追憶と海老料理
あの日のことは、もう随分昔のことのように思える。
燃える城からトンズラを果たし、公爵家の敷地内である森から抜け出た有沙は、街へと続く道に辿り着いた。
安堵のためかべしゃりと、道の真ん中で転んだ。悲しい気持ちになりながら上半身を起こすと、何故か左足首の感覚がおかしい。ずきんずきんと、脈打つような痛みを感じた。
(これはもしや、……捻挫!)
入院生活の中で捻挫などする機会はなく、物語の中でも時折見かけるその怪我に、有沙はちょっとだけ浮かれてしまった。しかし現実的な話、特にトンズラしたばかりの今の状況で、立ち上がれないのは大問題である。着の身着のまま出てきたので、治療に使えるような薬も道具も無い。
(つ、詰んだ…!)
有沙は青褪めながらも、とりあえず道の真ん中からは脱出しようと、ずりずりお尻をついたまま移動する事にした。足首はだんだん熱を持ち始め、靴の圧迫から予想するに腫れてきてもいるだろう。冷たい汗がたらりと背中を流れた、その時。
「…母さん、あれは新種の虫かな」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには有沙と同じくらいの年嵩の、つまり十六歳くらいに見える青年と、その母親と思わしき中年の女性が立っていた。
青年と目が合った有沙は、もしや『新種の虫』という大変失礼な言葉が向けられたのは自分では…と悟り愕然とする。
母親っぽい女性が青年の頭をペシリと叩いた。
「道に倒れているお嬢さんを見付けたら、馬鹿言ってないでさっさと助けなさい」
「はいはい」
彼は有沙に駆け寄ってきて、足に負担のないように助け起こしてくれた。お礼を言いかけた所で、ひょいっと背負われて驚く。
「お嬢さん、家はどこだい?その足じゃ帰れないだろうから、送っていくよ」
あわあわする有沙に、女性がそう声をかけてくれた。しかしたった今トンズラしてきたばかりの、帰る家などない有沙である。どう返事をしたものか、口ごもった。すると女性は有沙をまじまじと見て、ニヤリを笑った。
「おやおや、訳有りかい?」
そう言って、彼らは自分たちが滞在している宿に、有沙を連れて帰ってくれた。そこで色々な、話をしたのだ。
ーあの日に出来た、わたしのもうひとつの家族のことを、わたしは忘れる筈は無いけれど。
あの人達は、わたしのことを覚えてくれているのだろうか。
***
(どどどどうしたものか…!)
現在アリアは、オスカーに抱きしめられ、更に自分も勢いで、彼の背中に手を回してしまっている大変な状態である。
記憶の呼霊に告げられた言葉に、アリアも随分冷静ではなくなってしまっていたが、オスカーにすがりつきしばらく時間が経って少し落ち着いてきた所で、今度は今の状況に焦り始めた。心に滝の汗が流れる。
「オ、オスカー」
「…うん?」
(み、耳元でそんな優しい声を出さないで……!)
先程とは違う意味でぶるぶる震えそうになり、アリアはそろりと、オスカーの背中に回していた手を解く。ややあって、オスカーの腕の力も弱められた。アリアは上体を反らしてオスカーを見上げ、何とか声を絞り出す。
「お見苦しいとこをお見せしました…。もう大丈夫です」
「……本当に?」
オスカーは見極めるようにアリアを見詰めた。
背中に腕が回されたままの至近距離で見られるのは、アリアの心臓に大きな負担を強いたが、泳ぎ出しそうになる視線をどうにかオスカーに固定し、返事をする。
「はい。…オスカーのおかげで、落ち着きました。暗くなる前に、行きましょうか」
「…ああ、わかった」
オスカーの体が離れる。ひゅうひゅうと、冷たい空気が体の周りを流れた。
(…名残惜しくなんか思っていない、名残惜しくなんか思っていないぞー)
己にそう言い聞かせて、街の方角へ歩き出す。
陽が山の向こうに完全に隠れたと思った途端、ひたひたと沈むように、夕日に包まれていた景色が闇に塗り替えられて行く。
実の所、現在の時刻はまだ三時にも満たない。けれどディーリンジア北限の地を前にしたこの土地で、冬の日照時間はとても短く、夜は持て余すほどに長いのだ。
あっという間に星が瞬き始めた空を見上げ眺めていると、いつの間にか近い所にいたオスカーに、ぱっと手を取られた。
驚いてオスカーを見れば、彼は当然のような顔をしてアリアの手を握り、そのまま並んで歩き始める。
「暗い道は、危ないからね」
「こ、転びませんよ?」
「どうかなぁ」
(か、過保護…!)
どうもザルツストラーダの森の辺りから、オスカーの某かのスイッチが入ってしまったように思う。そういえば初対面の時、十五歳くらいかと思ったとオスカーに言われたことをこのタイミングで思い出してしまい、アリアはわななきを堪えた。
結局、宿に行き着くまでオスカーは手を離してくれなかった。それぞれ部屋でしばらく休んだ後、二人は夕食を取るために落ち合い、街へ出掛けた。宿の主人に聞いておいた、海老料理の美味しい食堂を訪れる。
この街が有する大きな湖は、その湖底の最深部に海の水が流れ込む汽水域となっているのだそうだ。そこに住む魚や海老なども独特の生態を持つ。通常の淡水海老より大きさは二倍もあり、また味についても、本来淡水海老の一番美味しい旬は夏だが、この湖の海老は一年を通して、通常の淡水海老の最盛期以上に美味しいのだとか。
「うぐぐぐ、幸せです…」
海老や貝の出汁で炊いたリゾットを一口頬張り、口の中に広がる幸せの味わいにアリアは悶絶した。
テーブルには様々な海老料理が並ぶ。念願だったクリームスープや、茹でたての海老の香草ソース添えはもちろん、ホワイトソースをかけて焼いたグラタンに、香辛料炒めは何とも食欲を刺激する香りを漂わせている。
オスカーはシンプルな網焼きに、塩をパラリとかけて柑橘を絞ったものが気に入ったようだ。
まるで平常運用なアリアであるが、先程まで宿の部屋にて、平静を装う涙ぐましい予行練習をウル相手に繰り広げていた。
オスカーの心の内はわからないが、彼もいつも通りの柔和な笑みを湛えて食事をしている。
一通りの食事を和やかに終えて、食後のお茶を飲んでいた所、そういえばとオスカーが言った。
「アリアはどういう切っ掛けで、サーメイと知り合ったの?」
オスカーの疑問は当然のことだった。サーメイはよそからの客人は歓迎するが、彼ら自身がサーメイヘルガを出ることはほとんど無いのだ。
「私が出会った一家は、サーメイとしては珍しいのですが、商いで王都に上京していたんです。なんでも、その一家のおじいさんは元々はサーメイヘルガに商品の仕入れに来たディーリンジアの商人だったそうで」
「へぇ。サーメイが案外鷹揚なのは知っていたけれど、結婚についても戒律は無いんだね」
「はい、珍しいことではあるそうですが。そのおじいさんの伝手を、今は娘さんが引き継いで、時折王都に出てきて手工芸品を卸に来るのだそうです。私が彼らに出会ったのはそのタイミングですね」
アリアはそう説明しながら、彼らと共に暮らした二週間余りの日々を、なぞるように思い返す。さまざまなことを教えてもらった。別れる時には、ぎゅっと抱きしめてもらった。
アリアの遠くを見詰めて思い馳せるような目の色に、オスカーが落ち着かないような表情をしていたことを、アリアは気付かなかった。
「…いつでもサーメイヘルガにおいでと言われていたのに、とうとう今に至るまで行くことは出来ませんでした」
アリアはぽつりと言った。
「…行く機会がなかったの?」
「そうでも無かったんですけどね。用事があって、案外近くまで行ったこともありましたし。……私は、怖かったんです」
「怖い?」
「私のことを、彼らは覚えているだろうかって。……一介の旅人のことなど、忘れているかもしれないなって」
そう言えば、オスカーが少し首をかしげた。
「アリアみたいな子を忘れることはそう無いと思うけどね。…今になって来ることを決めたのは何故?」
「……逃げることに、疲れてしまったのかもしれませんね」
アリアはこの四年間、怪物を追い払うという目的を立てて旅をしてきた。
それは立派なことのようで、その実、向き合わなくてはいけない物事から目を逸らす口実でもあった。
アリアはずっと逃げ続けている。捕まるつもりは無いけれど、少し、疲れたのだ。
だから、逃げているものの中から、少しでも怖くないものを選んで、サーメイヘルガを訪れる決意をした。
宿に帰り着いてオスカーと別れ、自分の部屋に戻る。ばたりと扉を閉めた音に、床に寝そべっていたウルが起き上がり、嬉しそうに寄ってきた。
アリアは床に膝をつき、ウルの首に手を回して、そのふかふかした毛皮に顔をうずめる。あたたかい。そして森狼特有の梢のようなにおいの優しさに、目をつむった。
アリアがずっと、逃げてきたもの。
記憶の呼霊に突きつけられた、自分の存在の不確かさも、確かに目を逸してきた物の内の一つではある。しかしそれは、考えた所で答えは出ないし、調べようの無いものでもあるから、ある種アリアは開き直って、意識的に目を逸している事柄だった。
だから、この四年間に本当に逃げていたものは、たったひとつと言って良い。
「レティナ…」
酷く傷付いたまま置き去りにしてしまった彼女。
どれだけ逃げて、目を塞いでも、あの子のことは間断なくこの四年間、忘れたことは無かった。




