四年前のこと 1
「本当はお前は、アリアを待っていたんじゃなかったかい?」
シオドーラのその問いに、ユノーグは口元に笑みを浮かべた。
***
四年前、大変へんちくりんな少女に出会った日のことをユノーグは良く覚えている。
年に一度か二度、サーメイヘルガを離れて、商人だった祖父の伝手を通して商売をするために、ディーリンジア中心部を訪れる。
精霊の魔力が満ちた、心地良いサーメイヘルガを離れてわざわざ喧騒の中へ出て来るのは億劫なのだが、自治を貫く少数民族にとって、街に出てきてディーリンジアの状勢を把握しておくことも重要な仕事であった。
遅い時間まで食い込んでしまった本日分の商いがようやく片付き、王都の隣にあるリュシャン領の街にて宿を取ることにしたのだが、夜の街は不穏な物々しいさざめきに包まれていた。この国で、王家に次いで重要視される『聖女』の殺害未遂が起き、その犯人は今も逃亡中とのことだ。
夕食を食べ損ねたので、宿の部屋で携帯食の雪氷鹿の燻製とチーズをかじりながら、ユノーグが呟く。
「やれやれ、都会は物騒だなぁ」
シオドーラは息子の言葉に頷きながら、街で配っていた手配書を興味深そうに読んでいる。
「聖女殺害を謀ったのは、この領を治める公爵の娘で、聖女の実の姉なんだってさ。逃亡の際、魔力の暴走を起こして公爵城を半壊させたと」
「…公爵城って、昼間に見たあのバカでかいやつ?」
「そうそう。あれを壊したんなら、あんたと張るくらいの魔力の持ち主かもしれないね」
母の言葉に、ユノーグは複雑な気分になった。ユノーグの魔力量は、サーメイヘルガの魔術師の中でも一段飛び抜けている。そのため事故が起きぬよう、物心がついた時から生前の父やシオドーラ、エルカンが丹念に魔力のコントロール方法を教えてくれたし、万が一暴走が起きてしまった場合にもすぐに対処が出来るよう、いつも注意深く見守ってくれていた。
平均的な魔力量がディーリンジア人より格段に高く、魔術に優れたサーメイの民でも、それだけユノーグの魔力には細心の注意が必要だったのだ。もしその娘が、その素質を感知されないまま今日まで来てしまって、引き金になるようなことが起き暴走したのだろうかと考えると、その娘に同情すらしてしまう。
(魔力が暴走したまま逃げたというのなら…、その娘はもう生きてはいないだろう)
ユノーグは自分の左手の小指を見た。見た目にこそわからないが、かつてこの小指は第二関節まで欠けたことがある。コントロールを誤り、暴走した魔力に侵食され、指の先が結晶化した。母が迷うこと無く結晶部分を切断し、ユノーグを落ち着かせたのでそれ以上の浸食は起きずに済んだ。その後、エルカンがかなり特殊な魔術で、義指とでも言うのか、欠けた部分を補う人工の指を作ってくれた。神経が通っているかのように関節が動き、成長に合わせて義指自体も大きくなるという特製の品で、今日に至るまで生活にも魔術を使うのにも支障は無い。
その魔力の暴走が起きたのはユノーグが六歳の頃、父が事故で亡くなったという報せが家に届いた時のこと。
自分たちもきっと悲しみでいっぱいだったろうに、適切な処置を迅速に行なってくれた二人に、ユノーグは感謝している。いつか自分が守る側になった時は、二人のようになりたいと思う。
(…悲しいことでもあったのかな)
シオドーラはまだ手配書をふむふむと読んでいるが、ユノーグはもう眠ることにして目をつむり、少しだけ見も知らぬ逃亡犯に思いを馳せ、幸いを祈った。やがて疲労がユノーグを眠りの淵に引き込んで行く。
しかしその時ユノーグが感傷的に祈ったのは、あくまで他人事としてのこと。自分と逃亡犯である娘が関わるなど夢にも思っていなかったが、運命とは不思議なもので、それからたった数時間後、その逃亡犯の娘にユノーグとシオドーラは出会うことになる。
***
昨晩の携帯食ではやはり足りなかったようで、早くに目が覚めた親子は、早朝から開店している飯屋に出掛けることにした。そしてその道すがら、森に面した細い道で彼女に出会ったのだ。
一人の娘が道端でうずくまっていた。背後から現れたユノーグ達にはまだ気付いていない。足をどうにかしたらしく立ち上がれないようで、座り込んだままずりずりと移動しようとしている。
それはちょっと無理があるんじゃないかとユノーグはふっと笑った。そしてつい、軽口が出る。
「あれは新種の虫かな」
娘は、一瞬固まった後バッとこちらを振り向いた。彼女の鮮烈な赤い瞳に、ユノーグは思わず息を飲む。シオドーラにペシリと頭を叩かれて、「馬鹿言ってないでさっさと助けてあげなさい」と言われて、ユノーグは我に返り、少しばつが悪く「はいはい」と言いながらその娘の元へ向かい、ひょいっと背負った。
シオドーラが彼女に、送っていくから家はどこかと尋ねたが、娘はおろおろしたまま答えない。家出でもしたのだろうか、面倒な事情がありそうだなぁとユノーグが思っていると、シオドーラが面白そうに笑った。ユノーグは嫌な予感がした。
「おやおや、訳有りかい? 良いねぇ。じゃあユノーグ、そのお嬢さんを私達の宿に連れて帰ろう」
「は…?」
「朝食は包んで貰ってくるから、先に戻りなさい」
シオドーラはそう言って、呆然と佇むユノーグを置いてさくさく歩き始める。しかし途中で「あ」と声を上げ、引き返してきた。シオドーラが娘の顔に手を伸ばして何かしているようだが、ユノーグの角度からは見えない。
「よし、これで良い」
「あの…?」
娘が戸惑ったように言う。
「顔に汚れがついていたから、拭ったよ。ユノーグ、じゃあさっさと戻りな」
「…はいはい」
再びシオドーラは飯屋の方へ向かい、ユノーグは素直に宿に引き返すことにした。こういう時の母には何か言ったところで無駄である。宿の部屋に着き、娘を椅子に降ろす。そして向き合った時、ユノーグは驚いた。先程まで確かに、彼女の髪は黒く、瞳は鮮烈な赤だった。それがどちらとも、ありふれた茶色になっていた。
(さっき、母さんがしてたのはこれか…)
ちょっと顔が汚れてるくらいのことを、シオドーラが気にする訳がないのだ。
一体この娘が何だというのだろうと溜め息をついた時、ふと机の上に置かれた紙に目が入った。それは、シオドーラが昨日読んでいた手配書だ。そこには似顔絵が描かれている。端正な顔立ち。ゆるくウェーブを描く黒い髪。瞳には但し書きで「赤」と記載されていた。
ユノーグは、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。目の前の少女を見て、「君は」と言いかけた時、勢いよく扉が開いた。ぎくっとして扉の方を振り向いたが、そこに立っていたのはシオドーラだった。
「戻ったよ。少し味見をさせて貰ったんだが、あの店はなかなか味が良かった」
シオドーラは机の上に、美味しそうな匂いを漂わせる包みをどかどかと置いた。そして椅子に座っている娘にニッと笑いかけて言う。
「あんたの分もあるからね」
「あ、ありがとうございます…」
「けれどその前に一つ、あんたに聞いておこう。気になることは片付けておいた方が、食事は美味しく食べれるからね」
そう言ってシオドーラは娘にさっと近付き、彼女の額を指の関節でこつんと叩いた。途端にざぁっと、彼女の髪は黒檀のような黒に、瞳は紅玉の赤に戻る。そんな場合では無いのだが、ユノーグは母の魔術の高度さに舌を巻いた。
シオドーラは、いつの間にか持っていた手配書を彼女に突きつける。彼女の瞳が、こぼれおちそうに見開いた。
「あんた、ナタリア・リュシャンで間違いないかい?」




