見透かす瞳
赤紫の虹彩が僅かに滲む、立ち籠める霧の様な不思議な灰色の目。
何もかも見透かしてしまいそうな、その目に捕えられて、アリアの心に生じた奇妙な感情を、何と言い表せば良いだろう。
それはもしかしたら、安堵だったかもしれない。
偽りの名を騙り忘れられて行く日々は、アリアの魂を削る事は無かったとしても、いつのまにか心を擦り減らしていた。
(…けれど、ああ。本当に打ち明けたいのは…)
若葉のような緑の、優しくて鋭い瞳が脳裏をよぎる。アリアは苦い笑みを浮かべた。
沈黙が落ちた部屋で、伯爵は表情をふっと和らげて言った。
「話が終わる迄はと思って、オスカーの部屋は外から閉めてあるから、うっかり起きてきた彼が立ち聞きしてしまうことは無いよ」
「それは…大丈夫でしょうか?」
「扉の鍵は魔術仕掛けだから、物理じゃ開かないよ」
そういう事ではなく、とアリアは思った。しかしそれを口に出す前に、伯爵が口にした言葉に目が丸くなる。
「…心配しなくて良いよ。僕はこの件、王城に連絡するつもりは全くないからね。僕が動くのは、僕の興味を満たすものについてのみだよ。君には会ってみたかったけれど、捕まえるためじゃない」
彼は悪戯っぽくにっこり笑った。
「だから、君を誘い出せるかなと仕掛けていたことがあったんだけど、オスカーの話を聞く限り、君がここを訪れたのは全く別の理由なんだね」
「…仕掛け、ですか?」
(一体この伯爵は、何を言い出すんだろう…?)アリアは背中に、冷たい汗が流れるのを感じた。
「昔、僕は怪物の出現率が高い土地の魔力質について調べたことがあった。確かにその時、土地の魔力質を変質させる事が可能であれば、怪物を追い払えるかもしれないと思った。ただその思いつきは、余りに現実的ではなかった」
伯爵はすらりとした指を二本立てた。
「実現が難しい点は二点ある。まずは、土地を変質させるには、大概の生物が持ち得ない程の、膨大な魔力量が要ること。二つ目は、魔力が膨大であれば膨大であるほど、土地を僅かに変質させるような、繊細な制御は難しいこと」
暴走した魔力変異の生き物が、その土地の魔術質を変えてしまう事は稀にある。しかしその変質は汚染と言っても良いもので、土地のバランスを崩し、生態系を壊してしまう。最悪、キヌカ本来の物語のように、怪物を呼び込み不毛の土地が生まれるのだ。
「怪物を追い払えるなら、多少生態系なぞ壊れたって構やしない国は、いくらでも在るだろうね。魔力変異の生物を無理矢理生み出そうとする、愚かな研究だって横行するかも知れない。だから僕は、この研究を世に出さない事に決めた」
静かな部屋で、伯爵が言葉を切ってしまえば、聞こえるのは暖炉で火が燃えるジリジリという音だけだった。
「喉が乾いてきちゃったね」
ウィンスがテーブルに置いていった二つのポットを取り上げて、伯爵がアリアに尋ねる。
「日向香菊のお茶と、マルル草のお茶、どっちが良い?」
「…日向香菊を。あ、私が淹れますよ」
「良いから良いから。アリアは、日向香菊が好きなのかい?」
「いえ、マルル草のお茶は飲んだことありますが、日向香菊は無いです」
「君は初挑戦のものを選ぶタイプかぁ。良いね、冒険者の質だ」
こぽこぽと湯気の立つお茶がカップに注がれて、香り高い日向香菊のにおいが室内を漂う。あたたかなお茶を一口飲めば、芳醇な香りと、ほんのりとした甘みとほろ苦さが口の中に広がった。
「このお茶の中には、ちょっと口の滑りが良くなる薬が」
「…!!」
「入っていないから安心して。ほら、クッキーもどうぞ」
完全にからかわれており、アリアは伯爵をじとっと睨むが、彼はどこ吹く風である。そしてアリアも食欲については意地をはらないタイプなので、クッキーに遠慮なく手を伸ばした。バターたっぷりのサクッサクの美味しさで、悔しい。シンプルなバタークッキーは、日向香菊のお茶に良く合っていた。
「このお茶は、日向香菊が名産のディーリンジア北東部に住む友人が、手土産に持って来てくれたんだ。元々は学生時代の後輩で、留学生だった彼は学生生活を終えた後、国に帰ったんだけども」
伯爵はまたお茶を一口飲み、味わうように目をつむった。そして世間話の調子のまま、とんでもないことを話し始める。
「彼はその国で殺されかけて、ディーリンジアに亡命してきた。もう五年も前になるかな。彼の故郷、オルグスブーケは多民族国家でね。彼のような少数民族は、長年迫害を受けてきた。一族はみんな殺されて、彼が唯一の生き残りになってしまったんだ」
もしかしたらその人のことをアリアは、『聖国物語』の中でだが知っているかもしれない。しかしこの話を、伯爵はお茶の間の世間話として話しているのか、何か意図があって話しているのかわからず戸惑った。
「失われた一族は魔力がとても高いことで有名だった。生き残った彼は、そんな一族の中でも圧倒的な魔力を保有していて、彼が前線に出ていれば戦況は変わったのかも知れない。けれど彼は一族の王子として、次代へ繋がる一縷の望みとして逃された」
(やっぱり、あの人のことだ…)
『聖国物語』の中で、ナタリアが最初に知り合ったのは、その滅びた一族の王子の方だった。
ナタリアが魔力変異による侵食で死にかけた際に通りかかったのがその人だった。彼が魔力変異の対処方法を知っていたのは、学生時代に、まさに目の前のルース・ザルツストラーダから教わっていたからだ。
そしてナタリアはその人を介して、蹂躙の森の存在と、その森に住む変人伯爵について知ることになる。
「で、まあ以来彼とは、お互い一族の生き残り同士ということで、たまに連絡を取り合う友達なんだけどね」
そんなに軽くまとめて良い同士なのだろうかとアリアは内心思いつつ、それでもまだ、伯爵が彼について今話す理由は分からなかった。
じりじりしていた直後、ナタリアの名前が再び出てアリアはビクッとなった。
「四年前、膨大な魔力が覚醒したナタリア・リュシャンが逃亡して以降、怪物が聖女なしに消える現象が続いた。僕はもしやと思って、その現象が起きた土地を訪れた。ギルロア、エンリ、キアラ…」
覚えのある地名に、アリアはまざまざとその土地であったことを思い出した。四年はあっという間だったけれど、それだけの歳月は確かに、アリアに様々な経験を与えた。
「その土地のいくつかは、学生時代に僕が調査した場所でもあったから、以前と現在の比較が出来たのは幸運だったね。比べてみた結果としては、かつて僕が調べた当時と現在とでは、魔力質に微量な違いが計測された」
当時の興奮を思い出したように、伯爵の目はきらきらしていく。アリアの目は死んでいく。
「僕はこれは再現して検証しなきゃと思って、彼なら出来るかもなと思ってうちの領地に招いて実験してみた。さすがに蹂躙の森自体で行うのはリスクがあるから、その外周のザルツストラーダの森でだけれど。結果は大成功だったよ」
軽い説明にアリアは頭が痛くなってきた。天才というのは嫌である。土地の魔力質を変化させることで、怪物が凝ることを阻止出来るという事実は、『聖国物語』終盤で明かされる秘密だった。アリアはそれを知っていただけだが、ルースは以前から仮説として立てていて、更にいくつかのアリアの行動をヒントにして、あっさり証明してしまったのか。
「で、僕は更によからぬ事を思いついたんだよね。土地の魔力質を変化させて怪物が凝る条件を崩すことが可能ならば、その逆も可能じゃないかなって」
そう、土地の魔力質が怪物の出現に関係があるのならば、その魔力質に人間が干渉出来るという事実は、悪用すれば恐ろしいことになる。アリアは伯爵の言葉の続きを待った。
「そしてもうひとつ思いついたんだ。僕は怪物が消えた土地について、現存する全ての文献をあたってみたけれど、いくつかの土地は怪物が出現した記録は無かった。だからね、もしかしたら僕と違ってナタリアは、過去の記録を参照するのではなく、何か別の方法で怪物が出現する土地がわかるのかもと。であれば、この地にも怪物が出現すれば、君は訪れてくれるかもと」
「……危険な思考過ぎません?」
「よからぬ事って言ったでしょ?」
アリアはテーブルに突っ伏したくなった。伯爵の変人具合と天才具合を甘く見ていたらしい。
この森に来た本題は別にあるのに、そこに辿り着く前に大変な惨状になってしまっている。
「まあ怪物の話はこれくらいにしておこうかな。次は君のことについて話そう」
より危険な話題が始まってしまった。
「この髪と目は染色薬で染めているのかな? ナタリア・リュシャンの髪と目は、美しい黒檀とルビーの色だと聞く。勿体ないね」
そう言って伯爵はアリアの一つに編んだおさげをひょいと持ち上げた。無遠慮な仕草だけれど、この人には何故か拒否感はなかった。人間の男性感が無く、無邪気な子供みたいだからだろうか。
「気に入っていますよ」
アリアがそう返せば、伯爵は満足げに笑った。
「君の注意深さは野生の獣のようで好ましいね。何一つ、僕の問いかけに肯定しなかっただろう」
灰色の瞳はアリアを見透かすように覗き込む。
「怪物発生地を訪れて回る中、僕は奇妙な噂話を聞いたんだよ、アリア」
「…噂話、ですか」
「ああ。怪物が自然消滅した土地には、旅の途中だという、ありふれた容姿にありふれた名前の娘が、必ず現れたという噂話を。不思議な事に、誰もがその娘の名前や姿を思い出すことが出来ないそうだ。…これは君だね」
「………」
「こうして会ってみて、ますます君は謎ばかりだ。確かに偽名を騙る影響は出ている。けれど魂は減っていないし、君自身も苦痛を感じていないらしい。忘れられてしまうことに関して言えば、それは君にとって都合のいい話だろうね。…オスカーは、そのことを知っているのかな」
その問いはアリアの胸をずくりと痛ませた。それでも、薄い微笑みを作って返事をすることはしなかった。
「僕も君を忘れたくないんだけどなぁ。うーん、名前の魔術と同等くらいの魔術で、忘却の効果を上書きすれば良いのかな…。となると婚姻の魔術くらいかぁ。ふむ、悪くない」
伯爵はブツブツ言いながら、アリアの手を取って軽く言った。
「アリア、僕と婚約しない?」
「は?」
その時、バタンと音がして、アリアと伯爵がそちらを見れば、そこに居たのは、息を切らしたオスカーだった。緑の目の騎士は、アリアの手を取る伯爵に露骨に顔をしかめ、アリアの肩を抱き寄せて、伯爵から距離を取った。
「え、君どうやって部屋から出てきたの」
「少し手荒く開けさせて頂きました。なぜ、俺を部屋に閉じ込めたのか聞かせてもらえますか」
オスカーは隠すつもりもないように殺気立っていた。珍しく唖然としていた伯爵は、オスカーが持つ長剣が目に入ったらしい。
「うわぁ、えげつない剣持ってるね。それなら破ることも可能か…。いやでも、相当強引に押し切っただろうね」
伯爵は段々面白くなってきたらしく笑い始めて、涙を拭きながらウィンスを呼んで、客室の扉の片付けを命じていた。




