森の中の墓標
テントで大騒ぎした日の翌日からは、ディーリンジアの初冬としては珍しく二日間の晴れが続いて、アリアとオスカーは今の内にと大急ぎで歩みを進めた。
おかげであと二、三日でサーメイヘルガ入り出来そうだった。
二日間の晴れ間の内に、地面を覆っていた雪は消えかけたけれど、おそらく次に雪が降るときは、きっとこんなものでは無いだろう。
また吹雪に見舞われない内に進むべく、アリアとオスカー、そしてウルは歩き始める。
今日は森の中を歩く。ザルツストラーダの森ほど広大な森ではなく、夕方までには抜ける予定だ。森を出ればすぐに宿場街に出るらしく、今夜は久し振りに宿に泊まる。アリアとて自分のテントで心地よく眠れるよう、いろいろ工夫はしているが、やっぱりたまにはしっかりした壁と屋根がある建物で眠りたいのだ。
また事前に調べておいた情報によると、宿場町は結構大きいらしいので、この数週間に在庫が減ってきた消耗品を買い足すことも出来るだろう。
更にその街は大きな湖を有していて、そこで取れる淡水海老が名産らしい。きっと素敵な海老料理を出す食堂もあるだろうと、アリアはうきうきとしていた。
「海老はですね、クリームスープも好きですし、茹で立てを香草ソースで頂くのも好きですし、楽しみです…!」
「サーメイヘルガまで出てしまえば、西寄りは海に面しているから海産物も豊富だろうけど、今日までずっと内陸を歩いてきたものね」
「はい。あ、でもキヌカでは、宿のご主人が湖で釣ってきた新鮮な鱒を出してくれました。あの宿のおかみさんは料理上手でした…」
「そうなんだ?俺もその宿に泊まれば良かったな」
そんなことを喋りながら、森を歩く。獣や虫達は既に冬ごもりをしているらしく、静かなものだ。針葉樹が多く繁るディーリンジアの森は、この季節でも木が裸になることはないため薄暗い。けれど旅人のために、軽く道が作られているので存外歩きやすい森だった。
木立が風に揺れる音。どこかで鳥が木の幹を叩く音。分解されつつある朽ちた葉の香り。針葉樹の幹から漂う香り。
そういったものに包まれて、森を進んで行く。
数時間歩いた頃、アリアは視界の端に違和感を覚えた。
「…オスカー、向こうに何か、白いものがあるの見えます?」
アリアが指を指した方向に、オスカーも目を向ける。確かにそこには、ぼうっと浮かび上がる白いものが点在していた。
「本当だ」
「…行ってみましょう」
「いやいや、ちょっと」
「あそこを通らないと先に進めませんし、…嫌な感じはしません」
ウルも警戒した様子はなく、オスカーも溜息をつきながら、アリアから離れないようにそちらへ近付いた。
それは朽ちかけた墓場だった。
森の中にぽっかり空いた小さな空間に、白い墓石が並んでいる。すべて古いものらしく、墓石はかなりの部分が苔で覆われていた。
「ほとんど遺跡みたいなお墓ですね…」
「この辺りに昔、集落があったんだろうか」
何となく声を忍ばせて二人がそう話していたら、しわがれた声が会話に加わった。
「さよう。昔々のことだが、確かにこの場所には村があった。廃れてもう百年となろうか、今では墓守りを残すばかり」
オスカーが咄嗟にアリアを引き寄せて、剣を構えた。
まるで地面から湧き出た様に忽然と、二人の前に黒い外套を羽織った男が現れた。
地面に引きずるような長い外套に、フードをかぶったその男は、まるで影その物ような暗さだった。
わずかにフードの下に長い白髪が見え隠れし、目元は影になって見えず、うっすら見える口元には、笑みが浮かんでいる。
「……何者だ」
触れれば切れてしまいそうな、鋭い声でオスカーが男に問うた。男は答えた。
「驚かせてすまない。我は、朽ちゆくばかりのこの墓標の墓守りである」
「…百年前に村は廃れたと言っていただろう。なぜ墓守りが残るんだ?」
警戒を解かずに剣を構えたまま、オスカーが聞き返す。アリアは、自分が引き寄せられる力がより強くなったのを感じた。墓守りを名乗る男は笑った。
「案ずることはない。我はそなたらに、指一本たりとも触れる事は出来ぬよ。…ご覧」
そう言って墓守りは、いつの間にか手にしていたランプを掲げ上げた。
森を明々と照らし出すランプの光に、男の体はうっすらと透けて、地面に落ちるはずの影が無かった。アリアは思わず呟いた。
「記憶の、呼霊…」
「ほお、そなたは我のような存在について、知っているようだ」
アリアの方へ顔を向けて、墓守りが微笑んだ。
「かつてここに、墓守りが住んでいた。小さな小屋で寝起きし、自らが墓の下に下るまで永く、この墓場と共に在った。その男をこの土地は、今だに覚えていて、時折思い出のように浮かび上がらせる。それが我だ」
ランプから光が消えて、辺りは再び薄暗くなった。しかし直前に強い光を見たせいで、先程までよりも森はくぐもって、暗く見えた。
「我は実在しないもの。しかし今ここに、こうやって現れたからには、世間話のひとつもしとうなってな」
「亡霊と喋る趣味は無いな」
「オスカー」
アリアはオスカーの袖を引いた。
確かに、記憶の呼霊が生身の人間に影響を与える事はなく、声をかけられても無視して通り過ぎてしまって構わない。けれどアリアには、それは気が引けた。かつて、旅の始まりに出会ったサーメイの家族に言われた言葉が、胸に残っている。
『それが危うく見えるものであっても、すべての出会いには意味がある。ないがしろにしては、いけないよ』
袖を引かれたオスカーは、アリアの困ったような目を見て溜息をついた。
アリアが会話を続ける意向だと見て取ったのか、墓守りはにんまり笑って口を開いた。
「この季節に森を抜け、北へ向かい、若いお二方はどこへ行くのであろう?」
「…サーメイヘルガです」
「サーメイヘルガ!そうであったか、古き魔術師の地だ。叶うならば我も訪れてみたいものだが、この身の上では難しい」
大げさに嘆くように言った後、一度墓守りは言葉を切った。そして独り言のように呟く。
「土地の記憶が薄れる、いつとも知れぬその日まで、大して面白くもない記憶しか持たぬ男の呼霊として存在するのは、中々に疲れるものだ」
やれやれと首を振った墓守りの、外套のフードがずれて、彼の目が覗いた。
アリアは息を呑んだ。墓守りの両目は、魔力変異の侵食が起き、結晶化していた。
「しかしまぁ…、永く在るならば在るなりに、面白いものに出会うこともある。その中でも、そなたはとびきり面白い」
墓守りは地面を滑るように踏み込み、一瞬でアリアと鼻が触れ合いそうな距離まで近付いた。そして彼は素早く、アリアの耳元で囁いた。
「血肉を纏うておる。しかし…、しかし」
墓守りは、口を三日月のようにして笑った。
「そなたの本性は、こちら側のものであろう」
「……ッ」
間近でアリアを覗き込む、墓守りの白く不透明な瞳の中に、一瞬有沙の姿が映ったような気がした。体が震え、喉が引き攣る。
瞬間、アリアの鎖骨のあたりにオスカーの腕が回され、墓守りから引き離された。
オスカーが酷く冷たい声で、墓守りに言った。
「急ぐ旅ですので、失礼」
墓守りはクックックと喉の奥で笑い、頷いた。
「そうか、達者でな。…この森は暗いであろう。闇に紛れて失うことのないよう、大事な者の手は、しっかり繋いで行かれるとよい」
「…ご忠告どうも。アリア、行こうか」
オスカーに手を引かれ、アリアは歩き出す。
いつもであれば彼は、自然にアリアの歩調に合わせてくれるのだけれど、今日はとても早足で、引っ張られているアリアは小走りになる。ウルもすぐ横で並走した。気遣うように、アリアをちらちらと見ている。
ぐんぐんとオスカーは進む。道が曲がる角の手前で、アリアが振り返った時、そこにはもう墓守りの姿はなく、ただ暗い森の中に並び立つ墓石が、点々と白く浮かび上がるだけだった。
それから数十分、無言で歩いただろうか。
オスカーとアリアは、森を抜けた。いつのまにか森の外では、太陽が山の影に沈み行く途中で、夕映えの中に雪がちらついていた。
ようやくオスカーが足を止めて、振り返ってアリアを見詰めた。オスカーの表情は厳しく、アリアは戸惑った。
「アリア、何を言われた?」
「…何でも、ありません」
「アリア」
もどかしいような顔をしたオスカーに促されても、アリアは何も言えなかった。ただ、手の震えが止まらなかった。
墓守りの言葉は、アリアがずっと目を逸してきたことを突き付ける言葉だった。
こちら側と、あの墓守りは言った。
……記憶の呼霊は、実在しない、亡霊に近しいものだ。
震え続けるアリアに、オスカーは逡巡するようにした後、そっと手を伸ばして、アリアを抱きしめた。
アリアは目を見開いた。その感触、その温度、鼓動から伝わる振動、耳にかかる息の熱さ。
それらは全て、確かなものだった。
アリアは堪らず、オスカーにすがりついた。彼女の震えが止まるまで、二人はきつく抱きしめ合ったまま、夕日の残照を受け立ち尽くしていた。




