母の腕力
考えてみても欲しいのだ。十一年間熱烈なファンである相手に、婚約して欲しいと言われた人間の心境を。
昏倒しなかっただけ偉いと褒めて欲しい。
アリアとて、オスカーのその言葉が求婚などではなく、婚約の魔術の作用を借りるための提案だということはもちろんわかっている。
わかっているのだが、余りに切なげに乞うようなその表情と声に、つい先程精霊に捕食されかけたことなど一気にどうでも良くなり、一瞬脳内が宇宙に繋がった気がした。
(いやいやいや、地上に戻ってきなさい私!)
オスカーと婚約。夢のような話だが、まずこの体が聖女殺害未遂の大罪人、ナタリアであることが既に大問題だし、更にそこに、ここではないどこかな人間である有沙の人格が宿っているのだ。この世の不思議が詰まったようなアリアは、一定期間の措置であろうと、決してオスカーと婚約していいような人間ではないのだ。
アリアは深呼吸をして、オスカーを見る。切れ長の瞳に見据えられ、一瞬(うっ、かっこいい…)と怯んでしまう。オスカーと旅を始めてしばらく経つが、このかっこよさにはいつまでも慣れない。それどころかどんどんかっこ良くなってる気がするは何なのだろうか。
アリアは息も絶え絶えに言った。
「オスカー、あのですね」
「うん」
「私はどこの馬の骨とも知れぬ女ですよ…」
「……」
気合が空回って妙なことを口走ってしまった。オスカーが完全に返答に悩む顔をしており居たたまれないが、こうなったらもう、このまま突き進むしか無い。アリアは重々しく頷く。
「オスカー、私はですね。まだまだあなたに言えてないことがいっぱいあります。その中にはオスカーにとって、本当に望ましくない事実だってあるかもしれません」
「……時折君が、妙に断定的に話すのは何故だろうね」
「え…?」
「俺は蹂躙の森で、君には何も訊かないと言ったのは、どんな事実を君が抱えていたとしても、それ以上に君と共に行きたいと思ったからだ」
その言葉に、アリアは息が止まりそうになった。オスカーは少し寂しそうに笑って、アリアの頬をふわりと撫でる。
「…けれど俺もまた、君に言えていないことがある。……一度戻ろうか。じきに日が沈む」
唯でさえ暗かった森が一段と闇に溶けて、輪郭が不明瞭になってきた。アリアは何も言えないまま、こくりと頷く。オスカーは当たり前のようにアリアの手を取って、歩き始めた。
***
「二人共お疲れ様!」
そう言って、帰ってきた二人の頭をシオドーラが豪快にぐしゃぐしゃと撫でた。暖炉の前で寝そべっていたウルがパッと起き上がり、尻尾をぶんぶんと回す。アリアはしゃがみこんでウルの頭や首周りを撫でて、ほっと息をついた。
「まさか、ちょっと雪氷鹿の餌やりに行ったはずが、渡りの精霊退治になるとはねぇ」
「倒したのはオスカーで、私は食われかけてただけだよ…」
遠い目でそう答えるアリアの背中を、シオドーラがパァン!と叩く。激励的な感じなのだろうが、痛い。
「立派なエサ役になったじゃないか!魔力が高い人間は、やつらにとってご馳走だからね」
アリアはますます遠い目になった。シオドーラはすっかり冷めてしまった朝食を、二人のために温め直しながら説明を続ける。
「あの精霊はね、サーメイヘルガに面する海域のとある島に生息する精霊なんだ。あれは人間は捕食対象としてしか見ない。このサーメイヘルガに於いて、人間と精霊は良き隣人だ。私達にとっても、この地に住まう精霊にとっても、あれは忌避する存在なんだよ」
アリアはそれを聞いてほっとした。ユノーグとエルカンの様子を見る限り心配無さそうだとは思っていたが、この件が、精霊の魔術を使う彼らにとって悪い影響が出ないか案じていたのだ。
「サーメイの人間はみんなあれの追っ払い方を知っているから、私達には手を出せないってわかっているんだけどね、あれは諦めが悪いんだ。いちいち祭りの時とか、浮足立って隙を見せる人間はいないか探しに来るんだよ」
「じゃあ今回も?」
「冬迎えの祭の前だったからね。注意を忘れていて悪かったね」
謝罪なのか、シオドーラはシチューを並々よそってアリアに渡してくれた。こんなことで懐柔されてなるものかと思いつつ、シオドーラのシチューは美味しいのでつい受け取ってしまう。
「あんたみたいな無防備な人間が現れたものだから、奴らは大喜びだっただろうね。けどみじん切り事件が起きたからには、他の個体もしばらくは村に近付かないだろうよ。すっきり冬迎えの祭を迎えられる。二人共ありがとうね」
アリアとオスカーはちょっと複雑な心境になりつつも、テーブルに並べられたシチューや、雪氷鹿のベーコンと楓蜜が添えられたパンケーキ、林檎の蜜煮などを見ていると、そう不機嫌な顔も出来なかった。どれもとても良い匂いを漂わせている。
「たんとおあがり。あ、そうそう」
シオドーラが何か思い出したように、喉の奥でクッと笑う。
「オスカー、エルカンに貰った組紐を引きちぎったんだって?」
「…あ」
珍しく焦ったような顔になったオスカーに、シオドーラが苦笑しながら首を振る。
「渡りの精霊を片付けてくれたから、そこは別に責めないってさ。でもこの土地で、その剣に何の封もせずに持っているのも危ないから、後で代わりの組紐を持ってきてくれるって。私は祭の準備でこれからちょっと出るから、二人は留守番してて」
そう告げて、シオドーラは家を出て行ってしまった。
「…食べましょうか」
「そうだね」
気まずさを感じながらも、食事は美味しかった。
その後しばらくしてユノーグと一緒にエルカンが現れ、新しい組紐をオスカーに渡してくれた。そこからはユノーグに言いつけられて、アリアとオスカーは祭りの準備に駆り出され忙しく過ごした。
***
就寝前、アリアはベッドに腰掛け枕を抱き締めながら、明かり取りの小さな窓から外をぼんやり眺めていた。雪がはらはらと降っている。雪片は小さくともこの密度だ。明日にはどれだけ積もっているだろう。
「おや、どうしたんだい。物憂げな乙女のように窓の外なんか見ちゃって。似合わないよ」
湯浴みを終えたシオドーラが部屋に戻ってきて、アリアを見るなりそう言うので、アリアは唇を尖らせた。
「…どうせ私に物憂げな乙女要素はゼロですよー」
「拗ねなさんな。あんたの実質主義な所は可愛いと思ってるよ。だから、婚約もさっさとしてしまえば良いのに」
「ええ?」
「どうせ枠組みを借りるだけの婚約さ。それだけでオスカーは安心するんだから、気楽にしておきなよ」
アリアはシオドーラの葡萄酒色の瞳から目を逸した。
「…シオドーラは私の事情を知ってるでしょ。きっとオスカーは、本当のことを知ったら後悔するよ」
「やれやれ、面倒くさいねぇ」
そう言ってシオドーラは立ち上がった。何だろうと見上げていると、シオドーラはアリアの方につかつかと歩いてきて、むんずと首根っこを掴んだ。
「え…え?!」
浮遊感が一瞬した後、アリアはシオドーラの小脇に抱えられていた。シオドーラが力が強いことは知っていたが、彼女はアリアよりわずかに背が低いのである。アリアは目を白黒させた。そのままシオドーラはスタスタと歩き出し、寝室から出て廊下に出る。途中、居間で水を飲んでいたユノーグにぎょっとした顔で見られた。
行き先は薄々気付いていたが、予想通り客間であった。シオドーラが扉をノックすると、返事がありオスカーが出てきた。
「はい……え?」
オスカーは目を丸くしている。無理もないだろう、ドアを開けたら仁王立ちのシオドーラと、シオドーラに捕獲された獲物のように抱えられた、半泣きのアリアである。
「オスカー、悪いね。ちょっとこのアホ娘置いていくよ」
「え…」
「アリア、話をはっきりさせるまでこっちの部屋に戻ってくるんじゃないよ」
「ちょ、ちょっとシオドーラ!」
シオドーラはよっと放るように、アリアをオスカーに渡した。オスカーは事態を飲み込めないままに、慌ててアリアを抱きとめた。
「んじゃ、おやすみ」
シオドーラはそう言って、客間のドアを閉める。
部屋には、呆然としているアリアとオスカーが残された。




