怪物という存在
怪物。
それは古い時代より存在する、この世界の脅威だった。
人間の発生と共に生まれたという怪物は、悲惨な形で斃れた人々がこの世に残した、憎悪や嘆きと行った暗い感情、つまり瘴気と呼ばれるものが凝って出現する。
およそ数十年に一度の割合で、怪物は現れる。
しかし平和な時代が続けば怪物も永く現れる事はなく、戦争が頻発する時代であれば、怪物は通常の周期を待たずして現れた。
怪物の出現場所は、必ずしも戦争を起こした国の土地とも限らない。土地の魔力質が瘴気を凝らせやすいものであった場合、どれほど戦場から遠く離れた土地であれ、怪物は出現する。
そのため人々は可能な限り、怪物発生を助長する戦争が起きぬよう協定を結び、揉め事が起きる気配があれば、周辺国が介入した。
しかし、まるでそれが人間の宿命だというように、戦争が無くなる事は決して無かった。六年前に勃発した、ディーリンジアと隣国オルグスブーケとの間で起きた戦争が良い例だ。
戦争の火蓋を切ったのはオルグスブーケだった。多民族国家であるオルグスブーケは内乱が耐えない国だった。怪物が出現するのが決して戦場とは限らないが、やはりその土地での出現率は高い。そのためオルグスブーケは、怪物が多く発生する国だった。
怪物を唯一消滅出来るのが聖女だが、ひとつの大陸に一人現れるか否かという貴重な存在だ。
ディーリンジアやオルグスブーケを内包するこの大陸を、かつて守護していた先代の聖女が亡くなってから十年余り。オルグスブーケは年々国内に増え続ける怪物の被害に、限界を迎えつつあった。
その折に、奇跡のように現れたのがディーリンジアのリュシャン公爵家の末娘、聖女レティナである。すぐさまオルグスブーケはディーリンジアに聖女派遣要請を送った。しかしディーリンジア王家は難色を示した。
当時レティナはまだ十二歳だった。体が育ちきっておらず、聖女としての訓練もこれからである子供を、怪物出現以前に、そもそも状勢が不安定な国に派遣する事に危機感を持ったのだ。
聖女としての訓練を受け、心身共に成長したその時、レティナはどれだけの聖女となって、どれだけの怪物を浄化し世界を救うだろう。
それを、いつまでも内紛を繰り返し怪物を出現させ続けるオルグスブーケの為に遣わせ、死んでしまったりもしくは何らかの形で損なわれてしまったらどうするというのだ。オルグスブーケにディーリンジアは、聖女を派遣せよというなら、二つの条件を飲むようにと伝えた。
それは、派遣はレティナが十五歳になる三年後まで待つようにという事と、絶えることのない内乱を生み出す王政への、介入権だった。
元来好戦的なオルグスブーケは、もちろんこの条件を受け入れることは無かった。ならば力尽くで聖女を奪うまでとディーリンジアに侵攻したが、国力が高いのはディーリンジアだ。ひと月足らずで勝敗は決し、ディーリンジアが勝利した。
ディーリンジアはオルグスブーケを、あくまで政治的な面にのみだが属国化した。以降、多少の反乱分子はあれど、かつてのような常に複数の地域で戦争が起きているという惨状は解消された。
(聖女を巡って戦争が起きることを、レティナは悲しんでいた…)
アリアは『聖国物語』から、リュシャン家姉妹幼少期の、あるシーンを思い出す。金色の目から大粒の涙をぽろぽろ流すレティナは、自分がオルグスブーケに行くから戦争は止めてと、悲痛な声で叫んだ。しかし王様にそう伝えてとどれだけ両親に言い募っても、彼らは暗い顔で横に首を振るばかり。
聖女という名を与えられて間もない、まだその事実にすら戸惑っている時期だ。自分のせいで戦争が起こることに少女は、悲しく辛い気持ちでいっぱいで、自分の無力さに途方に暮れた。
そんな時の救いはたった一人。夜半こっそり部屋を抜け出しては、優しい姉の元へ向かった。枕を抱えてベッドに潜り込んでくる妹を、ナタリアはいつも優しく抱きしめた。そして震えるレティナが落ち着くまで、レティナの背を撫で続けた。
そしてこのナタリアは、ディーリンジアの判断は、決して聖女を守るためだけに行われたのではないのだと、噛んで含めるようにしてレティナに伝えた。ディーリンジアにとって、これは好機だったのだ。いつまでも続くオルグスブーケの内紛の影響は、隣国であるディーリンジアにも、怪物という形になって現れる。政治に介入するきっかけを、長らくディーリンジア王家は探していたのだ。
だからレティナは悪くないのだと、何度も、何度も伝えた。
ディーリンジアが戦争に勝利し、三年後に聖女の派遣が約束された。しかしレティナが、その土地に足を踏み入れる事はなかった。
期限が来る数ヶ月前、オルグスブーケの怪物は急に消滅してしまった。怪物は聖女が、聖なる力で浄化させない限り消える事は無い筈で、様々な憶測が立てられたが、そのいずれも裏付けが取れものはなかった。
しかしディーリンジア王家は賢明で、一体どのような理由があるにせよ怪物が消えた土地に、わざわざ危険を冒して聖女を向かわせるようなことはしなかった。それも誰よりも聖女が慕っていたという姉ナタリアが、聖女の殺害未遂の上に逃亡したばかりの心が不安定な時期に。
怪物消滅の真相を知るのはただ一人だけ。
アリアはリュシャン公爵家の城から逃げ出して、まず本当に自分が思う理論で対応が可能か、物語の中でも中の下くらいの怪物の対処を行った。問題なく追い払う事ができ、続いて、『聖国物語』で最も危険な怪物討伐が行われるオルグスブーケの怪物の対処にあたろうとした。我ながら二体目でかなり無茶な相手を選ぶものだと思ったが、時間が無いため仕方なかったのだ。しかし、あの頃の状況は厳しかった。
当時、オルグスブーケはまだ国境の行き来が厳しく制限されていたのだ。逃亡の身であるアリアが紛れ込むことは難しく、だからアリアが出来たのは、とても無茶なやり方で表面的なものを失わせたのみ。
いずれまた、そう遠くない未来にオルグスブーケの怪物は現れるだろう。しかし四年が経ち、今は当時程は警戒態勢は敷かれていない。それにこの歳月で、アリアもまた怪しげな知恵や技術をいろいろ手に入れたのだ。どうにか潜り込む事は可能だろう。
レティナの、本当の聖なる力を目覚めさせる事が出来なかった責任は自分にあるのだ。
まだしばらく猶予はあるが、時が来たら。




