お手製クネッカと外した組紐
ザルツストラーダの森を縦断中のアリアとオスカーは、只今昼食中である。
火は熾さない方が無難なので、ライ麦粉を焼き固めて乾かした、保存用のパンであるクネッカと、水筒に詰めてきたハルフェのシロップを水で割ったものという、簡単な食事だった。
冬が長いこの大陸で、クネッカは冬期の保存食としてよく食べられている物のひとつだ。軽く嵩張らず、栄養価も高い。携帯食としてとても優秀なので、旅人であるアリアにとっても欠かせないものだが、保存重視のため、味はもそもそとして、少々味気無い物でもあった。
アリアは食べるものにはこだわるので、自作で甘い系としょっぱい系のクネッカをいつも用意していた。
甘い系には乾燥させたベリーを練り込み、シナモンに似た甘い香りのスパイスで風味を付けて、しょっぱい系には塩気の効いたチーズを練り込み、クミンに似たスパイスで香ばしくしている。
アリアの食への執着は、有沙であった時、食べたいと思うようなものをほとんど食べられなかった事に由来する。
それでも有沙も、食の楽しみが無かったという訳ではなかった。実際に食べれない代わりに、物語に埋没し、物語に描かれる食べ物を味わったのだから。
そんな有沙なので、『聖国物語』はたくさん食べ物が描かれる所も、愛読書たる所以だった。
パサパサしたクネッカ、雪解け水で淹れたカフィル、陽だまりのぬくもりがまだ残る採りたてのすもも、キヌカ山羊のとろりとした茶色のチーズ、北限の地の鯨の燻製。
本当に舌に載せて味わうことは出来ずとも、想像力をフル稼働させて味わったその数々は、有沙にとって大切な味だった。
この世界に来てから一度も、有沙として本当に食べていたものが恋しくならず、ディーリンジアの食に最初から馴染めたのは、それが想像の中では幾度も食べた、慣れ親しんだ味だったからかもしれない。
という訳でアリアが自前のクネッカを取り出し口に放り込んでいると、オスカーがこちらをじっと見てくるので、はいはいと自作クネッカを渡した。するとオスカーはにっこり笑って、何やら高そうな蜂蜜やナッツが使用されたケーキをお返ししてくれた。
数日前、オスカーがアリアのクネッカに興味津々だったのでちょっと分けてあげた所、口に合ったらしかった。その時もお返しに高級な菓子をくれたので、アリアにとってかなりお得な取引である。
アリアは丸いケーキを一口食べて、ハルフェのシロップの水割りを口に含む。これは幸運の迷い路で作ったシロップで、あの場で齎される収穫物は、そのほかの場所で採取する同じ種よりも、遥かに滋養が豊富なのである。
ハルフェの爽やかな甘みとほのかな酸味が、蛇ノ目蝙蝠に遭遇して摩耗した精神に染み込むようで、アリアはうっとりとした。
菓子を飲み込み、ところで、とアリアはオスカーに言う。
「あんな状況で良く、正しい方角を選んでましたね…」
蛇ノ目蝙蝠から逃げる際、いくつかの枝分かれした道も通った。そのすべてに於いてオスカーが適切な道を選んでいた事を知ったのは、さすがに道は外れただろうと先程地図を広げた時のこと。
この地図はアリアの持ち物の中で珍しく高価なものの一つで、所有者の現在地が紫の光で指し示され、また、その現在地に合わせてその周辺の地図が浮かび上がる魔術仕掛けの代物である。ディーリンジア中を広範囲で旅しているアリアには、とてもお役立ち道具だった。立ち入り禁止区域や、情報を制限している地域については表示不可能になるが。
「地図を覚えるのは得意なんだ。そこそこの距離走ったから、時間が短縮されたかな?」
「そうですね…、地図を見る限り、あと一時間くらいで着いてしまうかもしれません!」
そんな会話をしながら、さてそろそろ行きますかと二人は立ち上がった。
オスカーがアリアの方を向いて、曲げた自分の肘をぽんぽんとするので、アリアは無言で彼に近付き、その腕にそっと掴まる。森の暗闇に目が慣れてしまって、表情がわかるので先程よりも気恥ずかしかった。
***
しばらく歩いてから、アリアは奇妙な違和感に気付いた。何かがこちらを見ている。ぞくりと首筋に、凍るような冷気を感じた。冷気を感じた方向へ、バッと体を反転させる。オスカーが剣を抜き、ウルが毛を逆立てる。
彼らの前に現れたもの、それは。
「……怪物」
いびつな獣のような輪郭を持つ、見上げるような巨大な黒いかたまりが、そこにあった。
酷いにおいに、臓腑までを凍らせてしまいそうな冷気。頭を締め付けられるような感覚。
常にぶれ続けるその体を良く見れば、憎悪や苦悶の表情を浮かべた人間の顔が幾百と集結して出来上がっている事がわかる。
身の毛もよだつおぞましい光景はしかし、この四年でアリアがすっかり慣れてしまったものでもあった。
「でも、なんで…?」
目の前のこれは、紛うことなき怪物だった。しかし『聖国物語』の中に、こんなシーンはなかった。むしろザルツストラーダの森は、禍々しい通り名を持てど、瘴気を集めることはない清浄な土地として描かれているのだ。
途方に暮れたようなアリアの呟きに声に反応したかのように、自在に輪郭を変える怪物は、触手のようなものを体から出現させ、こちらに飛びかかってくる。間髪入れずにオスカーが叩き切った。
怪物は耳を塞ぎたくなるような悍ましい声のような音を出したが、崩れた輪郭はまたすぐに形を構築している。
オスカーはひょいっとアリアを担ぎ上げた。
「ぎゃっ!?」
そのまま放たれた矢のように再びオスカーは駆け出し、ウルも伴走する。
オスカーがアリアに、緊急事態の時はどうもそのような言い方になるらしい、淡々とした口調で言う。
「怪物を消し去ることは聖女にしか出来ないらしいが、発生した場所から移動可能な範囲は狭いと聞く。振り切ろう」
心の準備もなく担ぎ上げられててあわあわしながらも、アリアは頑張って思考する。確かにオスカーの驚異の脚力なら、怪物を振り切ることは可能だろう。しかし既にあれだけの状態に育っている怪物を放置して大丈夫なのだろうか。
怪物は、発生してから十分に育つと毒を吐き始める。そうすれば土地は穢れ、怪物自体を消滅させられたとしても、土地が回復するまで何十年とかかのだ。ウルを預けようとしている森を、そんな状態にして良い訳が無い。
アリアは叫んだ。
「オスカー!止まってください!!」
「…なぜ?」
「オスカーとウルは先に行っていてくれて良いです!私を降ろしてください!」
「何を言っている」
オスカーは声に苛立ちを滲ませていた。そんな声を聞くのは初めてで、身が竦みそうになるけれど、引く気もないのだ。
「止まってくれないとまた吹き飛ばしますよ!」
そう言えば、オスカーはぴくりとして、足を止めた。
「降ろしてください」
もう一度そう言えば、オスカーはアリアを降ろした。苦々しい表情でこちらを見ている。
「ありがとうございます。可能であれば、オスカーはそのまま行ってしまってくれると余計に良いのですが」
「そんな事が出来るわけないだろう」
「ですよね…。あの大きさまで育っている怪物は、いずれ猛毒を吐き始めるんです。このまま放置していられません」
「…君は」
「私が対処します。すみません、ちょっと集中が必要な作業をするので、もし怪物が攻撃してきたら、援護してくれますか?」
オスカーが返事をする前に、怪物が追い付いて来た。しかし思ったよりは遅かったので、怪物相手にそれだけ距離を引き離していた、オスカーの脚力は凄いと言わざるを得ない。
アリアは怪物を見据えた。
怪物は、目の前の人間の負の感情を助長する性質がある。
こうして対峙しながら、やはり心がいろんな感情でぐちゃぐちゃになっていく。
後悔、懺悔、無力感、劣等感、恐怖心。
アリアがこれからすることは、オスカーの目にどう映るだろうか。
野放しに出来ない存在として捕らえられ、王城に連れて行かれるかも知れない。
その場合は、アリアはどうにか逃げるしか無い。しばらくの間さえ離れられれば、彼も、アリアのことは忘れてしまうのだ。
そう考えると酷く胸が傷んだけれど、だからこそ逃れられるのだと、アリアは自分に言い聞かせて心を鎮める。
しゅるり。
その音は、アリアが右手にいつも巻きつけている組紐を外す音だった。
アリアは地面にその右手をつき、ゆっくりゆっくりと、大地に自分の魔力を注ぐイメージをする。
アリアに聖なる力などない。
だからアリアが働きかけるのは、怪物にではなく、この土地の魔力質にだ。
例えばキヌカが『聖国物語』の中で、土地が怪物の出現しやすい魔力質に変わってしまったのは、暴走する魔力変異の森狼が起こした竜巻に寄ってだ。
つまり膨大な魔力があれば、土地の魔力質は変えられる。
そしてここに居るのは、ディーリンジアの王宮付き魔術師にも居ないような、膨大な魔力を持つ一人の旅人である。
完全に土地を変質させてはならない。ただ、怪物が凝る条件となる比率を、わずかでも崩せればそれで足りるのだ。
森一帯に自分の魔力を染み込ませていく。土地の魔力質に集中し、その引き時を探る。
(……)
ビュッ、ビュッと風を切るような音が間断なく聞こえるのは、こちらに手を伸ばそうとする怪物から、オスカーがアリアを守ってくれている音だろうか。
やけに長く感じるような数分を経て、アリアは手を地面から離して立ち上がり、目の前の怪物を見上げた。
しばらくの沈黙の後、怪物はぼろっと形崩れ、輪郭も瞬く間に薄れ、やがて見えなくなった。
呆気の無い幕引きだ。
アリアは一気に行った魔力の放出で頭がぐらぐらした。
背中にオスカーが自分に向ける視線を感じても、そちらを見返す気力も、勇気も無かった。その時、
パチパチパチパチ。
静かな森に不釣り合いな拍手の音が響き、アリアとオスカーは驚いてその方向へ振り向いた。
そして息を飲む。アリア達の前に広がっていた光景は、すべてが白に輝く森の姿だった。怪物を振り切る内に、いつのまにか蹂躙の森区画の入り口まで辿り着いたようだった。
そして美しくも異様な森の前に佇むのは、一人の若い男だった。
ほんの少し赤紫が散った灰色の瞳に、耳の下辺りで切り揃えられた白い髪。
「お見事。歓迎するよ」
彼はにこやかにそう言った。蹂躙の森と同じその髪色は、彼が誰であるか雄弁に語っていた。不遇の三男とも、森に君臨する魔王とも呼ばれる、ザルツストラーダ家のたった一人の生き残り。
「僕はルース・ザルツストラーダ。ようこそ、蹂躙の森へ」




