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格納庫と名前の魔術

アリアとオスカーがキヌカの町を出る際、協会長を始め酪農協会の面々が見送りに来てくれていた。昨日あんなにたくさんのお土産をくれたのに、更にキヌカミルクパスポートというものまで貰ってしまった。なんでもこれを持っていると、キヌカの町を訪れた際に全ての乳製品が割引で買えるようになるらしい。


このミルクパスポートは、キヌカの町で何らかの貢献を果たした人物に渡してくれるものらしく、その貢献の度合でパスポートのランクが変わるらしい。アリアとオスカーが渡されたものは金のランクだった。一番高いランクで、タダ同然の割引率となるので二人は目を丸くした。


ただの森狼の討伐であれば、このパスポートが渡される事はなかっただろうけれど、森狼は魔力変異を起こしていて、また町民はそれに気付いていなかった。放置していればどのような災いを引き起こしたかわからず、災いを未然に防いだ事への感謝表明なのだろう。また必ず来ますと見送りの面々に告げて、キヌカの町を後にする。


キヌカから北上するルートは、しばらくは林の中の一本道となる。なので地図も開かずにさくさく進めるはずだが、歩き始めて早々、アリアとオスカーの間でひと悶着あった。


「オスカー…、善意でそう言ってくれてるのはわかるのですが、例えば急に野牛の大群が現れて、私は西へオスカーが東へ流されたら、私は荷を失い裸一貫、野垂れ死にます!」

「……まさか荷物を持とうと提案しただけで、そんな突拍子もなく且つ悲観的な返事が返ってくるとは思わなかったな。なんで野牛…」


アリアは元々が大変な本の虫なので、妙な想像力に逞しい所があるのだ。オスカーが引いた顔をしているのを見て悲しい気持ちになりつつ説得を続ける。


「キヌカで貰ったお土産を格納して頂いただけで十分ですよ。でも、もし野牛的な何かが起きたら、せめてヴィンテージチーズの一番高いやつを、遠ざかる私に投げて寄越してください。必ず受け止めます!」

「そこを頑張るなら、最初から離れ離れにならないように頑張ったほうが良いと思うけど…?」

「それはさておき、本当にお気になさらず。私は旅の間、ずっとこのトランクを引っさげて歩いてきたので、無いと逆に落ち着きません」

「しかしそれは旧式の格納庫だろう。重くはない?」


格納庫とは、空間圧縮の魔術が用いられている魔術仕掛けの収納道具だ。年々縮小化が進む格納庫だが、アリアの嵩張るトランクは古いタイプのものだった。


市販の格納庫の価格は、空間圧縮率と比例する。アリアの格納庫はトランクサイズの実寸に対して、収納はクローゼットと同等である。しかし最新式かつ高価なものは、耳飾りなどちょっとした装飾品くらいのサイズに、穀物倉庫くらいの容量が入るらしい。なので旅人においては、やけに身軽そうな人間ほどお金持ちなのが通例である。


ちなみにオスカーは、国から支給されているという腕輪型の格納庫だった。戦闘に影響しないように軽く、薄い金属で出来ている格納庫はかなり高価なものだろう。そのためオスカーは、長剣と短剣は常に帯刀しているが、それ以外は手ぶらなのである。なのに連れの小娘が、大きいトランクを手に持っているのは、確かに気を使うのかも知れない。


「……では、オスカーにだけお知らせします。確かにこのトランク自体は旧式で、通常であれば、普通の荷物を詰めたトランクと同程度の重さはあるんですが、私の方でちょちょいと魔術加工を施しておりまして、とても軽くしているんですよ。一応私も、生活魔術は使えますからね」


そう言ってもオスカーが疑わしげな目でこっちを見てくるので、トランクをぽんと渡してみる。本当に軽かったからか、オスカーはちょっと目を瞠っていた。


「確かに生活魔術で物を軽くする事は出来るけれど、道具に永続的な付与が出来るというのは、生活魔術の範疇かな」

「さぁ、先を急ぎましょう!最初の雪が降る前に、森狼をお届けしたい所存ですね!」

「……」


冬が近付けば近付くほど、旅は雪に阻まれて厳しくなる。しばらくの間二人は黙々と歩いた。夏の瑞々しさを失った乾いた草を踏む音が、さくさくと規則正しく響く。


「そういえばその森狼に、愛称は付けないの?」

「愛称、ですか…」

「ああ。とっさの時に、森狼では少し呼びづらいかなと思って」


この世界に於いて、本当の意味で名を必要とするのは人間だけだが、ペットや家畜に愛称として名前を付けることはもちろんある。


「うーん、最終的には自然に返すつもりなので、特に付けるつもりはありませんでしたが、確かに森狼って呼ぶの長くてちょっと面倒くさいなと思っていました」

「…そういう意味じゃなかったけど、まあ、うん」

「じゃあ、ウルはいかがでしょう」


もちろんウルフのウルである。アリアの知ってる限りではあるが、この世界では狼にウルフという響きは当てない。だからアリアの横着な名付けもバレないはずなのだが。


「…良い響きだと思うのに、情緒のかけらも感じられなかったのは何故だろう…」


とオスカーが呟いたのは、さすが鋭いとアリアは慄くしかない。


「可愛い響きでしょう。ね、ウル」


そう呼べば、森狼は嬉しそうに飛びついてくる。名前を認識したのか、単に声をかけられて喜んだだけなのかは謎だ。まあ、森狼という面倒くさい呼び方が解消できれば、本人の認識はどちらでも良かった。人間だと名前の魔術の制約があるので、こう適当ではいけないのだが。


名前の魔術は、起源すらわからない程古くから存在する魔術で、人間にとって生まれて一番初めに触れる魔術でもある。


『聖国物語』では話の進行上あまり重要ではなかったのか、この魔術については軽く触れる程度だった。しかし、旅の始めの頃、アリアはあるひとつの家族に出会った。彼らは古い魔術を良く知り、アリアに様々な事を教えてくれた。その時にこの名前の魔術についても詳しく教わり、この世界に於ける重要さに驚いたものだった。


この世界で人間は、出産によってこの世界で生まれ落ちただけでは、まだちゃんと生まれたとは言えないのだ。名前を付けられて初めて、一人の人間として成り立つ。名前が付けられるまでは、魂が半分しかないようなものらしく、簡単に死んでしまうのだそうだ。


だから一度与えられた名前は重要だった。例えば偽名などを使うことも出来なくは無いのだが、偽名を使う度に酷い不快感があり、魂も実際に摩耗されていくのだという。


『魂が摩耗されるって、どういう事なの…?』


イメージすることが難しく、アリアはそう尋ねた。何故ならアリアは、その家族に出会った時点で有沙でもないナタリアでもない、偽名であるアリアを名乗っていた。しかしそのような、魂が削れる不快な感覚は無かったのだ。


尋ねた相手は不安そうなアリアをなだめるように撫でて、『見た所、あんたの魂は削れちゃいないよ。意識の持ち主である有沙、肉体の持ち主であるナタリア。その両方の響きを持つアリアと言う名は、偽名として世界が判断していないのかもね』と答えた。


ただ旅をしている内にアリアは、彼らに教えてもらった偽名を使う人間の特徴が、一つだけ自分にも当てはまる事に気付いた。それは、人の記憶に残り辛い事だった。


旅をしていると、不思議な偶然で全く違う場所で別れた人に再び出会う事がある。しかしその時、相手はアリアの事を覚えていなかった。単に自分の印象が薄いだけであれば単なる悲しい話なのだが、どうもそうでは無いようだった。


『名前っていうのは、魂の輪郭でもあるからね。あんたは今、複数の名前を持っている。それがどこかで、支障を出さなければ良いけれど…』


彼らが今、アリアの事を覚えているかどうかは定かではない。


***


数時間歩いた所で、見晴らしの良い場所に出たのでお昼にする。


キヌカの宿のおかみさんが二人分持たせてくれた、燻製にした鱒とチーズのサンドイッチだ。ウルにも一応餌として干し肉を用意していたが、勝手に森に入ってあっという間に野うさぎを捕まえていた。


食後にはアリアが道中摘んできた、秋に咲く青紫の小さな花を煮出してお茶にした。この花は疲労回復に効くのだ。良い香りのするお茶を啜りながら、二人は広げた地図を覗き込む。


「それで、北上の道すがらにある、森狼を預けられそうな場所はどこになるんだ?」

オスカーの問いに、アリアは地図の中のある一点を指した。

「こちらの森を目指します」

「……この森、俺も聞いたことがあるよ」

「はい、人嫌いで変人のザルツストラーダ伯爵が所有している、ザルツストラーダの森は有名ですよね」


オスカーは目を閉じ、頭が痛そうに額に手を当てた。アリアは無理もないよねとその様子を眺めつつ、説明を続けた。


「このザルツストラーダ伯爵というのが魔力変異の動物研究をしている方なんですよね。人は大嫌いだそうですが、獣には優しい人間と聞いているので、安心してウルを預けられるかなと」

「…この森、危険な生物がうじゃうじゃいて、生きて出てきた人間はいないって聞いたことがあるけれど」

「正式な手続きを持って伯爵からの送迎があった客人は、ちゃんと生きて出られてますよ」

「君は正式な手続きが出来る立場なのかい?」

「しがない旅人にそんな伝手はありません…。無許可でも、獣に食われず屋敷まで辿り着いた人間には、敬意を持って歓待してくれるそうなので大丈夫かと!」

「何も大丈夫な気はしないな…」


秋の澄んだ晴天だった空に雲が落ち、日が少し陰ってきた。森狼を送り届ける旅は、まだ始まったばかりである。

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