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クラン・セザルの宿にて

鯨の骨の門をくぐった瞬間、鈴や鐘も無いのに、リィン…と澄んだ音がアリアには聞こえた気がした。


辺りを見回しても誰も居ない。しかしアリアは何となく、どこかから視線を感じる気がした。


恐らくそれは気の所為ではなく、何らかの魔術によって本当に見られているのだろう。監視といえば聞こえは悪いが、外部に開放的な彼らにはそれ相応の、自衛が必要になるだろう。


そのまま進めば、やがて看板に行き当たった。


「ふむ。『客人はまず、とんがった屋根の家へ』とありますね」

「あれかな。ほかの家と随分様子が違うから、良く目立つ」


多くの家々がドーム型かつ石造りになっているのと異なり、その一軒だけは切妻屋根と板壁の、ディーリンジアの山小屋に近い様式をしていた。


扉についたベルを鳴らせば、少しの間の後に扉が開けられ、微笑みを浮かべた男性が現れた。


ディーリンジア人よりも雪焼けをした褐色の肌に、複雑に編んだ黒い髪。布地に独特の模様があり、腰帯で固定する民族衣装。


最初に出会うサーメイ人となった彼は、顔に深い皺が刻まれた老人だったが、溌剌とした第一声を上げた。


「ようこそお客人。寒かっただろう、さあさあ中に入って」


アリアとオスカーとウルは、建物の中に足を踏み入れた。宿の中では暖炉からオレンジや紫の魔法火が明々と燃えている。なるほど観光客も厭わぬ民らしく、壁にはサーメイの民族衣装や手工芸品を紹介する展示がされていた。


アリアとオスカーは、まず老人に頭を下げた。


「夜分遅くに訪ねてしまって、申し訳ありません」

「とんでもないよ。こんな季節にサーメイヘルガへ来てくれてありがとう」


そう言って彼はにっこり笑った。


「私はディディ。知っているかな、サーメイは名字を持たないから、ディディだけで終わりなんだ。覚えやすいだろう?この宿、エウペック・セザル『風の宿』を営んでいる者だ」


ディディがそう自己紹介をした所で、背後の扉がギイッと開いた。


「ディディ!何やら変な気配のする客が来たようだな!見に来てやったぞ!」

「エルカン!急にやってきて何てことを言うんだ…?!」


現れたのは、宿屋の主人と同じ模様の着物に、銀色の毛皮を鞣したものを外套のようにひっかけた男だった。


ディディと同じくらいの年齢に見え、彫刻が施された白い杖を持っているが、それは歩行を支えるためのものでは無いらしく、男は室内に入る前にその杖をベルトに引っ掛けた。


そしてズカズカと宿の中を横断し、アリア達をしげしげと覗き込んだ。オスカーが一歩前に踏み出し、アリアを隠すようにした。エルカンと呼ばれた男は面白そうに笑った。


「ほ、ほ、ほ!思った以上だ。並外れた魔力持ちのお嬢さんに、王家の騎士に、魔力変異の森狼とは。これはこれは面妖な」


アリアはぎくりとした。魔封じの腕輪で封じているにしても、おそらくサーメイヘルガで誤魔化すことは出来ないのではと覚悟はしていた。しかしオスカーの身の上までひと目で見切ったのは何故だろうか。


アリアの疑問を見通したように、エルカンが口を開く。


「その長剣だ。王族付き魔術師の魔力はくさくてかなわんからな。きゃつらの魔力が付与された道具を持つ、王の回し者はすぐわかるぞ」

「エルカン!お客人の身の上がどうであれ、ここの門は、悪意を持つ人間は通さないだろう。お前は本当に自分にとって面白そうな時ばかり首を突っ込んできて…」

「いでででで」


ディディがエルカンの耳を引っ張って叱っている。小さい子供とその親という構図ならわかるが、老人と老人でそれをやる絵面は凄まじく、アリアは慄き、オスカーは引いた。


引いているオスカーに、ディディは申し訳無さそうに侘びた。


「すまないね、こいつはこの集落の魔術師の長になるんだが、どうにも真っ当な口の効き方という物が身に付かなくてね…。魔力の匂いなんて、サーメイの中でもこいつぐらいしかわからないから、どうか気にしないでくれ」

「私だけじゃないぞ。あの夜明け色の目をした若いのも嗅ぎ分けが出来るぞ」

「じゃあお前とあいつと獣くらいだよ。ほら、客人に失礼を侘びるんだ」

「はいはいすまんすまん。ほれディディ。ついでに頼まれていたアルアカランツの実を持ってきてやったぞ。呪い抜きしたのち、月の光をたっぷり浴びせた一級品だ。交換の品を寄越せ」

「教えてやろうかエルカン。お前のそういう自己中心的で無礼な所が、クラン・セザル一の魔術師という名誉ある地位に就きながらも今日に至るまで五十年間、サッパリモテなかった所以だ」

「うっさいわ!はよう翡翠苺の酒を持ってこい」


ディディはとても嫌そうな顔をしたが、その交換の品とやらを持ってこないとエルカンを追い払えなさそうだと悟ったらしく、アリアとオスカーに「ちょっと失礼」と声をかけ、宿の奥へ引っ込んだ。


ディディを見送ったエルカンがくるりと、体を再びオスカーとアリアの方へ向けた。ひょいとエルカンが体を斜めにし、オスカーの背に庇われたアリアを覗き込む。


エルカンの瞳は金色と緑が混ざった、とても高価な宝石のような瞳で、目が合うとくらくらした。


「長生きもするものだのう。とてもとても珍しい子じゃ。名前の輪郭が幾重にも重なっておる。そのどれもが偽りでは無いが…」

「黙ってくれ」


そう言ったのはオスカーだった。エルカンはその目を、オスカーに向けた。


「…彼女が口にしないことを、俺が聞く訳にはいかないんだ。すまないが、黙ってくれ」

「ほほ、それは失礼した」


エルカンは特に気を悪くした素振りもなく、むしろ上機嫌そうだった。そこにディディが戻ってきた。


「ほら、翡翠苺の酒だ。持ってけ」

「これじゃこれじゃ。あとな、私にはもう最愛の妻がいるのだから、モテなど要らぬ」

「ワカラさんも趣味が悪いよな…」

「妻の悪口を言ったようだが、翡翠苺の酒に免じて聞かなかったことにしてやろう」

「ワカラさんの悪口を言ったんじゃない。お前の悪口を言ったんだ」


ディディは宿の外にエルカンを追い出そうと背中をぐいぐいと押す。


「ちょっと待て!そこの若いのにこれを渡さねばならぬ」


そう言ってエルカンが、ぽいっとオスカーに投げて寄越したのは、アリアの手首に結ばれた物と良く似た組紐だった。


「その剣はこの地に住まう精霊が厭うであろう。これを鞘に巻きつけておけ。魔力の匂いを封じることが出来る。そしてこのサーメイヘルガの地に立つ間は、可能な限りその鞘から、剣は抜かぬほうが良い」

「…抜くなとは言わないのか?」

「お前さんの剣は随分とまあ人を屠ってきたようだが、お前さん自体は良識というものを持っているようじゃ。そのお前さんがこの地で剣を抜くとして、それは止むに止まれぬ事情がある時であろう。そこのお嬢さんを守るためといったな」


そう言ってエルカンは器用に片目をつぶった。


「しかし、やはりこの地ではその剣を抜かぬほうが無難であろう。精霊の機嫌を損ねると厄介じゃ。そちらの短剣であれば問題は無いから、基本はそちらにしておけ」

「……ありがとう、ございます」


オスカーの言葉にエルカンは満足げに頷き、宿から出ていった。


「悪かったね。エルカンも前はもうちょっと威厳があったんだけど、子供の時から見所があった若い魔術師が、最近もしかしたらエルカンも超えるかもというくらいに育ってね、すっかり気が楽になったみたいであの調子さ」


ディディは肩をすくめて言った。


「さて、君達は今晩この宿で宿泊ということで良いかな?もし普通の家に滞在したいということであれば、いくつかの家を紹介できるけど」

「私はー」


アリアがディディに答えかけた時、バン!と背後で再び、扉が開けられた大きい音がした。またエルカンが戻って来たのかとアリアはげんなりして振り向かないでいたら、ディディが驚いたような声をあげた。


「さっきお前の話をしていたよ!噂をしていれば本人が現れるというのは本当だな。だけど扉の開閉はもっと優しくしてくれ、ユノーグ!」


ディディが呼んだその名前に、アリアの肩が跳ねた。おそるおそる振り返れば、そこに息を切らした青年が立っていた。


その青年は、背中辺りまである真っ直ぐな黒髪は、半分掬って複雑に結い上げている。彫りの深い顔立ちに、瞳は夜明けの空のような、少しだけ紫の滲む紺碧だった。年の頃はアリアと同じくらいだろう。


「ユノーグ…」


アリアの口からこぼれた声に、オスカーが目を瞠った。


「アリア…!」


ユノーグと呼ばれた青年はアリアの元へ駆け寄った。そして


「遅過ぎるだろこのアホ妹!!」

「うぐっ」


アリアが潰れたカエルのような声を出したのは、いつかの日にアリアをおぶってくれた懐かしいユノーグに、耳元で大音量で罵られ、そして次の瞬間、きつくきつく抱き締められていたからだ。












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