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帰る場所と想い人

サーメイヘルガを出発する朝がやってきた。といっても相変わらず極夜の只中なので、外は真っ暗だが。


「忘れ物はないかい?」

「うん、大丈夫」

「四年前は緊張過ぎて、トランクごと置き去りにしたもんな。手と足が同時に出てたし」

「ちょっと!」


三人のやりとりを、オスカーが微笑ましそうにと笑っている。アリアは羞恥で頬を染めた後、ユノーグをじっとりした目で睨んだが彼はどこ吹く風と話を続ける。


「そんな調子だからさすがに心配でさ、お前がちゃんと一体目の怪物を追い払えるか見届けた方が良さそうだなって、キールナまで付いてったんだよな」

「……なんて?」

「あっはっは。懐かしいねぇ」


シオドーラがしみじみと頷き、アリアは両手で顔を覆ってぷるぷるしながら「嘘でしょ…」と絶望したように呟く。ユノーグがそんなアリアの頭をぽんぽんと叩く。アリアは荒んだ顔でユノーグを見上げる。


「あんなピヨピヨしてたのに、四年で立派になったもんだ。誇らしいよ」


アリアをまっすぐ見るユノーグの目は、中心が濃い群青で、外側へ向かって澄んだ藍色になる。星の光をどこかに探してしまいそうな夜明け色の瞳。


その目を見れば、ユノーグが本心から誇らしいと思ってくれているのがわかって、アリアは拗ねることを止めることにして、くすっと笑った。


「…ピヨピヨは余計でしょ」

「今もピヨピヨなとこはピヨピヨか。なあオスカー」

「ピヨピヨかはさておき、何をしでかすかわからなくて、目は離せないですね。すぐ転ぶし」

「オスカー!」


冬迎えの祭りから今日で三日。昨日と一昨日は吹雪が続いたので出発は見送り、アリアとオスカーはこの家でゆっくりと過ごした。


シオドーラ特製の雪氷鹿バター茶やオスカーのカフィルを飲みながら、お菓子をつまんで、アリアがこの四年間の旅の中で出会ったものや、オスカーと出会ってから起きたことなどたくさんの話をした。


あんなに話したのに、まだ名残惜しくて会話を続けてしまう。でもそろそろ行かないと、今日中に次の街に辿り着くことは難しいだろう。

アリアはきゅ、と手を握り締めて、シオドーラとユノーグを見据えた。


「そろそろ、行くね」

「そうかい、じゃあ、これ。アリアとオスカーの分の弁当だよ。今日のお昼にしなさい」

「保温の魔術をかけてある。今日一日は温かいままだからな」


渡されたのは、ホカホカとあたたかい包みと、布で巻かれた瓶だった。包みの方からは香ばしい匂いが漂い、鼻をくすぐる。


アリアは顔をほころばせた。


「ふふ、楽しみ」

「ありがとうございます」

「今度はもっと早く帰ってくるんだよ。二人でね」


付け足された言葉にアリアは一瞬詰まったが、オスカーがすかさず「はい」と返事をした。


シオドーラがアリアの頭をぐりぐりと撫でる。圧が強くて背が縮みそうと思いながら、その温かい温度と感触に目を閉じる。お母さんの手だ、と思った。


この四年の内に、ひとりで歩けるようになったと思っていた。けれどこの人たちの前に来ると、たちまち心はほどけて、子供に帰ってしまう。

それは情けないことのようで、うっとりとするようなことで、そんな人たちに出会えたという誇らしいことでもあった。


ぎゅっとシオドーラと抱擁を交わす。続けてユノーグとも。


「行っておいで」

「ああ、行って来い」


「…行ってきます」


***


シオドーラとユノーグとは、家の前で別れた。


村の境界まで送るという申し出を断ったのは、涙腺がかなり危ういところまで来ていて、このまま泣けばオスカーにまた、子供にやるように涙を拭かれるに違いないからである。名残惜しさよりも羞恥心を取ってしまったが、本当に致死レベルの羞恥になるので、命を守って偉いとアリアは自分を褒めた。


真っ暗闇の道をランタンで照らしながら進む。二人と一匹の足音が、さくりさくりと響く。


「素敵な家族だったね」

「…はい」


洟をすすりながらアリアは返事をした。左手は当たり前のようにオスカーに握られている。暗いからねとアリアの手を取ったが、その理屈で行くと今日一日は手を繋いだままにしておくことになってしまう。


数週間も極夜で覆われるのは、ディーリンジア内ではサーメイヘルガだけである。緯度によりディーリンジア自体、冬はかなり日照時間は短くなるのだが、それでも一日に数時間は太陽が顔を出す。サーメイヘルガだけが極端に夜に包まれるのは、土地の魔術的な要因があるそうだ。


次の街まで行けば極夜から抜けるだろうが、辿り着く頃には夜なので、ふつうに日照時間は終わっているだろう。


アリアは困った。多少の慣れはあれど、鼓動の音はいつもよりトクトクと主張していて騒がしいし、何よりも、本当は困ってないことがとても困る。分厚い革手袋を隔てられているので体温まではさすがに伝わってこないけれど、その確かな感触は、…とても、とてもほっとする。


(…オスカーは、私がナタリアであることをわかっている)


その上で彼は、アリアと婚約を交わしてくれた。それだけで信じられないことなのに、あの祭りの日、彼はアリアにしか聞こえない声で告げてくれたのだ。


それでも依然、伝えられないことがある。それはアリアの存在自体が、在り得ないものだということだ。

その事実を打ち明けた時、オスカーはどう出るのか。そもそも自分はいつか、すべて打ち明ける勇気が出てくるのだろうか。アリアは無意識の内に、オスカーの手を握り返すが抜けた。


途端にぎゅっと握られて、アリアはハッとしてオスカーを見上げる。しかしオスカーは、視線を前に向けたまま、アリアと目を合わせずに言った。


「…何を今、考えているの?」

「え、……何でも、ないですよ」


ドキリとしたが、さすがにこの話を正直には話せない。アリアはそう答えて、追求が来る前に、自分も気になっていたことをオスカーに尋ねる。


「オスカーこそ、何かあったんですか。昨日から考え事してません?」


アリアの指摘に、オスカーが目を見開く。気の所為ではなかったようだ。


「…ああ、大したことじゃないんだ。君と、彼らの出会った時の話を聞いてちょっとね」

「何かおかしいことでもありました?」


確かに昨日、アリアとシオドーラとユノーグが会った日の話が出た。彼らはちゃんと、ナタリアの件なりアリアの秘密なりは伏せて思い出話を語ってくれたのだけれど、何か問題があっただろうか。オスカーはかなり逡巡する様子を見せてから、ぽつりと溢した。


「……ユノーグが好きだった?」


アリアは危うく、つんのめって転ぶ所だったが、オスカーが危うげなくアリアを自分に引き寄せて事なきを得る。至近距離で向き合ったオスカーに、いつもならアリアは慌ててお礼を言ったり照れたりするのだが、そんな余裕も無い。むしろ前のめりになって問う。


「何を言ってるんですか?!」

「……心細い時に、彼みたいな人に出会って優しくされたら、好意を抱くのが自然かなって」


それはそうかもしれないが。確かにあの日の、ユノーグの背中のあたたかさと広さをアリアは、きっと忘れることはないと思う。


しかし重要な点が抜けているのである。第一声で「あれは虫かな」と言われて、以降甘酸っぱい気持ちになるのは中々難しいのではないだろうか。


ユノーグは頼りになって、甘えたり喧嘩したり遠慮のいらない、大切な大切な家族だ。焦がれたことは、なかった。


(……好き、か)


アリアは自分の恋の履歴を考え、頭を抱えそうになった。

何を隠そう初恋はオスカー(二次元)、そして二度目の恋はオスカー(生身)だ。見事にオスカーしか好きになっていない。羞恥で顔が熱くなるのを感じた。


それをどう受け取ったか、こちらを見たオスカーの目は暗くて、それでいてどこか、アリアを焦がすような熱を感じた。


「…それでも、アリアは俺から逃げないって言ったからね」


いつの間にかオスカーの右腕は腰に回され、左手はアリアの頬を包んでいた。アリアはぎくりとして、あまりの密着具合に意識が遠くなったが、誤解だけは解かねばと言った。


「……わ、たしは、そういう風に思うひとは、………ひ、ひとりだけです。ユノーグは、どこまでも『兄』で、そのひとりじゃないです……」


つっかえつっかえ、息も絶え絶えにそう言った。そしてオスカーの瞳を見つめる。この胸の、熱や光が伝わりますようにと。


オスカーが、その綺麗な若葉色の瞳を見開く。


冬迎えの祭りの日、オスカーが言ってくれた言葉に、アリアはどうしても返事をすることは出来ない。それなのに、誤解はされたくないという自分はとても勝手で、狡いと思う。


それでも、どうしようもなかった。別の人を好きだと、思われたくなかった。


「………」


オスカーは黙り込んで、片手で顔を覆った。


(ひ、引かれた?!)


思い余って熱っぽく彼を見つめてしまったが、恐かったかもしれない。そんなつもりは無かったが、ギラギラ血走っていたかもしれない。


「オ、オスカー」


アリアがオロオロと声をかけると、オスカーは顔から手を離した。目元が赤くなっている。アリアはきょとんとした。


「ひえっ?!」


いきなりオスカーは、かぶさるようにアリアの首元に顔をうずめた。くぐもった声で言う。


「…俺、かっこ悪いね」

「オスカーはいつもかっこいいです」


思わぬオスカーの言葉に、アリアは思考する前に反射で答えていた。三秒後くらいに思考が追い付きヒッとする。


オスカーが顔を上げた。目に、今まで見たことない光が揺らめいているように見えるのは、気のせいだろうか。その時


「アオン!」


いつまで止まってるのかと言うように、ウルが吠えた。


「ご、ごめんウル。…行きましょうか、オスカー」


アリアはこれ幸いにと、オスカーの胸板を押して距離を取ろうとする。オスカーはため息を付いて、パッと手を離してくれたのでほっとした。進行方向へくるりと体の向きを変える。


後ろから手を取られて、アリアは振り向く。アリアの手首を掴んだオスカーは、もう片方の手でアリアの手袋をスポッと脱がせた。急に外気に当てられて、ひやっとした。


「え、ちょっとオスカー、……え?!」


アリアが目を白黒させている内に、オスカーが剥き出しになったアリアの指の、婚約守りが嵌まっている場所に口付ける。


(え、えええ?!)


押し当てられた唇の感触と熱は、婚約守りとその周囲の肌に触れた。


「なっ、なっ、何を」


オスカーはすぐにアリアの手に手袋をはめ直してくれたが、その必要もないくらい雪も蒸発させてしまいそうなほど体が熱くなっている。


「これぐらい、婚約者特権で許してもらえるかな」


オスカーはけろっとした表情で言って、そのまま手を繋いで歩き出す。まだ茫然としているアリアも、引っ張られるようにして進む。


やがて鯨骨で出来た集落の門が、ランタンの明かりに照らされて浮かび上がる。家々から離れた森の脇を歩いていたため、真っ暗過ぎて意識から漏れていたが、そう言えばまだクラン・セザルの敷地内であった。

アリアは己の心を守るため、先程の自分達の姿を、もしかしたら誰かに目撃されたかもしれない可能性を意識の外に追いやる。


正門を抜けると、入ったときと同じ様にシャンと澄んだ美しい音がした。あまりに優しいその響きは、また帰っておいでと誘うような。


手袋に包まれた指にまだ、熱の残滓を感じる。心臓が痛いくらいに鳴っている。


『あんたの願いを見付けるんだよ』


シオドーラの言葉を思い返し、アリアは一度目をつむって、サクリと次の一歩を踏み出す。

そうして、二人と一匹はサーメイヘルガを後にした。

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