蹂躙の森の小さな屋敷
魔力変異。
それは本来その種が持つ魔力の、量や質が著しく異なる状態を指す。
大概に置いて、その種が持つ肉体という器の、許容値を超えてしまった魔力はその器を壊し決壊してしまう。暴走した魔力は、周囲にまで被害を齎す。
それは例えばキヌカの地で、ウルが辿る筈だった未来のように。
それは例えばリュシャンの城で、ナタリアが辿る筈だった運命のように。
もし体の損壊を防ぎ、変異した魔力と共存が出来た場合は、それが人であれば魔術師として、素晴らしい力を得るだろう。この世界でその名を轟かす、伝説的な魔術師の幾人かにもそういった経緯がある。
然るに、魔力変異は恐ろしい災いであり、また世界に齎された祝福でもある。
その魔力変異研究の第一人者こそが、ザルツストラーダ家の生き残り、ルース・ザルツストラーダだった。
***
「ようこそ、蹂躙の森へ」
直前まで怪物がそこに居たのを見ていた筈なのに、何事も無かったかのようににっこり人好きのする笑みを浮かべるのは、人嫌いと名高いザルツストラーダ伯爵である。余りに胡散臭いと思わざるを得ない。
アリアは警戒しながらもとりあえず、右手首に組紐を結び直し、挨拶を返そうと一歩前に踏み出そうとした。しかしぐらりと、貧血が起きたように視界が歪んだ。よろめいたアリアをすぐさまオスカーが引き寄せて、支えてくれる。
「おや、大丈夫かい?」
近付いてきた伯爵はそう問いかけて、アリアを覗き込んだ。間近に見る伯爵の灰色の瞳は美しかったが、自分の体調が悪いせいだろうか、どこか得体が知れず空恐ろしいとも感じてしまった。
「酷い顔色だ、無理もないね。あれだけの事をして、反動が無いほうがおかしいだろう。すぐ休む部屋を用意させよう」
「…ありがとうございます」
伯爵の申し出に礼を言ったのはオスカーだった。今のアリアは、声を出すことも難しかった。
「君達の用件はこれから聞かせて貰うとして、今日は僕の屋敷に泊まると良い」
「良いのですか?」
「もちろんだよ。じきに夜が来る。この深い森を、陽のない内に歩き回らない方が良いからね」
伯爵の言葉に呼応するように、頭上でびゅおっと強い風が吹いたようだ。木々が阻む為に直接こちらに風が触れる事はないけれど、上空を駆ける風はざざざと、森の木々を漣のようにさざめかせた。
アリアは額に汗を浮かべながらぼうっと空を見上げた。既に陽が傾き始めて、空の端には橙や紫の筋が混ざり出している。
いつの間にか、随分と日が短くなった。ディーリンジアの長い冬が、もうそこに迫っている。
***
一定のリズムで揺られながら、アリアは流れていく景色を見ていた。
本当に全てが真っ白だ。土も草も木々も、時折現れるまだ冬眠に入っていない虫達も。木の根元に生えた小さな菊も、まるで彫刻の石の花の様に見えるけれど、確かにそれは柔らかく風に揺れるのだ。
蹂躙の森を抜ける、ザルツストラーダ伯爵の屋敷まで向かうこの道程を、こんな状況でもなければ、アリアはその美しさに浸り楽しんだことだろう。
そう、この状況が問題である。
ちろりと視線を上にやれば、すぐにたどり着くのはオスカーの顔面である。
弱っているせいか、鼻筋が真っ直ぐだなぁ、睫毛が長いなぁ、やっぱりこの切れ長の目、とても好きだなぁと脳内の一部の自分が、羞恥など捨て置き欲望のままに見惚れている。
只今現在、アリアはオスカーにいわゆるお姫様だっこというのをされている最中だった。
倒れかけたアリアに、オスカーは何の躊躇いもなく今日三度目の持ち上げをした。再三の抱っこともなるとアリアも悟りの境地に入りかけていたが、しかし蓋を開けてみれば、先程までの片手で抱き上げる子供抱っこ以上に恥ずかしさ極まりないお姫様だっこだったのだ。
なぜ…!と驚愕しながら、オスカーの気付かわしげな眼差しを見てすぐに気付く。子供抱っこは一応、上半身を自立する必要がある。今のアリアではそれも難しそうだから、抱っこの形態を変えたのだ。それだけである。オスカーは正しい。しかし時として人間は、正しさを憎んでしまう悲しい生きものだ。アリアは遠い遠い目になった。
「おやおや」
伯爵はにやにやとしながらその様子を見守っていた。居たたまれない。これは唯の介護であると訴えたかったが、その気力も無かった。
「では行こうか。ここからそう遠くない場所だよ」
伯爵の言った通り、純白の森の中をしばらくの間歩けばやがて、二階建ての邸宅が現れた。森に合わせたのか真っ白なその屋敷は、貴族の屋敷としてはとても小さいのだろうが、壮麗な美しい屋敷だった。まさしくおとぎ話に出てくるような。
伯爵に促され、美しい装飾が施された扉をくぐる。室内は外観から連想される予想とは異なる、いかにも居心地の良さそうな温かみのある空間が広がっていた。暖炉に火がくべられていて、橙の炎が揺らめいている。
そしてすっと現れたのは、使用人と思わしき燕尾服の一人の人物が現れた。まだ二十にもならないように見える、線の細い青年だった。
「彼はこの家で唯一の使用人、ウィンスだ。彼の作る食事は絶品だからね、夕食を楽しみにしておくと良い」
伯爵の紹介に、ウィンスと呼ばれた執事は優雅にアリアとオスカーに一礼をする。伯爵が彼に尋ねる。
「さっき申し付けておいた、客人のための寝室がすぐに必要になったんだけど、もう用意は出来てるかい?」
「はい。お客様をご案内致しましょう」
案内されたのは、白を基調としながらも所々に、落ち着いたビリジアンの差し色がある、感じの良い部屋だった。
洗い清められたすべすべとしたシーツの上に、オスカーにふわりと降ろされて、軽くて温かい掛け布団をかけられる。
全てが心地よくて、急に眠気が存在を主張し始める。
考えてみれば当たり前だが、蛇ノ目蝙蝠に怪物に、三度に渡る持ち上げに、今日は肉体的にも精神的にも大変ダメージを負っている。しかしアリアは眠気に必死で抗いながら、もごもごとオスカーに訴える。
「…先に、伯爵に用件を伝えなくちゃ」
「君の仕事はまず休む事だ。些事は俺が片付けておくから、今はゆっくりお休み」
そう言って、オスカーはその手でアリアの目を柔らかく塞いだ。
大きな手は少しひんやりとしていて気持ちよく、ごつごつしているのに優しくて、アリアは何だかとても安心してしまって、眠りの中に引きずり込まれて行った。
***
夢を見た気がする。悲しい悲しい夢だったように思う。
何が出てきたのだろう。
それは、一人で病室から、窓の外で木枯らしに揺れる木を眺めた日のことかもしれないし、会えば優しく、たくさん有沙が喜びそうな差し入れをしてくれたけれど、ほとんど病室へ寄り付くことは無かった両親のことかもしれない。
もしくはナタリアの、魔力変異のきっかけとなったあの両親の決断の事かもしれないし、ナイフを突きつけられた妹の酷く傷付いた表情かもしれない。
よく覚えていないけれど、悲しくて悲しくて、目が覚めた。
見慣れない天上をぼおっと見ながら、目元と頬に違和感があり、そこを手で触れば、指先は水に濡れた。涙の量から見るに、結構激しく泣いていたようだ。
「……」
たまにあることなので、アリアは黙って起き上がった。拭くものを探そうと辺りを見渡して、そして凍りついた。目が合ったのは、若葉色の瞳。
「…おはよう、アリア」
「おはよう、ございます。オスカー…」
アリアは慌てて目をめちゃくちゃに拭おうとしたが、オスカーに両手を捕まえられた。ひぃぃと内心悲鳴を上げる。
「そんな風にしたら、赤くなってしまうだろう?」
そう言って彼は、少し待っていてと言って部屋から出て行く。アリアは呆然としながら、部屋の中にウルも居て心配そうにこちらを伺っている事に気付いた。おいでと言って、とことこベッドの脇に寄ってきたウルの頭を撫でる。
そしてすぐに、用意して貰ったという濡らしたタオルを持ってオスカーが戻ってきた。
そのタオルをそのままアリアに渡してくれれば自分で拭くのに、彼はどういう訳か、そっと片手でアリアの頬を包んで固定し、もう片方の手で、濡れたタオルを使って目や頬をとんとんと優しく拭き始めた。
(…っ!?)
これは一体何のプレイだと言うのか。
動揺の余り、アリアは何も言えずに震えながら、されるがままになっていた。丁寧に丁寧に拭かれて、「うん、これで大丈夫」とオスカーが言って手を離してくれた時には、確かに顔はすっきりしたが、心が大変重症に陥っていた。
再びベッドに突っ伏したい気持ちを堪えつつ、アリアは部屋にひとつ付いている窓、陽が随分高く昇っていることに気付く。嫌な予感がした。
「もしかして今って、朝ですか…?」
「そうだね。良く寝れたみたいで良かった」
「…オスカー、寝ていないのでは」
その問いに、オスカーはただ微笑んで答えなかった。
心配して付いていてくれたのだろうか。徹夜で疲労は大丈夫だろうかという心配と、一晩中顔を見られたかもしれないという恐ろしい可能性に、アリアは目眩がした。
幸い、扉からノックの音がしてぐるぐる回る思考を止めることが出来た。顔を出したのは伯爵だった。
「あ、起きたね。良かった。体調は回復した?」
「はい…。急な訪問の挙げ句に申し訳ありません」
「気にしなくて良いし、畏まらないでよ。久し振りの客人に、僕は嬉しいばかりだからね」
そう言って、伯爵は器用に片目をつぶる。確か彼は三十路な訳だが、驚くほど童顔で、十代半ばくらいにも見えるので愛嬌のある仕草が良く似合った。
そして伯爵は今度はオスカーの方を見る。
「さて、オスカー。君は寝なさい」
「…いいえ」
「昨日聞いた話じゃ、君だって昨日は森を走り回ったのだろう?寝ておかないと、いざという時に動けないだろう。心配しなくても、彼女には朝食を出して、その後はゆっくりしていて貰うから」
「しかし」
「オスカー、本当に寝てください!オスカーが無茶するなら、私も無茶しますよ!」
「…君はいつも無茶をしているだろう」
「より高度な無茶をします!」
アリアの酷い脅しによって、オスカーは渋々フィルに案内されて寝室に向かった。
***
サンドイッチは二種類あった。
みっちり目が詰まった噛みごたえのあるパンを薄くスライスして、レバーパテとピクルスを挟んだものは、断面もモザイク模様のようで美しい。
もうひとつはスモークの鱒のマリネに、卵とピリッとした香辛料で作られたソースを添えて、新鮮な香草をあしらったオープンサンドタイプのものだ。
とろりとした白磁のマグカップによそわれたのは、ルビー色をしたコンソメスープだった。芯まで紅いカブやその他の野菜から取ったブイヨンに、牛肉のミートボールが浮いている。
ほかには鶏と野菜をクリームソースで煮たものや、酸っぱいキャベツのピクルスにマッシュした芋を添えたもの。
飲み物には新鮮なミルクや果実のシロップの水割りなどが供された。
どれも素晴らしい美味しさで、アリアは感激しながら食べた。
「良い食べっぷりだね。オスカーも起きてきたら、彼にも食事を取らせよう。いくら言っても、君から離れようとはしなくてさ。寝室に軽食を運ばせたんだけど、あまりつまんでいるようじゃなかったからなぁ」
一晩中顔を見られていた疑惑が確定してしまった。美味しい食事の味が急にわからなくなる。
「良い番犬だね。夫婦には見えないかな。恋人?」
「…なりゆきで少しの間だけ、旅を共にする事になった人です」
「おや、まだ微妙な関係のようだ」
そう言って彼はケラケラと笑った。アリアは半眼を通り越し、六分の一眼くらいになった。
食事を終えてウィンスがテーブルの皿を下げ、部屋から立ち去った。ホールにはアリアと伯爵の二人だけが残る。
しばらく沈黙が続き、アリアは伯爵が先程まで浮かべていた、軽薄な迄の笑顔を拭い去った事に気づき、どきりとした。そして伯爵はすっとアリアに眼差しを向けて、口を開いた。
「その組紐、魔封じの装着具だろう。かなり良い出来だね」
伯爵が指差したのは、アリアの右手首に結ばれた組紐だった。
「とても精密に織られている。流通している大抵の魔封じの道具は、表面上は封ずる事が出来ても、その魔力の気配は漏れ出してしまうものだ。気付かないのは人間か、飼い馴らされた家畜くらい。けれどこれなら、野を駆ける獣でも嗅ぎつけることは難しいだろう」
黙っているアリアを、掬い上げるように伯爵は見据える。彼はカップから口を離して、テーブルに置いた。そのことりとした音が嫌に響いた。
「しかし、それでも君くらいの魔力量になると、完全に封じ込めることは出来ないようだ。……森がやけに静かだった事に、君は気付いたかな?」
「……獣は確かに、現れませんでしたね」
「それが何故なのか、本当は君は気付いているだろう」
「…さて、何のことでしょう」
嘯くアリアに、伯爵はふっと笑った。不快にも思ってい無さそうだけれど、本心からの笑顔でもなさそうだ。
「…僕の髪は、蹂躙の森と同じ色だ。一族にはこの色を持つ人間は居ない。けれど僕が家族から疎まれたのは、髪色のせいだけでは無かったよ。気付いた頃には僕は、蹂躙の森の外に居ながら、蹂躙の森で何が起きているか、すべてわかった。それを気味悪がられたんだ」
伯爵の目は過去を遡るように遠くを見ている。口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「自分が狂っているのか、それとも何か理由があるのか僕は知りたかった。学院に上がり、魔力変異の研究を始めたのはそのためだった。そして理解ったことが、僕の髪の魔力質は、蹂躙の森と同じものだということ。恐らく、領地内に魔力変異の森を有し、ザルツストラーダの一族が長きに渡って受けてきた影響が、とうとう見える形になって現れたのが僕だったのだろう。魔力の繋がりが、僕に森で何が起きているか報せるんだ」
伯爵は遠くに向けていた眼差しを、再びアリアに戻した。
「君がザルツストラーダの森に足を踏み入れた瞬間、既に蹂躙の森に住む獣達は怖がっていた。尋常ではない魔力量を持つ、化け物が現れたと」
アリアはぎゅっと拳を握りしめた。目の前のこの人は、恐ろしいくらいに色々なことを、把握してしまっているようだった。
「アリア。アリア・マクベイと君は言ったね」
「…はい」
「君は、こんな話は知っているかな? 四年前、ある一人の貴族の娘が魔力変異の暴走を起こしてね、城を半壊させた。僕は一応その分野の専門家だから調査に呼ばれて現場に行ったんだど」
「……」
「その城は酷い有様だった。あれだけの暴走を見るに、僕はもう、この行方不明になっているお嬢さんは死んでいるだろうと思ったよ」
アリアは目を落として、手の中の紅茶のカップを見ていた。紅茶は澄んだ色をしていて、その中に自分の姿が映っていた。迷子のような、途方に暮れた子供のような顔をしていると思った。
「僕は惜しいと思った。あれだけの魔力を、もし暴走させずに使いこなせるようになるまで耐えられたのなら、それはもう奇跡さえ起こせるような、素晴らしい魔術師になっただろうにと」
伯爵は、もう相槌すら打たないアリアに気にする素振りも見せずに話を続けた。
「いくら捜索が続けられても、彼女は見付からなかった。そして同じ頃、妙な事が起きるようになった。聖女の力なしに、怪物が消滅するという前例の無い現象がね。僕は研究者として、一つの仮説を立てた。…ねぇ、顔を上げて」
アリアはのろのろと顔を上げた。
少しの赤紫が散る美しい灰色の瞳が、アリアをまっすぐ見詰めていた。
「ナタリア・リュシャン。君が来るのを、待っていたんだ」




