ザルツストラーダの森へ
幸運の迷い路で日がな過ごしてしまったため、ザルツストラーダの森の入り口まで辿り着いたのは、予定より一日遅れの事だった。
しかし久し振りの休暇のような一日は、旅の生活を送る彼らに安息を与えた。体の調子がすこぶる良く、昨日は足の運びも軽やかだった。
アリアは幸運の迷い路の、美しい景色や美味しかったオスカーの料理を思い出して、口元に笑みが帯びるのを感じた。しかし続けて、余計な事まで思い出してしまって、頭が爆発しそうになった。
(オスカーと同じテントで寝ていたなんて…!)
幸運の迷い路の夜半、月燈花のせいで寝落ちしてしまったのは覚えている。オスカーはとても困った事だろう。
この面子での旅が始まってから、野宿の際はそれぞれ自分のテントを立てて個別に寝ていた。当たり前である。しかしアリアのテントは格納庫であるトランクの中に入っていて、勝手に他人の格納庫を開けるような事をオスカーはしなかっただろうし、そもそも魔術仕掛けの格納庫は、所有者以外は開けることが出来ないのだ。一応、所有者以外でも格納庫を開けられるように、特定の人物への許可を格納庫に登録することは可能だが、それは例えば家族といった、親密な間柄で行われることだった。
オスカーに出来る選択はとても限られていたので、翌朝、アリアは目を覚ましたらまず、すぴすぴ鼻ちょうちんを吹きながら眠るウルの顔が見えた。そしてウルを挟んだ向こう側に、オスカーの寝顔を見付けた時のその衝撃。二人と一匹は同じテントで、川の字になって寝ていた。
元々オスカーのテントは国が支給する良いテントだったようで、四、五人くらいは入る広々した仕様ではあった。しかしアリアは彼のテントにお邪魔するのは始めてで、ましてや一晩同じ空間で眠っていたとなるともう大変である。
身じろぎしたアリアの気配に気付いたのか、オスカーも目を覚まし、とても気まずそうにおはようの挨拶と、申し訳ないと思いつつ自分のテントに運び込ませて貰ったという説明を受けた。アリアは余りの羞恥に顔を上げられないまま、申し訳ないのはこちらですとひたすら繰り返した。
***
過ぎたことを悔いていても仕方ない。アリアは、とうとう辿り着いたザルツストラーダの森の入り口を前に意識をしゃんと切り替える。
「いよいよですね…!」
「今からでも引き返して良いと思うよ?」
「オスカー、斬新な冗談ですね!」
アリアはオスカーの無になっている表情には気付かず、地図を広げて現在地を指差した。
「この入口からだと、半日かからずに伯爵が住まう蹂躙の森区画まで辿り着けそうです」
「…注意する事としては、やっぱりこれだけ深い森だと獣かな」
「いるにはいると思いますが、森林に於いて生態系のトップは森狼なので、ウルがいる限り滅多な事はないと思いますよ」
「そうか。頼んだよウル」
そう言いながらオスカーは、ウルの頭をわしわしっと撫でた。意外と大雑把な撫で方だなとアリアは思ったけれど、ウルは嬉しそうにアォンと鳴いた。
「一応俺の方でも、周囲に注意はしておこう」
「はい。私も虫除け香を焚いておきますね」
アリア達はザルツストラーダの森へ足を踏み入れた。
木々が鬱蒼として、陽の光はほとんど入らないようだった。
「アリア、転ばないように…、っ!」
「こけました…」
早速、盛り上がった木の根っこに足を取られたアリアは、すっ転びそうになった。しかしオスカーがすかさず引き寄せてくれて、事なきを得た。
「うーん。アリア、森を歩いている間は、俺の腕を掴んでいて貰って良いかな?」
「……はい」
「もう少し近付いて、…うん、そう」
「お世話おかけします…」
暗い森の中で灯りをともせば、逆に、良くないものを引き寄せる誘蛾灯にもなってしまう。事前情報の少ない森の中で不用意な行動は取れず、アリアはまるでエスコートされているみたいに、オスカーの曲げた肘の辺りにしがみつく。顔から火が吹きそうだが、この暗さなのでオスカーには気付かれないだろう。転倒防止の体勢に入り数歩進んだ所で、オスカーがクスッと笑った。
「…オスカー?」
「ごめん。だっていつも、何でも知っててしっかりしてるアリアが…、森に入って三歩で、あんな思いっきり転びそうになるなんて」
「……」アリアはむっつりとした。
「ごめんごめん。可愛いってことだよ」
「……幼児に言う可愛いな気がします!」
アリアの返答にオスカーは笑っている。否定しないこの人…!とアリアは衝撃を受けた。あまりの衝撃に頭がぐるぐるしていたせいか、そのあとオスカーがぼそりと呟いた言葉を、アリアはうっかり聞き逃してしまった。
「前もそんな事があったね。君は本当に、…目が離せないな」
しばらく歩いている内に、アリアもだいぶ落ち着いてきた。オスカーの足取りはとても安定していた。戦場では必要に迫られれば昼夜関係なく歩き倒すのだろうから、訓練されているのだろう。ウルは久々の本格的な森にはしゃいでいるのか、弾むように歩いて、時折アリアとオスカーの足元にじゃれついた。
森の獣達は昼は眠っているのか、それともウルの存在に警戒しているのか、拍子抜けするくらい出現する気配もなかった。しばらくは順調に進んだ。そう、しばらくは。
(…この音)
アリアは耳鳴りのような、キィンという音を聞いた。オスカーを見上げると彼も同様にこの音を聞いたらしく、アリアを見て頷く。ウルも毛を逆立てて、唸り声を上げている。
その音に、アリアは聞き覚えがあった。背中をつぅっと、冷たい汗が流れる。ドッドッドと、飲み込まれそうなくらいに鼓動が高鳴り、速まっていく。
羽音もなくそれは現れた。暗闇の中から何百という赤い目が、こちらを見ている。でもその目は、それの本当の目ではない。羽根に描かれた模様だった。アリアが短く叫ぶ。
「蛇ノ目蝙蝠…!」
「あれは、蝙蝠なのか」
「羽根に毒の鱗粉を持つ蝙蝠です…!この地域の生き物ではありませんが、今の時期であれば、渡りに遭遇してしまったのでしょう」
「危ないのか?」
「人や獣の血を吸います…ひっ」
先陣を切った一羽の蛇ノ目蝙蝠が、アリアに突っ込んできた。
しかし間髪入れずに、オスカーが一歩踏み込みアリアを背中に庇い、いつの間にか抜いた剣でそれを切り払った。
「あ、ありがとう、ございます」
「…アリア?」
お礼を言いながらも、アリアはがたがたと震えていた。アリアはこの蛇ノ目蝙蝠がトラウマレベルで駄目なのだ。
かつて旅の途中で訪れたアドラドという山が、蛇ノ目蝙蝠の生息地だったのだ。蛇ノ目蝙蝠は渡りの季節以外は、その山にしか存在しない希少な種で、アリアはその存在を知らなかった。
野宿をしていた際、やけに手に違和感を感じて目を覚ましたら、肌が露出していた腕のあたりに、数十匹の蛇ノ目蝙蝠がたかり吸血していたのだ。引き攣る喉から無理矢理に声を出した所、近隣の住人が気付いて追い払ってくれた。
そう、簡単に追い払えるのだ。普通の虫除け香では効かないが、アドラド山近郊に住む人や、渡りのルートの線上に暮らす人々は、専用の蛇ノ目蝙蝠除けの香を準備している。
生活魔術の範囲でも対応可能で、次回遭遇することがあればブチ倒してやるとアリアは誓っていたのだが、思っていた以上にあの件はトラウマになっていたらしい。術を組み立てようにも、声も手も震え、全く集中が出来ない。ウルも唸り声を上げてくれているが、蛇ノ目蝙蝠は知能が低く虫に近いため、森狼の威圧も効果が無いのだ。
待ちかねたように、蛇ノ目蝙蝠は羽音のないはばたきをして、一斉に飛びかかってきた。思わずアリアがぎゅっと目を閉じたその時。
「ごめんね、ちょっと我慢して」
「え?」
体がふわりと浮いた感覚にアリアは目を開く。視界がおかしい。何故かアリアはオスカーを見下ろしていて、彼のきれいな若葉色の瞳が、アリアを見上げていた。アリアは、オスカーに抱え上げられたのだと気付いた。
「首に手を回しておいて」
そう言って、オスカーはヒュッと走り出した。ひと一人抱えているとは思えない速さで、アリアはひぃっと悲鳴をあげ、オスカーの視界を邪魔しないように体を捻りつつ、必死でぎゅうっとしがみつく。
オスカーは背が高く、普通に並べばアリアと頭一つ分は身長差がある。その為すぐ隣にいても顔が接近する事はない。それが今や、ほとんど頭にしがみついている状態である。アリアはもう何に心臓を騒がせれば良いのかわからなかった。
迫りくる蛇ノ目蝙蝠に、オスカーはアリアを抱えていない方の手で剣を構え、閃くような動作で薙ぎ払って行く。アリアは彼が自分を片手で抱え、更に同じ手で器用にトランクを引っ掛けている事に気付き驚愕した。
ざざざざと、森を駆け抜ける。
いつの間にか、蛇ノ目蝙蝠の姿は見えなくなり、あの不快な音も聞こえなくなった。オスカーは周囲を見回しながら、ゆっくりと速度を落とし、足を止めた。ウルも唸りながらしばらくは警戒していたが、逆立っていた毛並みもやがて落ち着き、ひとまず脅威から逃げ切った事がわかった。
蹂躙の森に辿り着く前からこれなのかと、アリアとオスカーは顔を見合わせた。しかしまだ、アリアは抱きかかえられたままだったので、至近距離でまじまじと見詰め合ってしまい、慌てて顔を横に背ける。
オスカーが笑う気配を感じて、降ろしてくださいとアリアがばたばたもがいたが騎士の体はびくともせず、彼はアリアを持ったままくすくすと笑うばかりだ。暴れ疲れた所で、オスカーはそっと倒木の上に降ろしてくれた。そしてそのままアリアの隣に座る。頭をぽんとされた。アリアは自分を見つめるオスカーの瞳の色から、ああ心配してくれたんだなと気付いた。
「…みっともないとこをお見せしました」
「みっともなくないよ」
オスカーは間髪入れずに言った。
「…昔、蛇ノ目蝙蝠に襲われた事があったんです。大事には至りませんでしたが、思っていたよりあの日の記憶は、後を引いていたみたいです…」
「うん、怖かったね。でも大丈夫、もしまた遭遇してしまっても、俺がまた君を抱えて逃げよう」
「…遭遇しないことを祈ります」
オスカーは、まるでさっきウルにしていたみたいに、アリアの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。気を紛らわせようとしてくれているのかなと、アリアはされるがままにしていたら、最終的に鳥の巣な頭が完成し、オスカーがどう見ても笑いを堪えている顔になったのでアリアはうがーっと怒った。
脅威を振り切り、二人はほっとしていた。終わってしまえば、二人の間にまだあった、他人行儀な遠慮を取り払ってくれた事件でもあった。
しかし、この波乱は序の口であったと、すぐに彼らは知ることになる。
二人の背後で、幾千もの木々の影が織り成す森の闇が、ゆらりと歪んだ。
アリアのトラウマが出てくる回ですが、オスカーも蛇ノ目蝙蝠からアリアを背中に庇った際、ウルの時に後ろからアリアに吹っ飛ばされたトラウマがちらりとよぎっています。




