吹雪の中でひと休み 2
二人と一匹は、引き続きテントの中で休憩中である。
外からビュオォォ、ビュオォォと吹雪の音が聞こえてくる。
アリアは今までだって何度も、一人でテントに籠もって嵐が収まるのをやり過ごしたことがある。膝を抱き床に座り込んで、まるで呼び声のような風の音を、いつも不安な気持ちで聞いていた。
何故この世界に存在するかわからない、自分の不安定な所在は、いつかその呼び声に誘われて、自ら嵐の中へ飛び込み、飲まれてしまうように感じた。
けれど今は、そんな不安が忍び寄る隙は、心にひとかけらも無かった。
あたたかいテントの中で旅の相棒と共に、湯気の立つカフィルを啜り、甘いキャラメルを頬張り、取り留めもないことを話している。
逃げようとしていた人から、手放そうとしていた子から、こんなに安らぎを感じてしまって良いのだろうかという懸念もよぎる。けれど今だけは、しばらくこのままで良いかと思った。どうせ吹雪の間は、どこへだって行けやしないのだ。
ふとアリアは壁際に、そう大きくはないけれど本がみっしり詰まった棚が設置されていることに気付き、顔を輝かせた。
オスカーは急に満面の笑顔になったアリアの視線の先を辿り、ああと頷く。
「ここに置いてある本は、すべて父から継いだものだから古いけれど、もし気になる本があったら読んでくれて良いよ」
「ありがとうございます!」
オスカーの申し出にアリアは大喜びでお礼を言って、ひゅんっと本棚の前に移動しへばりつくようにして、本の背表紙をしげしげと眺めた。その様子をオスカーが微笑まし気に見ていた。
「アリアは本が好きなんだね」
「大好きです!一番好きなのは物語ですが、実用書でも図鑑でも何でも読みます」
店に並ぶのは、冒険物語、ディーリンジアに伝わる神話、植物図鑑などなど。それに、手書きで『レシピ集』と書かれた古いノートがある。これもお父さんから継いだものであれば、オスカーの料理上手は父親譲りなのかもしれない。
本棚の本はみんな年季が入っているけれど、埃っぽくは全然無くて、オスカーもこれらの本を開く時があるのだろうか。
「『氷河と狼』だ…!」
アリアはある一冊に目を止めて、感嘆の声を上げた。
ディーリンジアの子供であれば誰もが読んだことがあるというその本は、アリアが有沙であった頃から知っていた一冊だった。
『聖国物語』の中でも度々登場し、読んでみたいというファンの声に応えて実際に出版されたのだ。珍しく我儘を言って、両親に発売日に買ってきてもらったその本を抱きしめた時、物語の一端に手で触れられたようで、有沙はとても嬉しかった。
その本の実物が、今目の前にある。もちろん日本語では無い、ディーリンジアの言葉で記されたその本を、アリアは宝物を扱うようにそっと本棚から引き出し、表紙を見詰めた。たくさんの補修の跡から、その本がどれだけ読み込まれてきたか伺えて愛しく感じた。
「俺もその本は随分読んだな。ボロボロでごめん」
後ろからオスカーがそう声をかける。アリアは『氷河と狼』の表紙から目が離せないまま、ぶんぶん首を横に振る。
「読み込まれてくたびれた本って、愛着が感じられて大好きなんですよ。オスカーもこの本、好きなんですね」
「アリアも読んだかい?」
「読みました!何回読んだかわかりません!あ、でも『・・・』の次にですが」
「え。ごめん、聞き取れなかった。もう一度言ってくれる?」
そう聞き返されて、アリアは自分の失言に気付いた。
「…凄く好きだった本があるんです。その本の次に、『氷河と狼』はよく読みました」
「そうなんだ。俺が知っている本かな。何ていうタイトル?」
「…いえ、本当にマイナーな本で、知られてないはずです。…私も諸事情で、手放してしまいましたし」
先程までの快活な口調と打って変わって、もごもごと話すアリアに、オスカーは首をかしげる。
「君にとって今も大切な本なら、ディーリンジア東部の方になるけれど、古書の専門街があるよ。もしかしたらそこで見つかるかもしれない」
「いえ…、絶対に、無いんです」
アリアの言葉に、オスカーは少し目を瞠った。アリアはこの騎士に、出来るだけ嘘をつきたくなかった。嘘にならない表現を探しながら、ゆっくりと話を続ける。
「昔の私は、あまり体が丈夫じゃなくて、少し外に出ることすら難しかったです。その本を読む時だけ、心の中で自由に旅が出来ました。でも今は元気になって、本当に旅が出来るようになりました。だから、……今は、あの本は要らないんです」
言い終えて、見上げたオスカーの表情はただ静かだった。彼はただアリアをまっすぐ見詰め返して、深追いすることもなく一言だけ返事をした。
「…そっか」
「…はい。けれどいつだって本との出会いは募集中ですので、まずはこの本棚をじっくり見せて貰います!」
ビシッと言えば、彼は笑った。アリアは視線を再び本棚に戻す。少々強引に話を終えた自覚はあるけれど、とりあえず着地はした。アリアはこっそり息をついた。その時、
「『氷河と狼』が好きなら、この辺りも冒険ものだからどうかな」
すぐ耳元でオスカーの声がした。いつの間にか立ち上がっていたのか、背後にオスカーが立っていた。少し身じろぎすれば触れる距離だ。彼はアリア越しに、本棚に手を伸ばした。
(ち、近い…!!)
「『湖上の篝火』は読んだ事がある? 」
「…な、ないです」
なんとか応答をしながらも、背後から至近距離で喋られると、オスカーの吐息がアリアの耳元や首筋に触れてぞわぞわとした。
一体何の拷問であろうか。
「『氷河と狼』と同じ作者の本だよ」
「! 本当ですか?!」
戸惑いも一瞬忘れて、興奮のあまりついアリアは振り返ってしまい、そして息が止まりそうになった。
本棚の本と視線を合わせるために少しかがんでいたオスカーの顔が、すぐ近くにあった。オスカーも目を瞠ったように見えた。
澄んだ緑の瞳を縁取る、銀色の睫毛の一本一本まで数えられる距離で、お互い動けず何も喋れず、十秒くらい、その体勢で固まっただろうか。
ようやくオスカーが何か言おうと口を開きかけたその時、
「アォン!」
仲間はずれはずるいと思ったのか、ウルがアリアとオスカーの足に思い切り飛び付いた。子供といえど、ウルの図体は成体のものとそう変わらない。そして二人は完全に、周囲に注意を払っていなかった。その結果。
「ひぎあ!」
間抜けな叫び声はアリアである。二人してひっくり返り、テント内にドサドサと剣呑な音が響いた。
足を掬われた瞬間思わず目をつむったアリアだったが、思ったような衝撃は訪れず、おそるおそる目を開ける。
恐ろしいことに、アリアがオスカーを押し倒しているような体勢になっていた。直前、アリアは腕を引き寄せられたような感覚があったので、おそらくオスカーがアリアをかばって下敷きになったと思われる。
(………)
重なった部分からオスカーの鼓動まで感じ取れてしまい、アリアの心はもはや無であった。
「…アリア、大丈夫?」
その声に我に返り、アリアはがばっと起き上がる。
「だ、大丈夫です!そしてそれは、私のセリフです!すみません、庇ってくれたんですね」
「いやむしろ俺が、注意できていなかった。転ばせてしまってごめん」
「何言ってるんです…。背中とか打ってません?」
アリアはオスカーに乗っかったまま、オスカーの体がどうもなっていないかとおろおろと動いて、彼の背中や首を覗き込もうとした。
「……っ、アリア!」
「はいっ。痛い所ありました?!」
「そうじゃなく…!…それは大丈夫なんだけど、一度俺から降りようか…」
「っすみません!」
アリアは慌てて飛び退いた。
オスカーはとても真顔で、何やら青いような赤いような、妙な顔色をしていた。
アリアは慄いた。やはりどこか痛めたのだろうか。体が資本の騎士に、自分は何てことをしてしまったのか。思わずアリアは呟いた。
「責任取ります…」
「……!?」
オスカーが驚愕したような顔でこちらを見るので、アリアは涙目になりつつも、案ずるなという意思を込めて力強く頷く。
「調薬は得意なんですよ!必ず治してみせますから、さあオスカー、どこを怪我したんですか!見せてください!」
鬼気迫る表情のアリアに迫られ、脱がされそうになったオスカーは、本当に怪我はしていないようだとアリアに伝わるまで、テントを逃げ回る羽目になった。
***
吹雪が止んで、しばしのひと休みを終えてテントから出てきた二人は、逆に疲れ切っていた。




