子なのだ。
だから今、オスカーと笑い合いながら食べる雪玉パンケーキはとても美味しくて、心まで満たされるような味だった。
ふいに、会話が途切れてオスカーが遠くを見るような眼差しをした。
「…オスカー?」
「……ナルグは子供の時から、訪れてみたかった街だったと言ったよね」
「はい。『氷河と狼』の街に似ているからと」
アリアがそう返すと、オスカーが頷く。
「ナルグが、『氷河と狼』に出てくる街にそっくりだと教えてくれたのは父なんだ」
「本も、お父様から受け継いだものと言ってましたもんね」
「ああ。父はいつか連れて行くよと約束してくれたんだけど、…叶わずじまいだったな」
「…そうでしたか」
オスカーは、幼少期に父親を、十代の初めに母親を亡くしている。
物語の中でそのことは既に乗り越えたものとして、深く描かれなかった。けれどこうして、生身のオスカーと向き合っていると、尾を引く影を感じることがある。
オスカー個人がそのことを特に引き摺っているという訳では無く、それは多分、大事な人を亡くした誰しもが抱える影なのだろう。あんなに強いシオドーラやユノーグからでさえ、その影をたまに感じることがある。
アリアは、大切な人を亡くしたことはない。断ち切られたかつての日常に置いてきたものはたくさんあるけれど、本当にそれが完全な断絶なのか未だに判断がつかないから、悲しむことも何も出来ないのだ。
「昔はうちでも雪玉パンケーキは良く作ったよ。けれど父が死んでから生活に追われるようになって、この存在自体、長く忘れていたな」
オスカーは言葉を切って、アリアの方を向いた。その表情は、影が落ちたものではなくて、ただ満ち足りたように幸せそうな微笑みで、アリアは一瞬息を止めた。
「今日も、いい日だったな。この街にアリアと来れて、良かった」
喉に熱いものがこみ上げてくるのを感じて、アリアは少し俯く。俯きながら、でもこれだけは、オスカーに返しておかなくちゃという言葉を、ぽつりぽつりと言った。
「……私も、いい日でした。今日はじめて、誰かと一緒に雪玉パンケーキを食べたんです。ひとりで食べた時より、ずっとずっと美味しくて…。……オスカー、私と一緒に居てくれて、ありがとうございます」
感謝の言葉は、何とか顔を上げて伝えることが出来た。オスカーは少しの間目を見開いて、アリアを見詰めていた。そして、静かに立ち上がる。
「…オスカー?」
アリア側の椅子は、並んで座れるベンチタイプになっている。オスカーはそこにすとんと座った。そしてふわりと、アリアを抱き締めた。
「……!」
アリアは一気に体を強張らせた。なだめるようにオスカーが、その背中をぽんぽんとたたく。
「オ、オスカー」
「少しだけ、こうさせて」
心臓がドコドコドコと太鼓のように轟くが、その静かな声の切実さに、アリアは覚悟を決めて、体の力をすっと抜きオスカーに重心を預けた。抱き締められる力が、少しだけ強くなった。
「今日の日は、忘れられないな」
「……記念にやっぱり、『呻く鍋』買っておきます?」
アリアの必死の軽口に、オスカーがくすりと笑う。オスカーはアリアに腕を回したまま、少しだけ距離を取って、彼女の瞳を覗き込んだ。
「何もいらないんだ。 君が、居てくれるなら」
アリアとオスカーがいちゃつくばかりであった箸休め的なナルグ編、終了です。




