四年前のこと 2
「…!」
その瞬間彼女は、バッと身を翻し駆け出そうとした。ユノーグとシオドーラは同時に「あ」と呟く。直後彼女は、「ヒギャッ」と変な悲鳴を上げその場へ崩れ落ちた。足を挫いていたことを忘れて動いてしまったらしい彼女は、涙目になって足を押さえて悶絶していた。
(これが本当に、殺害未遂の逃亡犯なのか…?)
あまりに目の前の娘は間抜けな感じで、手配書に書かれた逃亡犯像とちぐはぐ過ぎて、ユノーグはしばし茫然とした。しかしまず、目の前に痛がっている人間がいるのなら、やることは一つだ。鞄から包帯と軟膏を取り出して、彼女の隣に腰を降ろす。
「ほら、薬を塗って固定するから、足から手を離せ」
娘は涙をためた赤い瞳をまん丸にして、ユノーグを見上げた。ふぅと息をついて、説明する。
「安心しろ。母さんは正義感じゃなく好奇心で動く人間だから。憲兵に引き渡すためなんてつまんないことのためにわざわざ、お前を拾ってこねぇよ」
「さすが我が息子、わかっているねぇ」
ユノーグは娘の靴を脱がせて、足首の赤黒く腫れ始めた箇所に薬を塗る。ぽかんとした表情でされるがままになっている娘の頭に、シオドーラはぽんと手を置いた。
「ごめんね。驚かせてしまったね」
「いきなり手配書を突きつけられたらびっくりするだろ」
「…私を、捕まえないんですか?」
「私達にそんな義務ないしね。ディーリンジアの国民じゃないし」
「ディーリンジアの国民じゃない…?」
彼女はユノーグとシオドーラをまじまじと見た。そしてパッと頬を紅潮させて、弾むように言った。
「もっ、もしかして、サーメイの方ですか?!」
その表情に、ユノーグは少なからず驚いた。足の痛みも忘れたように目をきらきらさせている彼女からは、人を殺そうとしたなんて殺伐さは、全く感じられない。何より、魔力の暴走を起こした直後の人間が、何かしらの対処もされずにこうも、精神も体調も安定している訳が無いのだ。
ユノーグはちらりとシオドーラを見た。シオドーラも頷いて、興味深いものを見るように彼女を見て、笑った。
「よくわかったね。あんまり目立っても面倒だから、服や髪なんかはディーリンジアに寄せてきたんだけど」
「その組紐です!」
彼女はびしりと、母さんの右手に結ばれている組紐を指差す。
「糸の色の組合せ、これはサーメイの伝統配色ですよね?! あわわ、本で読んだまんま…!」
彼女は鼻息荒く言った。犬っぽい。尻尾があればぶんぶん振っていたことだろう。虫っぽいやら犬っぽいやら忙しいやつだな、とユノーグは思った。
「うーん…。あんた、思ってた以上に面白そうだね」
その言葉に、娘は我に返ったように縮こまった。シオドーラがニタリと悪い笑みを浮かべる。殺人未遂の逃亡犯かもしれないこの少女よりよっぽど悪役感があるし、当の彼女がぶるぶる震えている始末だ。お手柔らかにしてあげなよと内心思うが、この母にはどうしたって逆らえないのでユノーグはただ見守った。
「まあ先に食事にしようかね。すっきりしてから食事にしようかと思っていたけど、あんた予想以上に訳有りそうだね。せっかくの出来たてなんだ、冷める前に頂くとしよう。…ああ、その前に」
シオドーラが思いついたように言う。
「あんたを捕まえるつもりはないこと、精霊の祝福を受ける土地、サーメイヘルガの子として誓おう」
「じゃあ俺も。お前がサーメイに危害を加えることがない限り、お前を捕まえることはない。サーメイヘルガの子として誓う」
シオドーラの宣誓に続き、ユノーグも手当の手を止めて言ったそれは、誓いを違えればサーメイとして生まれ持った精霊の祝福を失うという、サーメイの民の最上級の誓いの言葉だった。
「あんたはサーメイについて詳しそうだったから、これで安心して食事が取れるだろう?」
「………は、はい」
手当てを終えたユノーグは立ち上がり、シオドーラが買ってきたまだ温かい包みをひとつ彼女に渡して、自身も食べ始める。薄焼きの柔らかいパンに、ソースで和えたそぎ切りの羊肉と酢漬けの野菜を挟んだサンドイッチは、なかなかいい味だった。
娘はしばらくぼうっとした後、いきなりサンドイッチにかぶりついた。そして頬をいっぱいにしてもぐもぐと口を動かす。今度はリスみたいだなとユノーグが見ていたら、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「だ、大丈夫か…! どっか痛いか?」
慌ててそう問うが、彼女は首をふるふると横に振って、ぼろぼろ泣きながら再びがぶりとサンドイッチを頬張る。シオドーラが苦笑いしながら、彼女の背中を撫でた。
「気が緩んだかねぇ…。たくさんお食べ。満腹になって、疲れているんなら眠れば良いし、もし事情を話せそうなら、話すと良い。私達はサーメイだ。どれだけ不思議な話でも、決して否定しないし、力になってやれるかもしれないよ」
娘はこくこく頷いて、更に涙を溢れさせ収拾がつかず、ユノーグはためらいつつも布を取り出し、アリアの涙を拭う。
「ぶぷぷぷ…あんたのそんな姿、クラン・セザルの皆が見たら目を丸くするよ」
当時のユノーグはガキ大将の延長線上にいるような十六歳だったため、不器用な手付きで娘の涙を拭いているユノーグの姿は、シオドーラの笑いのツボに入ったらしい。しつこく笑い続けるシオドーラにユノーグは口を尖らせつつ、それでも彼女の涙を拭い続けた。
サンドイッチを食べ終わった後、彼女は気絶するように寝落ちした。ユノーグは椅子に座ったまま眠ってしまった娘を持ち上げて、寝台に乗せて布団をかける。
「はは、赤ん坊みたいだね。さて、これから仕事だけど、今日は私一人で行ってくるよ。あんたはこの子を見ていてあげな」
「わかった。……なあ母さん」
「ん?」
「この子は…、確かにナタリア・リュシャンで間違いないと思う。体から硝煙のにおいがして、手に火傷の跡がある。この火傷はたしかに、魔力の暴走が術者自身の手を焼いた跡だ」
「そうだね。後で手当しておやりよ」
「わかってる。でもこの子が本当にナタリアだとするなら…、おかしいことがたくさんあるよな?一体、何が起きているんだ」
「まあね、生きていると不思議なことがたくさんあるさ。私が帰ってきたら、色々話してもらうさ」
「…話すかな」
「聞き出すさ。…きっとこの子が抱えてる秘密は、一人で抱えるには重い」
そしてシオドーラが仕事のため出て行った。残されたユノーグは、あどけない顔で眠る彼女を眺めた。すぅすぅと寝息を立てて、本当に子供みたいだった。ユノーグは黙ってその顔を見つめた後、寝台に投げ出された手を取って軟膏を塗り始めた。
***
そしてシオドーラの帰宅後。
「き、きっと信じてもらえるはずありません」
ナタリア・リュシャンに違いないのに、ナタリア・リュシャンであるのなら明らかに様子がおかしい彼女は、すべてを説明することは躊躇した。
しかしシオドーラは宣言通り、恐るべき手練手管でとうとう彼女の秘密を詳らかにしてしまった。この母親に秘密を持つことは、不可能に近いのだと悟り、ユノーグは遠い目になった。まあそれはそれとして、彼女が語った話は、彼女が散々説明を躊躇したのも頷ける、荒唐無稽と言っても良い話だった。
この世界とはまったく異なる世界で生きていた人間だということ。
気付いたら、聖女にナイフを振りかざしたナタリア・リュシャンに自分がなっていたこと。
そしてこの世界は、自分が生きてきた世界で愛読していた物語の舞台にそっくりだということ。
その物語の中には、ナタリアもレティナも出てきて、少なくとも自分が気付いたタイミングまでは、その物語の筋書き通りに進んでいたということ。
話しながら彼女の声はどんどん小さくなって目は死んでいった。こんな話誰が信じてくれようか、自分でも信じられないわと目がひしひしと語っている。そして全て語り尽くした時、彼女は真っ白な灰のようになって力尽きていた。
シオドーラが口元に手を当てて、何か考えるようにして彼女に問う。
「もう一度、あんたの名前を言ってくれるかい?」
「アリサです。名前がアリサで、姓はカシワギです」
「その体の名を言ってくれるかい?」
「? ナタリアです。ナタリア・リュシャン…」
ユノーグはハッとした。この世界で、どのような民族も関係なく、人間であればすべての者が縛られる理、それが名前の魔術だ。目の前の娘は今、ふたつの名前を何てことも無いように言った。その瞬間、魂が削れてしまえば魔力も削れるはずなのに、ユノーグが匂いとして感知できる、彼女の魔力が薄れることがなかった。シオドーラが愉快そうに笑う。
「ふふっ。長生きはするもんだ。あんたの言葉を信じよう。
「え……え?!」
「自分が物語の登場人物とは思えないけれど、世界というのはでたらめで不思議なものだからね。あんたのことは、アリサと呼んで良いかい?」
彼女はまた目に涙を溢れさせ、絶え絶えに答える。
「あ、あの、アリサという響きは、この世界にあまり無いと思うので…。私は『アリア』と名乗ろうかと」
「……へぇ」
またしても、魔力の匂いは薄れなかった。
「名乗る名前まで決めて、アリアはこれからしたいことが決まっているのかい?」
「……旅に出るつもりです」
「それはまた、いきなり落とされた世界で大胆だね」
「怪物を消すための旅に、出ようと思うんです。物語の筋書きでは、ナタリアがナイフを振り下ろし、レティナの聖なる力を目覚めさせる筈でした。でもその前に私は逃げてしまったので……、だったら私が、責任取らないと」
「聖女の力をもたないあんたが、どうやって?」
アリアは、怪物自体ではなく土地の魔力質に働きかけるつもりでいることを説明する。
「なるほどね…。確かに怪物の成り立ちからするに、それは出来そうだ。だけれど……」
シオドーラが何か考えるように口元に手を当てている。サーメイヘルガは精霊の力に満ちた清廉な場所であり、怪物の脅威に晒されたことは無い。そのためユノーグもたいして怪物について学んだことは無かったのだが、シオドーラは今のアリアの説明だけで理解したらしい。帰ったら怪物について調べようとユノーグは決心した。
「きっと危険な旅になるよ。それでもかい?」
その問いに、アリアはこくりと頷いた。何を言われても意見を翻すことは無いだろう、強い光が目の中にあった。
「そうかい。だったらそこの我が愚息でも、旅の相棒につけてやりたいとこだが、ユノーグも立場的に、クラン・セザルをそうそう空けていられないしねぇ…」
「め、滅相もないです!」
「じゃあせめて、私達は二週間程、ここに滞在予定だ。その間あんたに、教えられることは教えておこう」
「え! で、でも」
「親切は黙って受け取っておけよ」
「…っ、ありがとうございます…!」
それからの二週間、シオドーラとユノーグは商売の仕事には交代で出掛け、残った方がアリアにこの世界の魔術の常識や、旅の中で注意しておくべき点を教えた。
この世界が描かれている物語を、読みに読み込んだと言うだけあってかなりの知識はあるようだったし、それに確かにアリアの魔力は膨大で、ナタリアとしての素養もあるため魔術を教える必要はなかったが、時々重要な常識が抜けていたりした。名前の魔術についても、彼女はそこまで重要なものだと知らなかったらしく、ふつうは名を騙れば魂が削れると聞かされ、ぎょっとしていた。
アリアは教えられたことをぐんぐんと吸収し、とても楽しそうに学んだ。あっという間に二週間が経ち、別れの時がやってきた。
旅に出るにあたって、変装も重要だった。重たく降ろした前髪に、一本に編んだ茶色のおさげ。丸い瞳も同じ茶色。髪と目の色は、間断無き注意力が必要になる変身の魔術ではなく、体に影響の出ない魔術薬の作り方を教えて、染めた。モスグリーンのローブを羽織り、改造済みの古ぼけたトランクを持つ。
「よし。どこにでもいる旅人ルックになったね。とてもとても、元エリート魔術師には見えないよ」
「うん、絶妙にださくて良いんじゃねぇの?」
「…凄くやる気が下がる言葉をありがとう」
荒んだ目をしてアリアが答える。サーメイの間では敬語という概念はなく、聞いていてまどろっこしいので外すように言ったところ、最初はぎこちなかったが、余りにぽんぽん言うシオドーラとユノーグに揉まれて、すっかりこの調子で喋るようになった。シオドーラがハハッと笑って、アリアの頭を撫でる。
「あんたは私の娘だよ。疲れたら、いつでも私達のところへ帰っておいて」
「くれぐれも無茶するなよ、妹」
この言葉が感動的な慣用句ではなく、本当に養い子の魔術が結ばされていたことをアリアが知るのはずっと先である。
「……本当に、ありがとう。シオドーラ、ユノーグ」
そう言って、アリアとは別れた。
とアリアは思っているのだろうけれど、最初の怪物討伐までシオドーラとユノーグはこっそりついていき、問題無さそうか見届けた。
***
アリアに会ったあの日のことは、今でも、記憶に鮮やかだ。
送り出してから二年が経ち三年が経ち、アリアがいつまでも帰って来ないので、もし彼女がやはり遠慮を感じてしまって、俺たちにどうしても家族として甘えられないのなら、次会った時に結婚してしまうのも一つの手かと、誰かと真剣な交際は、保険としてしないでおいた。
といっても四年の間、ただアリアを待っていた訳ではない。俺と母さんは、日々の仕事の合間合間に、アリアの謎を解き明かす鍵が無いか、調べて回った。
そしてようやく現れたアリアが連れてきたのは、旅の同行者だというオスカーで、憤死レベルのいちゃいちゃを繰り広げていた。あれで付き合っていないという。阿呆か。この二人が結婚したら、阿呆妹に加え阿呆弟も増えるということか。げんなりだが、あの男は絶対にアリアを守ってくれるだろう。
「アリアのことを、待っていたんじゃないかい?」
だから、アリアとオスカーが席を外している時に母さんに聞かれた問いに、笑って首を横に振った。
アリアは俺らを頼れずに会いに来なかったのではなく、名前の魔術の影響で、もしかしたら忘れられているかもしれないという恐怖感のせいで会いに来られなかったのだという。養い子の魔術について四年前に教えておいてやれば良かったなと少し後悔した。
だからもう大丈夫だと思う。やっと現れたアリアを抱き締めたら、彼女はいつかのように泣いた。
四年前、泣き疲れて眠ったアリアのあどけない寝顔を見た時から、俺は彼女の安心になりたいと思った。そのためには別に、一番近い相手にはならなくていい。
アリア。俺のたった一人の妹。
俺たちはいつだって、ここに居るから。お前の帰る場所で在り続けるから。
安心して、広い世界をどこまででも行けば良い。




