消息不明の悪女と、とある噂話
遡ること四年前、ディーリンジア王国で衝撃的な事件が起きた。
リュシャン公爵家の末娘である聖女レティナを、魔術師として将来有望視されていた姉のナタリアが殺害しようとしたのだ。すんでの所で騎士団が突入しレティナは無事だったが、ナタリアは逃亡し未だ消息不明である。
国の宝である聖女殺害を謀ったナタリアは、大罪人として捜索が続けられているが、現在のディーリンジア王国ではより切迫した問題が起き、そちらの対応に追われていた。国内の複数の地点で『怪物』が観測されたのだ。
『怪物』は、武力で討伐できる存在ではなく、聖女が持つ浄化の力でのみ消滅させることが可能である。
聖女認定時は子供で、危険な任務を賜ることはなかったレティナも、今では立派な成人だ。
怪物討伐は代々の聖女の避けられない任務であり、宿命だった。
しかし同時に、レティナ殺害を企てたナタリアは今だ逃亡中だった。四年前の事件から、警備強化のためにレティナは王城に住まいを置いている。もし逃亡中のナタリアが、今も聖女の命を、虎視眈々と狙っているのであれば、討伐の旅の最中こそが好機だろう。
事件のあったその日まで、ナタリアの魔術師としての評価は、天才とまでは言えないが努力で、手堅い実力を身に付けた秀才というものだった。
しかし、公爵家の広大な城を一瞬にして半壊させるだけの魔力量は、王城付きの魔術師にさえ類を見ないものだった。事件の日、ナタリアは騎士団が到着する前に呆気なく逃亡した。直前の暴走具合から見ると不思議なくらいに、写し身の術を用いて冷静に逃げ切ったのだ。
もしこの数年で、ナタリアがあの魔力量をコントロール出来るようになっていたとしたら、聖女の護衛をどれだけ優秀な魔術師や騎士で固めたとしても、万全の体制とはいえないだろう。ましてや怪物の討伐ともなれば、余計に隙は生まれる筈だ。
聖女が出向かなければ、怪物は倒せない。
しかしその旅の間に、聖女が殺される危険性が高い。
王家は天秤をどちらに揺らすか決めきれずにいた。
決してレティナが、心優しく人々から好かれる存在であるために、感情的に優柔不断になっている訳ではなかった。もし、怪物の被害が国を揺るがすようなものになれば、旅の途中で散るとしても、聖女に宿命を果たすよう命令を下しただろう。
しかし、怪物による取り返しのつかないような被害は、今現在発生していないのだ。
通常『怪物』は数十年に一度の周期で現れ、聖女が消滅させるまではその場に留まり、対応が遅れればその地を不毛地帯とさせる。
しかし不可解な事に、最初にディーリンジア国内で怪物の観測がされてから数年、大規模な怪物発生が観測されても、その数日以内に怪物は姿を消してしまう。
何か人為的な関与がされた様な痕跡はなく、まるで自然に怪物が立ち去ったとしか思えない消え方であった。しかし有史の中で怪物は、発生した場所で延々と毒を吐き出し続け、そこから移動するという例はなかった。
前代未聞の事態に王城の研究者達は首をかしげた。
そして同時に、怪物討伐以外にも病院の巡回や土地の浄化といった任務を担う聖女を、怪物による実際の被害が無いままに旅に送り出し、むざむざナタリアの脅威の前に晒すことは無いと思われ、聖女派遣は当面見送りとなった。
***
そんな、怪物がふつりと消えてしまったいくつかの地域では、共通して一人の人間が目撃されていた。旅の途中だという、ありふれた容姿にありふれた名前の娘。
怪物観測地区の住民に、王城から派遣された調査団は様々な聞き取りを行った。しかし住民はみな、そのやけに印象が薄い彼女のことは、提供すべき情報としては意識に上らなかった。
調査団が王都に帰還した後、そういえばあの時居合わせた娘がいたなと思い出す人がいても、何故か彼女の詳しい姿形や名前は、霞がかったように上手く思い浮かべる事が出来なかった。
だから『旅する幻の聖女』の噂話は、正式な報告には決して上がらず、市井の人々の間でのみ、ひっそりと広がっていった。