サーメイヘルガへ
遠く、雪がかかる山並みの向こう、月が浮かんでいる。
時折その前を過ぎる影は鳥のものだろうか。もしくは、この古き魔術師の地に住まう、太古の精霊のものだろうか。
アリアが白い息を吐きながら、その光景を前に立ち尽くしている。
オスカーはアリアの少し後ろに経ち、彼女が再び歩き出すのを待っていた。
汽水域の湖を有する街ルベリカで一晩泊まり、翌朝もろもろのの買い出しを行い、街を立ったのが一昨日のことになる。
今朝方、天気が荒れずに順調に進めば今晩にでも到着できるだろうとアリアと話していた。結果、多少の雪は降れど、歩くのに支障が無い程度だったので予定通り、サーメイヘルガの地へ辿り着いた。
今は夜七時くらいだ。とっくに陽が沈んで、辺りはとっぷりと暗い。また明日、陽が昇り始めるのは正午手前くらいになるだろう。
まだこの先一週間ほどは、このサーメイヘルガの地にも、短い時間ではあるが日照時間がある。しかしそれ以降はしばらく、完全に陽が昇らない極夜の日々が始まるのだろう。
オスカーとアリアが現在立っているのは、小高い丘の頂上だった。
視線を下にさげれば、ゆるやかにくだる丘の向こうに、ドーム状をした独特な形状の家々が、十五から二十くらい立ち並んでいた。家の壁は白く、煙出しの細い煙突と、小さな明かり取りの窓が付いている。いくつかの家には明かりが灯り、人影がちらちらと動くのが見えた。
「あの家のどれかが、アリアが出会ったサーメイの家族の家なのかな」
「そうですね…。集落としてはここで合っているはずです。クラン・セザルという集落で、サーメイの言葉で、風が帰る所という意味だそうです」
サーメイ人は明確な領地を持たず、ディーリンジア最北部から隣国クシュカ最南部に散らばっており、その一帯がサーメイヘルガと呼ばれる。その中にいくつかの集落が点在しており、この集落は、サーメイヘルガの中では一番南側に位置する集落だった。
確かにこの場所に立っていると、風を強く意識する。
木立がざわざわ、ゆさゆさと大きく揺れている。雲の流れが早く、一瞬月が陰った。月明かりが無いと辺りは途端に真っ暗になる。
オスカーは思わず一歩踏み出し、アリアの腕を掴みかけたが、またすぐに月が顔を出したので、思い留まった。
「クラン・セザルか…。確かに風が強い場所だね」
「はい。飛ばされないように、気を付けなくちゃ」
アリアが笑ってそう言って、オスカーも笑みを返した。しかしオスカーはその言葉を、余り冗談として受け取れなかった。
(…彼女は、いつ消えてしまうとも限らないような雰囲気を持っている)
キヌカで出会ったあの日から、彼女は目を離すことのできない存在だった。
アリアは、どう考えても生活魔術の範囲ではない魔術を扱い、物知りで、意志が強く、判断力もある。
旅の生活で鍛えられたものか、彼女はとてもたくましいのだけれど、いつだって危うさのようなものを抱えていた。
アリアは時に、その後姿にどうしようもない孤独を滲ませた。その時の彼女は、誰もいない、足元すら定かではない真っ暗な世界に、独り立っているように見えた。彼女が持つ秘密がそうさせるのだろうか。何も聞かないと決めたのはオスカーだけれど、その孤独を感じる度に、もどかしく思った。
アリアが集落の方を指差して、オスカーに話しかける。
「家々を囲むように木々が生えていますが、その木々の並びが一箇所、空いているのが見えますか?」
「…あれかな? 大きな白い棒のようなものが二本、立っている所。あれは、骨だろうか」
「はい。あれは鯨の顎の骨なのだそうです。あそこが集落に入るための門です。…行きましょうか」
風に足を取られないようにしながら丘を下れば、すぐに門の前に辿り着いた。
白々と光る二本の大きな骨を地面に穿ち、設えられた門は、原始的だが美しく、神々しいものに見えた。
「この門をくぐると、この集落のすべての人に、客人の訪れが報されるそうです。…なので一度門をくぐれば、引き返すことは出来ませんね…」
アリアがぼそりと言う。横目でちらと彼女を見れば、彼女は迷っているように見えた。
「もう夜だし、この辺りでテント張って村を訪ねるのは明日にしても良いけどね」
「それもそうなんですが…。ううーん」
こうやってアリアが逡巡するのは珍しかった。いつも彼女は、やるべきことがあれば、余り迷うことはなくサクサク行動していた。
彼女をこうも思い悩ませる、そのサーメイの家族というのはどんな人達なのだろう。
(そういえば彼女は、地元に良い人はいないと荒んだ目で話していたけれど、…旅の途中で出会いは無かったんだろうか)
そう考えれば、胸が酷くざわざわした。多様な魅力を持つ彼女に、行き合った誰かが惹かれることは容易いように思えた。
オスカーは、アリアの横顔を見詰めた。落ち着いた茶色の瞳に、茶色の長い一本の三編みが風にたなびく。
例えば満月の光が降り注ぐ夜。彼女の茶色の瞳が時折、ハッとするような紅玉の赤に見えるようなことがある。満月の光は、本性を露わにすると古くから言われている。
もし、オスカーが聞かされている赤い目の人間と、彼女が関係あるのならば、こんな風にのんきに、悋気を抱いている場合ではないのだけれど。
そんなことを考えていたら、やがてアリアは決意したような表情となり、こぶしをぎゅっと握った。
「やっぱり、行きましょう。サーメイの集落には、必ず一軒は宿があるそうです。毎日歩き通しでしたし、しっかりした所で体を休めましょう」
「わかった。サーメイの集落を訪れるなんて、初めてだ。少し緊張するな」
そう言うと、アリアは少し安堵したような表情を見せた。
「…私も、緊張してます」
「そっか。じゃあ、こうしておこうか」
アリアの手を握った。彼女が驚いたような顔でこちらを見るけれど、そろそろ慣れて欲しいような気もする。
けれど少し俯いて頬を染めているアリアを見ていると、不思議な満足感があった。自分の心の動きに、まずいなと少し思う。
手を繋いだまま、肩を並べて門をくぐる。とことことウルがそれに続いた。
とうとうサーメイヘルガの地に、足を踏み入れたのだ。




